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第22話 修練の始まり

朝の光が薄靄うすもやを透かし、山頂の空き地に降り注いでいた。


イノは小屋の前に立ち、手を上げて扉を叩いた。


木の扉が軽く鳴り、ゆっくりと開いた。


セレイナが扉の奥に静かに立っていた。


声は淡い。


「入りなさい」


「おはよう」


イノが中に入り、見回した。


「もっと何か特別な仕掛けでもあるかと思った」


セレイナは答えず、一歩前に出た。


近い。


極めて近い。


イノの頬が熱くなり、反射的に半歩退いた。


「な、何だよ?」


彼女が指先をそっと持ち上げた。


木の床板の下から、銀光が走った。


術式じゅつしきの紋が蜘蛛くもの糸のように広がり、一瞬で網を織り、二人をゆがんだ光の中に巻き込んだ。


「しっかり立って」


天地が、ひっくり返った。


光が散ったとき、小屋の扉はもう閉じていた。


——————


無重力が体を叩いた。風が意識を引き裂く。


イノが目を開けた。


足の下は、高いがけの上だった。


遠くにもやがかかり、ロワク城砦じょうさいとグランソワ学院がうっすらと見えた。


セレイナが振り返り、前方を指した。


空き地に丸太まるたの束が四つ、横たわっている。どれもイノの頭半分以上の高さがあった。


かついで走りなさい」


イノは迷わなかった。


腰を落とし、一番近い束を抱え上げた。


重さに体が沈み、膝がつきかけた。


空気が一気に薄くなった。


「突っ立ってないで。走りなさい」


イノが足を踏み出した。


最初はまだ脚が上がった。


すぐに筋肉がけ、喉が裂け、汗が髪の先から滴り落ちた。


視界が白く飛び始めた。


どれだけ経ったかわからない。地面が下りに変わった。


「止まりなさい」


イノが丸太を手放した。


地面に落ちた衝撃で砂埃すなぼこりが舞い上がった。


肩の皮はとっくにけ、血が背中を伝っている。


地面に膝をつき、大きくあえいだ。


「待って……もう……力が……」


「なぜ……息ができないんだ?」


セレイナが手を上げた。温かな気配がイノの体に流れ込んだ。


イノは目を見開いた。


傷口がみるみるふさがり、血の跡が退いていく。尽きたはずの体力が戻ってくる。


だが痛みは消えなかった。


筋肉の中を火が這い回るように、むしろ前よりはっきりと、鮮明に灼いている。


「神話では、天使が疲弊ひへいした軍勢の戦意を蘇らせた奇跡きせきがあるって……」


かろうじて目を上げた。声に驚愕がにじむ。


「まさか……悪魔にもできるのか」


セレイナの目が冷たかった。


「物語も間違ってはいない」


ひと拍。


「もっとも、今のあなたには、悪魔の手で十分」


「さあ、続けなさい」


「今?」


「今」


セレイナの声に、交渉の余地は一切なかった。


イノが顔を上げた。首筋の青い筋が浮いている。


せめて十秒——それだけでも。


だがセレイナはただ見ていた。何の反応もない。


イノが再び丸太を担いだ。


さっきより、重い。


よろめきながら、歯を食いしばって呟いた。


「あんた、本当に人間じゃないな……」


言い終わらないうちに、丸太の重さがさらに一段落ちた。


不意の加重にイノは丸太ごと坂を転がり落ちた。


砕石と泥が体に叩きつけられる。


「うぐ——ああっ!」


めちゃくちゃに転がり、地面に潰れた。


「起きなさい。続けて」


セレイナの声が、上から降ってきた。


——————


空がだんだんと暗くなっていった。


「はあ……やっと終わった」


イノが丸太を投げ捨て、地面に崩れ落ちた。


次に目を開けたとき——空がまた明るくなっていた。


鳥の声が聞こえる。太陽はまだ山の腰にある。


「なっ……何だ?! どうなってる?!」


「時間が長く感じただけ」


「どういうことだ?」


セレイナが目を上げた。


錯覚さっかくよ。一日経ったと思ったでしょう? まだほんの少ししか経っていない」


イノは呆然と立ち尽くした。


頭の中がぐわんぐわん鳴っている。


今、自分は起きているのか。それとも夢の中なのか。もうわからない。


空気がさらに薄くなった。


イノの動きがどんどん鈍くなり、そのたびに強引に引き戻された。


自分が生きているのかどうかすら、わからなくなった。


山頂に残ったのは、イノのあえぎだけだった。


上半身ははだか。全身に乾いた血がこびりついている。


セレイナが歩み寄った。


いつの間にか、手に細い木棒を持っている。


足音がない。


「持ちなさい」


イノは警戒の目で受け取った。


「今の太陽は本物か?」


セレイナはただ手を上げ、指先がイノのまぶたにそっと触れた。


世界が、真っ暗に落ちた。


イノが叫んだ。木棒が手から滑りかけた。


「な……何をした?! 見えない!」


慌てて後ずさる。足がもつれた。


「やめろ——! 戻してくれ!」


自分がまだ存在しているかどうか確認できない恐怖。


ほとんど懇願こんがんだった。


セレイナの声が、四方から響いた。


「イノ・ストヴォーク——恐怖を抱きなさい」


——ドン!


重い一撃が、胸とあばらに叩き込まれた。


イノが吹き飛び、地面に落ちた。


「うぐっ——ああっ!!」


肋骨を抱え、吐血しかけるほどの痛み。


二撃目が背後から来た。


「何をしてるんだ!」


イノが木棒をでたらめに振った。


叫んだ。


「待ってくれ——やめろ! 見えるようにしてくれ!」


もう一撃。


倒された。


「吠えても無駄」


セレイナの声がしものように冷たかった。


「愚かな怒号は、死を早めるだけ」


イノは地面に伏せ、全身が震えていた。


木棒を握っているのに、どこへ振ればいいかわからない。


「こんなの……どうしろっていうんだ……」


「立ちなさい」


セレイナが一語ずつ区切った。


「立て……ない……」


「立ちなさい!!」


その一声がかみなりのように弾け、イノの暗闇の中に響き渡った。


イノが体を起こした。


木棒が掌の中で滑り、震えている。


かすかな風の振動を、拾おうとした。


「ただ……見えないだけだ」


イノは繰り返した。暴れる鼓動こどうを押さえつけるように。


ふいに、風が動いた。


反射で棒を振った——空を打った。


次の瞬間、すねに激痛。


(落ち着け。もっと落ち着け。)


また一撃。棒が脇腹わきばらかすめた瞬間、イノも振り返した。


パシ。


セレイナの衣の端を掠めた。


彼女が少し止まった。


かすかに笑った。


小賢こざかしいわね……でも、掠っただけでは当たったうちに入らない」


イノが音を頼りにもう一振り。


セレイナが軽く身をさばいた。


ドン——!


胸にまた棒が入り、重く倒れた。


「怒りは毒」


セレイナがイノの前に立ち、見下ろしていた。


「感覚で、恐怖を押さえなさい」


イノは倒れ、立ち上がり、倒れ、また立った。


何度も。何度も。


夜が落ちるまで。


セレイナがようやく、静かに言った。


「今日はここまで」


地面に倒れたままのイノの額に、冷たい指が触れた。温かな気配が流れ込み、光が目に戻った。


イノが手を上げ、掌の中の——もう握りすぎて歪んだ木棒を見た。


セレイナがゆっくりと歩み寄り、見下ろした。


「よく頑張った」


——————


夕暮れが近づいていた。


イノは痛む体を引きずり、セレイナの後ろをついて歩いた。


彼女の足がわずかに止まった。


振り返り、イノを一瞥した。


「これは——」


手を上げた。


漆黒しっこく横刀おうとうが、音もなく掌に現れた。


刀身は真っ直ぐで細長く、夜のように黒い。月の光が刀面に落ち、一筋のきっさきが映った。


東方とうほうの刀」


セレイナが差し出した。


「俺に?」


イノが刀を見つめた。


「指輪の次は武器か……」


「持ちなさい」


セレイナの声は淡い。


「あなたには必要なもの」


刀をイノの手に押し込んだ。


「これも契約の一部」


イノがつかに触れた瞬間、冷気が掌から血脈にみた。


「おお……」


両手で刀を捧げ持った。


刀身は漆黒。


つばのそばの金属の装飾は極めて簡素で、黒革くろかわが柄に密に巻かれている。手に取った瞬間、吸いつくように安定した。


(俺の……刀。)


指の腹がやいばの口を撫でた。


銀白の線はほとんど見えないほど細いのに、心臓がひとつ跳ねた。


イノの目に、少年の輝きが宿った。


「先生、これは何でできてるんだ?」


セレイナがちらりと見て、わずかに顔をらし、耳のそばの髪をいた。


「重要じゃない」


「え?」


イノが目を丸くした。


「先生のじゃないのか?」


「道で拾った」


ひと拍。


「私には使い道がない」


「じゃあこの指輪は? 物を仕舞えるし、あの食頭魔クラニウム・デーモンの一撃も防いだ。魔導器まどうきなのか?」


イノが手を上げ、指輪を見せた。


「まあ、そんなところ」


セレイナが目を上げた。


「ただ、あの機能があるとは思わなかった」


「先生も知らなかったのか?」


セレイナが軽く咳払いした。


「ただの収集家よ」


イノがじっと見つめた。


(……見たものを片っ端から拾ってくる人なんじゃ。)


セレイナがその視線に気づいた。


「この刀は、夜闌やらんという」


少し止まった。


「見つけたとき、そこに刺さっていた」


「何?」


「傍に石があって」


彼女がわずかに記憶をたどり、ゆっくりとうたった。


「夜深く江湖こうこ遠く、冷月れいげつ孤影を照らす。刀は人の跡とともに隠れ、夢の中に刀のぎんを聴く」


イノはぽかんと聞いていた。


頭を掻いた。


「どういう意味?」


セレイナは答えなかった。


イノがぼそりと呟いた。


「……何でも拾うんだな」


セレイナが眉をわずかに上げた。


「何か言った?」


「い、何でもない!」


イノが慌てて手を振り、目を落として夜闌を眺めた。


セレイナの口の端が上がった。


「残念だけど、刀の使い方は教えられない」


「でも、いい師を見つけてあげられる」


イノの顔色が変わった。即座に半歩退いた。


「どういう意味だ……」


手が刀の柄をそっと握った。


風が刃の口をかすめた。


「東方……禹煥ユーアン?」


イノが小さく呟いた。脳裏に、言川げんせんの背中が浮かんだ。


セレイナが背を向けた。


「自分で試してみなさい。好きに振ってみて」


手を振った。


「疲れた」


イノはその背中を見つめた。


もう何も言わなかった。


刀を持ち上げた。


軽く、一振り。

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