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第1話 城壁の少年I

帝国はまだあった。戦乱が終わった。

だが、血はまだ乾いていない。


鉄樺の乱(てっかのらん)から十四年。

城壁は作り直され、瓦礫(がれき)を押さえていた雪も溶けた。


——————————


窓の外で鳥が鳴いた。

澄んだ、細やかな声。


イノは目を覚ました。


天はまだ明けきっていない。

彼はしばらく横になったまま、外の鳥が窓を啄むのを眺めていた。


やがて身を起こし、ベッドの縁に腰を下ろす。

足元の木の板は少し湿っていた。


服を着る音がした。

小鳥はまだ屋根の上で跳ねていた。


イノは荷物を肩に担ぎ、外へ出た。


町で唯一の酒場の前を通りかかったとき、

どこかでカタカタと音がした。


道脇の空き地に逆さにされた酒樽がいくつか転がり、

裏口のそばには木箱が積まれていた。


少し離れたところで、見慣れた後ろ姿がつま先立ちになって、

箱の山の一番上に何かを置こうとしていた。


歯を食いしばり、腕を震わせながら力を入れる。

だが箱が滑り――


「危ない」


イノは素早く一歩踏み出し、右手で箱の底を支えた。


「俺がやりますよ、ローナさん」


ローナは驚いて振り向き、

すぐに目尻をほころばせた。


「イノか! 助かった。また頼っちゃったね」


「いえ」


イノは箱を受け取り、一番上にそっと置く。

できるだけ音を立てないように。


ふと振り向いて、ローナを見る。

こんなに近くで彼女を見たのは、いつ以来だろう。


ローナは洗い古した衣を着て、

エプロンを腰にきつく結んでいた。

袖口の酒の染みは、黒く乾いていた。


ローナに別れを告げ、イノは北へ向かった。

空が白み始めていた。


ロワク城の外壁が、朝の光の中に立っている。

城門はまだ開いていない。

街はまだ眠っていた。


エリーナのパン屋は、城に入ってすぐの角にあった。


イノは荷物を裏の厨房に運び込み、手際よく並べた。

ほとんど音は立てない。


エリーナは生地をこねていた。

額の髪がこめかみに張り付いている。


イノが扉をまたいだとき、後ろから声がした。


「……城壁の方には行かないで」


「聞いてるの?」


「……うん」


エリーナはまだ下を向いたまま、生地をこね続けていた。


彼は青石(あおいし)の小道に入り、

半分崩れた古い塀を越えた。


ロワク城西側の訓練場(くんれんじょう)が眼下に広がっていた。


灰白の朝の光の中で、兵士たちが整列していた。

動きは機械のように揃っている。


教官だけが黙って歩き回り、

鞭の柄が盾を叩く音が、乾いた空気にときおり響いた。


イノは塀の陰に身を伏せ、息をひそめた。

見つかれば追い払われる。前にも一度、叩き出されたことがあった。


隊列(たいれつ)の一人がふとこちらを向いた。


慌てて体を低くし、背中を石壁に押しつける。

しばらく動かない。


やがて反対側へ塀を乗り越え、

顔を伏せたまま足早に立ち去った。


それでも、足取りはどこか軽かった。


——————


一本の古い木が、風に傾いて立っていた。


葉の隙間から陽光(ようこう)が差し込み、

土の地面を照らしている。


イノはそこで木の棒を振っていた。


乱れた黒髪が額に張りつき、汗が頬を伝う。

ラベンダー色の瞳が、光の中で淡く輝いていた。


横受け。

手首を返す。

斬り下ろす。


足元の土は、すでに何本もの浅い跡で荒れている。

振るうたび、棒が空中に弧を描いた。


——————


「へえ、騎士様のお出ましかよ」


林の縁から、二人の少年が歩いてくる。

ユージンとマルだった。


ユージンは口を歪め、こちらを見る。

マルはにやりと笑い、不揃いな歯を見せた。


「見てみろよ、その格好。犬が人の真似して歩いてるみたいだ」


ユージンは眉をしかめ、軽くマルの後頭部を叩いた。

「くだらないこと言うな」


マルは首をすくめ、頭をさすった。

「だって本当だろ」


ちらりとユージンを見上げるその目は、

「何か間違ったか?」と言いたげだった。


ユージンは数歩近づき、しゃがみこんだ。

「無駄だよ。自分の身分を少しは考えろ」


イノは何も言わない。

ただ、木の棒を振り続けた。


「夢見るなよ」


マルが鼻で笑い、地面の足跡を蹴る。

「お前は現実が見えてないだけだ」


そのとき、イノの動きが止まった。


顔を上げ、静かに二人を見る。


ユージンとマルの目は、以前とは変わっていた。

リオン・ヴィセスの後ろにつくようになってからだ。


「俺が何をしようと、関係ないだろ」


声は低い。

だが、氷のように冷たかった。


ユージンの笑みが固まる。


舌打ち(したうち)をひとつ。

次の瞬間、蹴りが飛んできた。


イノは体をひねり、きれいにかわす。

土が跳ねる。

棒が走る。


マルの膝裏(ひざうら)を打つ。


「いてっ!」


マルはその場に膝をついた。


ユージンが飛びかかる。


今度は避けきれない。


拳が腰に叩き込まれた。


イノは息を詰める。

だがすぐに滑るように体を引き、力を逃がす。


そして棒を鋭く持ち上げた。


ユージンの体が怒りごと宙に浮き、地面に転がる。


地面には二人が転がっていた。

土を吐き、咳き込み(せきこみ)ながら立ち上がろうとしている。


イノは空いた手で腰を軽く押さえた。

棒は静かに地面へ向けられている。


そのとき――


遠くから馬の(ひづめ)の音。

ゆっくりと、しかし確かな足取りで近づいてくる。


「みっともない連中だな」


リオン・ヴィセスだった。

白銀のマントをまとい、馬の上から見下ろしている。


「殴られるだけでも情けないのに――相手がこいつだと?」


視線が地面のユージンとマルをなめ、

イノへと止まった。


「リオン様」


イノは言った。

「おはようございます」


「イノ」


リオンはゆっくり口を開いた。


「なかなかの度胸だな。僕の連中に手を出すとは」


手綱を引く。馬がイノの前まで進んだ。


「いつまで寝てる。立て」


ユージンとマルは慌てて起き上がる。

その様子は滑稽(こっけい)なほどだった。


リオンは顎を少し上げ、イノを指した。


「さあ――やり返せ」


視線が、遠くの城の方へ流れた。

「たかがパン屋のことで、僕に手間をかけさせるな」


イノの指がわずかに動いた。

だが拳は握らない。


ユージンとマルが左右から飛びかかる。


拳。

蹴り。


土が跳ね、草が散る。


イノはそこに立ったままだった。

拳を上げない。


ただ、風に揺れる一枚の葉を見つめていた。


一つ。

二つ。


やがて――

世界はその音だけになった。

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