第21話 目立つ
ロワク城 小さな町 午後
苔に覆われた石橋が、浅い灰色の谷川に架かっている。水が橋杭を叩く音がする。
イノは橋の真ん中まで来て、後ろを歩くセレイナをちらりと振り返り——
ぱちん、と自分の頬を抓った。
セレイナが首を傾げた。イノの頬に、くっきり赤い跡がついている。
息を吸い、小声で呟いた。
「やっぱり夢じゃないんだな……」
セレイナの外套は沈んだ藍の色で、裾がめくれると裏地は黒い絹だった。
香りが彼女の足元からそっと広がり、風が橋の欄干に沿って引いていく。
対岸で釣りをしていた男が、ぐいと顔を上げた。こちらを何度か見た。
橋を渡ると、砕石を敷いた小道に出た。両脇の葦が頭より高く伸び、風に揺れている。町の木柵と低い石壁がもう前に見えた。
イノが気合を入れ、案内役を始めた。
「あそこが町で一つしかない酒場。ハーンのおじさんが見つからないときは絶対あそこにいる」
言い終わらないうちに、後ろで「がん」と音がした。
水汲みの男が桶を石の欄干にぶつけ、水が飛び散った。
イノが振り返り、少し怪訝な顔をした。
「敷布を買うなら城内の仕立屋だ。そこまで行こう」
振り向いて返事を待ったが、フードの中から「ん」と小さく聞こえただけだった。
木柵から城の石門まで、ゆるい坂が続く。
イノは石ころを蹴りながら下っていった。
口の中でぶつぶつ言う。
「造物主はなんで先に俺たちを造ったんだろうな。人間なんて、どう見ても上等な造りじゃないだろ」
肩をすくめた。
「なのにあんたたちは俺たちのあとなんだから——思ったより格上じゃないか」
セレイナは答えず、フードをもう少し深く引いただけだった。
イノが頭を掻き、乾笑い《からわらい》した。
城門の塔の下、守衛が二人、槍を交差させて立っていた。
右側の年配が目を細めた。
「今日はエリーナは来てないのか。お前、何しに城へ?」
「買い物!」
年配の守衛がからからと笑った。
「最近、難民が増えてるからな。うろちょろするなよ、エリーナに迷惑かけるんじゃないぞ」
左側の若い守衛は笑わなかった。
「外で盗賊も出てる」
二人の目が同時にセレイナへ移った。
香りが風に乗り、兜の隙間から忍び込んだ。
二人の目がわずかに揺れた。何度か瞬いたが、焦点が合わない。
「こちらは……」
若い守衛がどうにか口を開いた。礼節をかろうじて保っている。
「住民ではないようですが、入城には銅貨一枚いただきます」
セレイナが顔を上げた。
声は柔らかく、ほとんど囁きだった。
「融通してもらえないかしら?」
言葉が落ちた瞬間、香りが半分濃くなった。
「は……はい」
若い守衛がぼうっと頷いた。
「あの、お顔の確認を……」
セレイナの袖がわずかに動いた。あの香りが、ふっと止まった。
若い守衛がびくりと体を震わせ、目に少し正気が戻った。
イノがすかさず口を挟んだ。
「遠い親戚のおばさんだよ。肌が弱くて、陽に当たれないんだ」
守衛二人が顔を見合わせ、気まずそうに兜をずらし、道を空けた。
城門の影に入ると、光が一段暗くなった。
イノはようやく気づいた。セレイナからずっと漂っているあの香りは、ただの「香り」ではないのかもしれない。
「あんた、何かしたろ?」
セレイナが軽く笑い、身を屈めてイノの耳元に寄せた。
低い声。
「早く買い物に行きなさい」
「待てよ、まだ教えてもらって——」
——————
風鈴が鳴り、仕立屋の中から馴染みの麻布の匂いが漂ってきた。
「少年、何がいるんだい?」
店主の声は穏やかだった。
「敷布にできるやつ……丈夫なの。あんまり高くないやつで」
「自分用?」
「はい」
店主が頷き、棚から黄ばんだ粗麻の巻きを引き出した。
「七銅で一尺。だいたいみんなこれだよ」
「もうちょっと安いのは?」
店主が眉を上げ、身を屈めて灰褐色の染め損ないの綿布を引き出した。
「これなら。見た目は悪いが寝るぶんには問題ない」
「いくら?」
「六銅」
「六銅もちょっと高いんだけど……」
「随分値切るな、坊主」
店主がイノを一瞥し、笑った。
「少年、布を買いに来たのか、店を潰しに来たのか?」
イノが爪で布の端を引っ掻き、二度擦った。
「敷布二枚、一枚で最低三尺、縁を足したら四尺……これだけで銀貨一枚近くなる」
指を折って計算しながら、渋い顔をした。
そのとき、セレイナがいつの間にか店の奥に入っていた。
高い位置に吊られた布の前で足を止め、指先でそっと一角を持ち上げた。
黒の天鵞絨だった。毛足に光があった。
セレイナはひと目見ただけで、静かに言った。
「これがいいわ」
店主全身が一度震えた。
「あっ——これ、これがお気に召しましたか?」
声が一変した。小走りで駆け寄り、手を揉んでいる。
「これは新入荷の上物でして、手触りが格別で——裁断、縁縫い、始末、全部無料でやらせていただきます!」
「ありがとう」
セレイナが微笑んだ。
淡い笑み。だがそこには「当然そうするでしょう」という自然さがあった。
「いえいえ、とんでもない!」
店主はもう手を動かしていた。布を裁板に乗せ、顔を赤くしながらも、彼女を直視できずにいた。
イノが声を上げた。
「おい、さっきまで俺と銅貨の話で揉めてたじゃないか!」
店主が振り返り、口ごもった。
「あ? あれは……あれは普通の布だろう……こちらのお嬢さんがお気に召したとなれば……ものが違う」
「すぐにお仕立ていたします……お任せを」
「ん」
セレイナが応じた。
「……お嬢さん?」
イノが低く繰り返した。
「えーと……なんとお呼びすればいいか」
店主が頭を掻いた。
「失礼じゃないんですが、あの……この方はちょっと普通の——」
「人間?」
イノの口から出た。
店主が口をぱくぱくさせたが、手は無意識にセレイナの方へ布を押しやっていた。
セレイナが、きっちり包まれた天鵞絨をイノに渡した。
「持って」
「……この布、いくらするんだ?」
「お代はいらないって」
セレイナが軽い足取りで歩き出した。
「さっき『何かしたのか』って訊いたでしょう?」
「今わかったでしょ」
イノは布を抱えたまま、数秒固まった。
「……これ、ちょっと反則じゃないか?」
「これだけいい布を使うんだから、家事はしっかりやってもらうわよ。毎日きちんと畳むこと」
「は?」
「少なくとも毎日畳みなさい」
「はぁ——?」
——————
イノは布を抱えて、通りの端を歩いていた。
鍛冶屋の前を通りかかったとき、つい足が止まった。
店の中で火が跳ね、鉄槌が規則正しく落ちている。打鉄の音が鈍く空気を震わせていた。
鉄砧の上に、まだ形のできていない剣の素地が嵌まっていた。刃はまだ磨かれておらず、形もぼんやりしていた。
イノはしばらくその鉄の光を見つめた。布を抱えた腕の下に、ひと筋の皺が寄っている。
自分の剣を持つことを、夢に見たことはあった。
だが結局、軽く首を振り、前を向いた。
セレイナが数歩先を歩いている。
行き交う人々がまばらに、小さな屋台が路地の入り口で声を張り、子供が蝶を追いかけて走り、馬車の車輪が石畳を擦って軽く鳴った。
だが彼女が通り過ぎた場所では、人が立ち止まり、踏み出した足が引き戻されていた。
エプロン姿の中年の女が子供の手を引いて歩いていたが、ふと夫の目がおかしいことに気づき、ぐるりと振り返って額を叩いた。
「どこ見てんのよ」
男がびくりとして、気まずく目を逸らした。
周囲を見回し、振り返る人々の顔を見た。
口が動いたが、何も言わなかった。
目を落とし、手の中の——柔らかすぎて、高すぎる天鵞絨を見た。
足を速めてセレイナに追いつき、ぼそりと言った。
「もうちょっと控えめにできないのか?」
セレイナは振り向かなかった。
「精一杯やってるんだけど」
「はぁ——?」
——————
日が傾き、森の奥がゆっくりと静まっていった。窓に灯りが一つずつ点る。
屋内で、イノが窓を閉め、木栓を差した。
部屋の中を見回し、小さく溜め息。
腰を屈め、丁寧に敷布を広げた。枕を叩いてふっくらさせ、掛布は皺ひとつなく伸ばした。床の埃まで、古い布で拭いた。
背後で、衣擦れの微かな音がした。
振り返ると、セレイナがもう外套を脱いでいた。
黒い長髪がほどけて垂れ、炉端の低い椅子にさりげなく座っている。
火の光が、その目の中で揺れていた。
あの夜が、イノの頭に浮かんだ。
(これは本当に、俺が選んだことなのか?)
セレイナが不意に訊いた。
「何を考えてるの?」
イノが我に返った。
「安心して」
セレイナが淡く笑った。目が炉の中の熾火に落ちている。
「操ってなんかいない。あれはあなた自身の望み」
イノは黙って、頷いた。
「明日の朝から、ここで稽古を始める」
セレイナが静かに言った。
「あ? うん……」
もう一度頷き、つい訊いた。
「今夜はうちに食べに来ないのか?」
「今夜はいいわ」
「……悪魔って飯食わなくていいのか?」
セレイナは答えなかった。眉をわずかに上げただけで、目も開けなかった。
相手にもされていない。
「じゃあ帰るぞ。おやすみ」
イノが戸口に立ち、手を門の枠にかけた。
振り返った。
セレイナが窓辺に寄りかかっていた。
傾いた陽が顔の上を光と影に切り分けている。
扉がそっと閉まり、かちりと鳴った。
イノは扉に背を預け、ひとつ息を吸った。




