第19話 別れ
イノは夢からはね起き、渋い目をこすりながら、重い足で食卓へ向かった。
卓のそばに、セレイナが座っていた。
陽の光が黒い髪を撫で、柔らかな光輪を浮かべている。
絵のように、静かだった。
外套は椅子の背にかけてあった。ゆっくりと朝食をとっている。
イノは入り口で足を止めた。
目が、勝手に彼女の上に留まった。
一瞬、胸が沈んだ。
静かすぎる。
昨夜、魂を求めてきた相手だということを忘れそうになるほどに。
セレイナがゆっくりと振り向いた。
口の端に、からかうような笑みが浮かぶ。
「おはよう……若き熊殺者……?」
イノの眠気が一瞬で消えた。
目を剥いた。耳の付け根が熱くなる。怒りなのか何なのか自分でもわからない。
「お前……!」
セレイナはパンをひと切れちぎり、ゆっくりと口に運んだ。
「お前——」
イノが口を開きかけた瞬間、セレイナがすっと人差し指を唇に当てた。
静かに、と。
それから窓のほうへ軽く顎を向けた。
「外を見て」
イノが怪訝に視線を移した。
庭で、エリーナとハーンが低い声で話していた。
ハーンは真新しい甲冑を身につけている。胸にはクリステル侯爵の家紋。全身に気合が漲っていた。
イノの目が輝き、扉に手をかけようとした。
「待ちなさい」
セレイナが低く言った。声にわずかな諦めが混じっている。
「何をしに行くの?」
「ハーンのおじさんは俺の友達だ。行くに決まってるだろ」
イノが眉をひそめた。
セレイナが椅子の背にもたれた。
「もう一度、見てごらん」
イノが苛立って振り返った。
エリーナが腕を組み、複雑な表情をしている。ハーンはまっすぐ立っていた。
「何を話してるんだ?」
「座って食べなさい」
セレイナが杯を取り上げ、熱い茶をひと口含んだ。
淡々と。
イノは少し迷い、結局座った。
俯いて食べながらも、ちらちらとセレイナを見てしまう。
彼女が茶杯をそっと置き、わずかに首を傾げた。
意味ありげな微笑。
「どうしたの?」
セレイナが不意に口を開いた。目がイノに戻っている。
「また見惚れてた?」
イノが引き戻された。
「お前……!」
諦めて目を伏せ、皿だけを見た。
しばらくして、口を開いた。
「契約のこと……何も変わった感じがしない」
途中で顔を上げ、セレイナの様子を窺った。
彼女は立ち上がり、窓辺に歩いた。背を向けている。
「気が変わった」
イノが止まった。
「え?
……どういうこと?」
「これから、いくつか教えることがある」
セレイナがゆっくりと卓に戻り、座り、茶を一口含み、置いた。
目がまっすぐイノを見た。
「だが、あなたが欲しいものは、自分の手でつかみなさい」
イノが眉をひそめた。
(じゃあ俺の魂は?)
口を開いた。
「契約は……昨夜のあれは何だったんだ?」
セレイナは答えず、俯いて食事を続けた。
表情が冷たく、イノに無力感が走った。
「あのことは、母さんには言うなよ」
「ええ」
——————
同じ頃、屋外。
陽が小さな庭に差し、炊煙がゆっくりと上がっていた。静かだった。
エリーナが腕を組んでいる。
ハーンが神妙な顔で呼び出した理由が、まだわからない。
向かいのハーンは真新しい甲冑を着ていた。だがその表情には、迷いがあった。
エリーナが軽く咳払いした。声にわずかな戸惑い。
「ハーン、その格好……どこに行くの?」
ハーンはすぐに答えなかった。
「エリーナ、発つ前に……一つだけ、言っておかなきゃならないことがある」
深く息を吸った。
「この何年か、お前たちのそばにいたのは、義理だけじゃない」
エリーナが一瞬止まり、目を伏せた。
「わかってる」
袖を握り締めた。
「でも、私には無理なの」
「あの人のこと、か」
エリーナが静かに頷いた。
「まだ……手放せない。もういないのに」
ハーンがしばらく黙り、苦笑した。
「わかった。ただ、腹に溜めたまま終わりにしたくなかっただけだ」
息を吐いた。
「イノを呼んでくれるか」
エリーナが頷き、ゆっくりと屋内へ向かった。
その背中が、少し重かった。
——————
「イノ、ご飯はあとでいいから。ハーンおじさんが呼んでるわ。行ってきなさい」
エリーナの声が、いつもより沈んでいた。
イノが頷き、扉を押し開けた。
ハーンが庭の真ん中に立っていた。
イノが出てくるのを見て、温かい笑みが浮かんだ。
手を上げて、振った。
「臭いガキ」
イノの目が、ハーンの胸元の家紋に落ちた。
「侯爵の命令? それともおじさんの意思?」
ハーンが一瞬きょとんとし、それから大きく笑った。
歩み寄り、イノの肩を掴む。
「俺の意思だ。侯爵に頼んで、行かせてもらった」
「アエリオさんのこと?」
ハーンの笑みがわずかに固まった。
胸を張り、甲冑を見せるように。
「心配するな。侯爵直々《じきじき》の特使だぞ」
少し間を置いた。
「……やらなきゃならないことがある」
イノが黙った。
目を伏せ、しばらくして顔を上げたとき、隠せない名残惜しさがあった。
「ハーンのおじさん、いなくなったら……俺、どうすればいいんだよ。俺の友達、おじさんしかいないのに」
ハーンが一瞬止まり、それから笑って肩を叩いた。
「お前は学院に行くんだ。道はまだ長い。いつまでも俺のことばっかり考えてるなよ」
ひと呼吸置いて、笑みが戻った。
「俺が戻ったら、必ず力になる。そのときは、誰にもお前をいじめさせない」
イノが頭を下げた。
「ハーンのおじさん、推薦状が……」
言葉が唇の上で、息に変わった。
「ん? どうした?」
イノが首を振った。
ハーンがじっと見つめ、急に表情を引き締めた。
「イノ、聞けよ……」
一語ずつ、刻むように。
「次に会うとき、俺は騎士を見たい」
「お前にはその力がある。自信を持て。俺はお前を信じてる!」
力を込めて肩を叩いた。声が大きく、揺るがなかった。
「それと——お母さんを頼んだぞ!」
イノが口を開きかけたとき、遠くから澄んだ蹄の音が聞こえた。
振り返ると、二騎の騎士がゆっくりと近づいてきた。
甲冑は精緻で威厳があり、馬具は整い、槍の旗が風に開いている。
庭に、ぴりとした空気が混じった。
その後ろに三頭目の馬がいた。装具がとりわけ整い、面甲に繊細な紋が刻まれている。
ハーンがちらりとそちらを見て、長く息を吸った。
イノに向き直り、静かに抱き寄せた。
掌が背中に止まった。
しばらく。
「あとは、お前に任せた」
ハーンが手を離し、馬の前へ歩いた。
片足を鐙にかけ——
ふと、振り返った。
門が開いたまま、エリーナが戸口の脇に立っていた。
二人の目が合った。
どちらも何も言わなかった。
風が庭を過ぎ、甲冑の端がかすかに鳴った。
ハーンが少し笑った。
馬に跨った。
三騎が南へ向きを変え、蹄の音がゆっくりと遠ざかっていった。




