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第20話 落影

窓の外の風は軽く、屋内にはまだ朝食の香りが残っていた。


イノが扉を開けて入ると、エリーナがわんを片づけているところだった。


「おもてなし、ありがとう。お姉さん」


セレイナが少し間を置いた。


「そろそろ失礼するわ」


「お、お姉さん?」


イノが顔を上げた。


エリーナがセレイナの顔を見ている。視線がフードの縁に落ちた。


「セレイナ先生……お住まいはもうお決まりで?」


セレイナが首を振った。


「まだ」


イノがちらりと見た。


「じゃあハーンのおじさんの家に住めばいいだろ」


エリーナの手が卓の上で止まった。指のふしがわずかに締まる。


「それは駄目」


「誰もいないんだし、あそこでいいだろ」


「口を挟まないの」


エリーナがイノの頭をぱしりと叩いた。

二人を一度見て、め息をひとつ。


棚の前へ行き、かぎを取り出した。


「イノ、あの家をきれいにしてきなさい。銭袋ぜにぶくろも持っていって、足りないものは買いなさい」


鍵をセレイナに渡した。


「先生、食事はうちに来てくださいね。遠慮はいりませんから」


セレイナが鍵を受け取り、エリーナを見た。


「ありがとう」


少し間を置いて、小さく言った。


「お姉さん……優しいのね」


エリーナは碗を片づけに戻った。何も答えなかった。


セレイナがイノに向き直った。


指先でイノの肩をそっと押す。


「さあ、先生の手伝いに行きなさい」


「いや、押すなって……」


口では文句を言いながら、足はもう外に出ていた。


扉が閉まった。


空気がふたたび静まり、食器の軽い音だけが残った。


——————


午後の光が木の葉をかし、地面に砕けている。


二人はしばらく無言で歩いた。


やがてセレイナが口を開いた。


「昨夜、あなたの母さんと長く話したの」


イノはすぐには答えず、横目で彼女を見ただけだった。


「あなたはいつまでもここにはいない」


セレイナの視線は前を向いたまま。


「あの人は、とっくにわかっている」


イノの足がわずかに遅れた。彼女を見た。


「……あんた、いったい何なんだ?」


「知ってるでしょう?」


「信じると思うか?」


「答えろよ」


セレイナがしばらく黙った。


秋風が外套がいとうの裾をわずかに持ち上げ、彼女は目を落として足元の小道を見ていた。


「もうすぐ秋だね……」


「セレイナ——」


イノの声が強くなった。


「ええ」


セレイナがかすかに笑い、イノの目をまっすぐ見た。


「悪魔よ」


イノの瞳孔どうこうがわずかに縮んだ。


重い足取りで、前へ進み続けた。


「教えてくれて、ありがとう」


「その顔を見ると、最初から人間じゃないと決めつけてたでしょう?」


「つまらないわね」


イノが足を止めた。


「あんたが何を求めてるのか、わからない」


「でも頼む。エリーナを傷つけないでくれ」


「イノ・ストヴォーク」


セレイナが一拍置いた。


「約束する」


イノが長く息を吐いた。


セレイナの目にからかいが混じった。


「ただし、条件がある」


「言ってくれ」


「言うことを聞きなさい」


「は?」


イノが首を振った。


「言うことを聞く?」


「当たり前でしょう。弟子が師に逆らってどうするの?」


セレイナが背を向け、先に歩き出した。


イノは唇を引き結び、ついていった。


——————


二人は林の端の農家のうかの前で止まった。


木壁は歳月にかれて深い褐色かっしょくになり、まだらな木目に光が潜んでいる。


屋根には厚いかやかれ、門口にまきが積まれ、乾いた木の香りが漂っていた。


「ここだな」


戸軸とじくが低い声を出した。


中は整っていた。火炉かろが壁際にあり、古い盾がびをまとって立てかけてある。木の寝台に麻の毛布。


「ハーンのおじさん、きちんとしてるんだな」


イノが何気なく言った。


セレイナは答えなかった。


卓に歩み寄り、指先で木の面を撫でた。目が壁にかかった弓と剣の間で止まった。


イノが少し笑った。


「ハーンのおじさんはこの辺りで一番腕のいい猟師りょうしだ。一人で狼の群れを相手にできるんだぞ」


言い終わらないうちに、金属の音が空気を裂いた。


セレイナがもう剣を抜いていた。


窓の隙間から陽が落ち、やいばが一瞬光った。


「まず、体をきたえる」


「え? 魔法を教えてくれるんじゃないのか」


セレイナが剣をさやに戻し、イノに目を向けた。


「手を出す前に、もう倒れている」


イノがまばたいた。


「焦るな。今のあなたには、手を出す機会すらない」


セレイナはそう言うと、さっとベッドの端に座り、布を軽く叩いた。


「ここ、新しい敷布しきふがいるわね。あとは大丈夫」


静かな間。


イノはずっと迷っていたが、やはり口を開いた。


「それで……悪魔って何なんだ?」


セレイナの指が、ほとんど見えないほこりをひと撫でした。


「子供の頃に聞いたお話と同じ?」


「セレイナ——」


イノが無意識に指輪ゆびわに触れた。


「あの夜、あんたがいたのは知ってる。でなければ——」


「私もあなたをらうかもしれないわよ?」


セレイナがさえぎった。少し冗談めいた声だった。


「えっと……」


彼女が目を上げた。少し真顔になっている。


「ん? 今、何て呼んだ?」


イノがはっとした。


「……先生」


「よろしい」


セレイナが立ち上がり、窓辺に歩いた。


陽が肩に落ち、外套の端がかすかに光った。


「はじめに、造物主そうぞうしゅは天使を創った」


「それから、すべてのものを」


「そして——明るすぎると思い、影を作った」


ひと呼吸。


「その影が、私たち」


「待ってくれ……悪魔も造物主が創ったのか?」


イノはそんな話を聞いたことがなかった。


「私たちは『罪』を地上にまく」


「『罪』? 食頭魔クラニウム・デーモンみたいなものか?」


セレイナの眉がわずかに寄った。


「違う。少なくとも、ああいうやり方ではないはず」


「じゃあなんであれが現れたんだ?」


しばらくの沈黙。


「わからない」


イノの眉がきつく寄った。


「あんたたちの言う『秩序ちつじょ』って、いったい何を守ってるんだ?」


「あんたたちがいなければ、この世はもう少しましなんじゃないのか?」


セレイナの笑みがわずかに止まった。


「いいえ、イノ。苦しみは、私たちが運んだものじゃない」


「もともと、そこにあるもの」


「夜は、太陽の過ちではないように」


イノはぼんやりと彼女を見つめた。


頭の中を、一瞬でいくつもの影がよぎった。エリーナの背中。ローナの笑顔。すべての人たち。ユージンやマルさえも。


「でも夜の中で、全員が火を持てるわけじゃない」


「あんたたちは、その人たちのことを考えたことがあるのか?」


セレイナが静かに言った。


「それらは、もともとあなたたちの中にあるもの」


風が窓帳まどばりを揺らした。


部屋が一瞬、呼吸の音だけになった。


イノが窓の外を見た。


「じゃあノルマはなんであんなことをするんだ?」


「ノルマ?」


セレイナが笑った。


「そんなものは存在しない」


「存在しない? 帝国中に教会があるだろう」


「あれは、帝国の人間が自分に語り聞かせている物語」


「物語? じゃあなんで——」


イノの声に力がこもった。


「造物主はなんで、俺たちをこんなに苦しくさせるんだ?」


セレイナが身をかがめ、イノと目の高さを合わせた。


「幸せに、重さを与えるため」


イノは彼女を見つめた。


「それだけか?」


受け入れられなかった。


「じゃあ誰かは泥みたいに生きなきゃいけないってことか……幸せに値打ちをつけるために?」


「俺たちは何なんだ?」


セレイナは答えなかった。


「じゃああんたたちは、引き立て役か?」


「いいえ」


「私たちは、意志を執行するために存在する」


イノが少し止まった。


「じゃあ今あんたがやっていることも、そうなのか?」


窓の外で、枝が風にざわざわと鳴った。


長い間を置いて、セレイナがようやく小さく口を開いた。


「わからない」


イノが口を開き、もう一問しようとしたとき、セレイナが手を上げて止めた。


「あなたは多くを知る必要はない」


「あなたの前に姿を見せたこと自体が、すでにおきてに背いている」


「私たちはもとより、ここには属さない。あなたと私は……本当の意味では交わらない」


「でもあんたは——」


イノがまだ言いかけたが、セレイナはもう立ち上がって扉を押し開けていた。


風が外套をすくい上げ、影が陽の中に長く伸びた。


「ぼうっとしてないで、買い物に行きなさい」


イノがつい顔を上げた。


セレイナが振り返っていた。


目の端に、砕けた光が宿っている。


あの目の中に、声のない哀しみがあった。

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