第18話 夜の訪問者
ロワク城郊外 イノの家
「イノ!」
エリーナの声に、焦りと怒りが混じっていた。
イノは頭を下げたまま、目を上げられなかった。
エリーナは怒りの限界にいた。
だが顔の痣を見た瞬間、力が抜けた。
「……先に入りなさい。外は冷える」
屋内は暗かった。
エリーナが蝋燭に火を灯し、背を向けたまま、卓の碗を静かに片づけていた。
「顔の傷、本当のところは?」
エリーナの声が、火の向こうから届いた。
「言ったろ……転んだんだ」
碗がぶつかる澄んだ音が、静けさの中でやけに響いた。
「イノ」
木の碗が置かれた。音は大きくない。
「こんな嘘を信じるほど、まだ呆けてないわよ」
イノの目が泳いだ。
「本当に何でもない……」
エリーナが顔を上げた。
その目に、心配と怒りと疲れが、全部あった。
「いつまで心配させるつもり?」
声が急に上がった。
「いつになったら、少しは楽にさせてくれるの!」
「俺はもう子供じゃ——」
その一言が、最後の火種になった。
「心配しないでいられるわけないでしょう!」
エリーナの目が潤んでいた。
「一晩中眠れないのに、あなたは本当のことひとつ言ってくれない」
「本当に大人になったなら……今のその顔を、私に見せたりしないはずよ」
イノが頭を下げた。
「ごめん……」
ここ数日の出来事が、全部胸の上に載っていた。
息が詰まる。
今はただ、逃げたかった。ほんの少しでいい。
エリーナが手を伸ばし、肩を軽く叩いた。
「イノ、何があったのか話して?」
イノは長い間黙っていた。
髪が目の前に垂れ、蝋燭の揺れる光すら遮っている。
エリーナの失望を見るのが怖かった。
もっと怖いのは——聞いた後、彼女が眠れなくなること。
だがもう、退ける場所がなかった。
「母さん、俺は……」
コン、コン、コン——
扉を叩く音が、夜を裂いた。
エリーナの手が止まった。
顔が引き締まり、背筋が伸びた。目が鋭くなった。
「イノ、部屋に入りなさい」
有無を言わせない声だった。
一歩前に出て、イノを背中に庇った。
動作に迷いがなかった。
イノはこんなエリーナを見たことがなかった。
あの穏やかで疲れた女が——今、身構えた獣のようだった。
門の外は、死んだように静かだった。
エリーナは声を出さず、じっと耳を澄ましていた。
コン、コン——
二度目が来た。
エリーナが深く息を吸った。
「……こんな時間に、どなた?」
外が、一瞬静まった。
それから、低く柔らかな女の声が届いた。
「今晩は、ストヴォーク夫人」
声は大きくないのに、木の扉をはっきりと通り抜けた。
イノの体が固まった。
「セレイナ?」
エリーナが眉をひそめ、振り返った。
「誰?」
イノがなだめるように腕に触れた。
「大丈夫。知ってる人だ」
少し迷い、扉に向かった。
閂を外す。
ぎい——
扉が開いた。
セレイナが夜の中に立っていた。
外套のフードが深く下ろされ、細い顎の線だけが見えている。
エリーナが目を細め、相手の顔を確かめようとした。
だが見えない。
「なんで来たんだ……まあいい、入れよ」
イノが溜め息をついた。声に複雑さと、ある種のあきらめが滲む。
セレイナが静かに敷居をまたいだ。
物音ひとつしなかった。
エリーナはふと——部屋が狭くなったような気がした。
セレイナが蝋燭の傍を通るとき、フードをそっと外した。
火の光が、その顔を照らした。
エリーナの呼吸が止まった。
(この女——綺麗すぎる。
人間じゃない。)
「イノ……この人は?」
エリーナの声に、隠しきれない動揺があった。
「今晩は、ストヴォーク夫人」
セレイナが微笑んだ。礼儀に、一点の隙もなかった。
「こんな夜更けに伺って、申し訳ございません」
エリーナの目が、二人の間を行き来した。
眉の皺が深くなった。
「母さん、俺にもなんで来たかわからないんだけど……」
イノが頭を掻いた。少しばつが悪そうだった。
「セレイナ、母さんだ」
「母さん、セレイナだ」
空気が、一拍止まった。
エリーナはすぐには口を開かなかった。
この見知らぬ女をまっすぐ見つめている。
警戒と探りが、目の中で交差していた。
セレイナは落ち着いていた。両手を前で重ね、視線をエリーナと静かに合わせた。
無言の挨拶のようだった。
少しして、セレイナがかすかに笑い、わずかに身を傾けた。
「ストヴォーク夫人、今夜伺ったのは、ひとつご相談があってのことです」
セレイナの目がイノを掠めた。
「イノを——弟子に取りたいのです」
エリーナは明らかに予想していなかった。
「弟子? イノを?」
(この時間に、こんな女が、「弟子」?)
イノを見た。胸の奥で、何かが引っかかった。
「はい」
セレイナが静かに頷いた。
イノが目を瞬かせた。
「何を言ってるんだ?」
エリーナの眉がさらに寄った。
セレイナの所作はどこまでも丁寧で、笑みは柔らかい。だが温度がなかった。
エリーナの中で、本能的な不信感が立ち上がった。
セレイナが軽く頭を下げた。
声を少し落とした。
「私は禹煥国の出身で、遊歴の魔導士をしております」
イノに向き直った。目を伏せて。
「今夜、墓所でイノと出会いました。一人でお父上を弔っているところを。あの真摯さに、心を打たれました」
一拍置いて、顔を上げた。表情は誠実だった。
「この子には非凡な素質があります。もし許されるなら、私が直接導きたいのです」
空気に漂うかすかな香りが、
エリーナの張り詰めた神経を——
古い紐が温い水に浸るように、ほどいていく。
そのとき——
「あんた、嘘つくとき瞬きもしないのか。」
イノが眉をひそめた。
セレイナの表情は微動だにしなかった。
ただ右手をそっと持ち上げた。
掌に、火が灯った。
光が一気に広がり、部屋中の影が消し飛んだ。炎が揺れ、壁までが微かに震えている。
イノが反射的に半歩退いた。
エリーナの瞳孔が、一瞬で縮んだ。
衝撃。見覚え。恐怖。
(あの火だ。)
天から落ちた火。すべてを焼き尽くした火。
エリーナは考えたこともなかった——こういう人間と、同じ部屋に立つ日が来るなどと。
自分の家で。灯りをつけるように火を点されるなどと。
焼かれた兵士たちが脳裏を過った。栄光を纏った騎士が、一息で灰になった。
だが、目の前の火は本物だった。
稲妻のように、一つの考えが走った。
(もし——いつかイノも、あの火を灯せるようになったら……)
「信じないわけじゃ……」
エリーナがためらった。
少し気恥ずかしそうに、エプロンの端を指先で摘んでいる。
「ただ、この子は小さい頃から言うことを聞かなくて……うちにはお金もないし……本当にこんなことが身につくのかしら」
「ご謙遜を」
セレイナの笑みが淡く、掌の炎がゆっくりと小さくなった。残り火がひと筋だけ光っている。
「イノの素質は、並の者とは比べものになりません。賢く、芯が強く、上を目指す心がある。こういう子を育てられたのは——傍に優れた母親がいたからこそです」
その褒め言葉は自然で、安定していた。
エリーナが一瞬止まった。
表情がほどけた。
頬にわずかな赤みが差した。
「そんな……大げさよ。この子はただの、手のかかるガキなんだから」
イノはその場で固まっていた。
部屋の中のすべてが、一瞬だけ重力を失ったような——エリーナが、笑っている。
「この子ったら」
エリーナが振り返った。声に、久しぶりの軽さがあった。
「突っ立ってないで、先生にお水を出しなさい」
「先生?」
イノは自分の耳を疑った。
「俺、いつ——」
「早く」
エリーナの目がひと睨み。
イノはすごすごと水を汲みに行った。
水を持って戻ると、エリーナとセレイナが並んで座っていた。
表情は穏やかで、エリーナがイノの子供の頃の話をしている。
セレイナは身を傾けて聴いていた。指先がそっとエリーナの手の甲に触れる。
火が一瞬揺らぎ、あの淡い香りがまた漂った。
(また——あれだ。)
イノは口を開きかけた。
だが言葉が喉でつかえた。
エリーナが笑っている。
その笑顔を見たら——言えなかった。
——————
部屋に穏やかな静けさが満ちていた。
セレイナが立ち上がった。
「もう遅くなりました。そろそろ失礼いたします。イノ、また明日」
「ああ……うん」
イノが反射的に頷き、長く息を吐いた。
次の瞬間、はっとした。
「え? また来るのか?」
セレイナが外套を手に取り、フードを被りかけたところで——
「セレイナ先生」
エリーナが声をかけた。
「こんな夜更けに外は物騒です。よかったら今晩泊まっていきませんか? 部屋はこことイノの小部屋しかありませんけど、私と一緒で良ければ」
「は?!」
イノの顎が落ちかけた。
「母さん、何言って——!」
エリーナが眉をひそめ、不機嫌に一瞥した。
「イノ。先生に向かってその口の利き方は何? 礼儀をわきまえなさい」
「あなたにとっての恩人よ。わかってるの?」
イノはエリーナを見て、セレイナを見て、手の中の水を見た。
言いたいことが山ほどあった。一言も出てこなかった。
(この人、人間じゃないかもしれないんだぞ。)
だがエリーナの有無を言わせない目と向き合うと、それ以上何も言えなかった。
セレイナが振り返った。
二人の間に視線を泳がせ、目の奥でかすかに笑った。
意味ありげな、深い笑み。
「確かに、こんな時間に道を歩くのは少々不安ですわね。では——お言葉に甘えて」
「母さん! だから——」
「イノ!」
エリーナが即座に遮った。
「この御縁を、無駄にするつもり?」
イノは言葉を飲み込むしかなかった。
目を上げて、セレイナを見た。
——彼女が、笑っていた。
あの笑みで、すべてが終わった。
イノは口を開き、結局、ふうっと息を吐いただけだった。
「では、お世話になります」
セレイナが微笑んで応じた。
エリーナが満足げに頷いた。
「とんでもない。泊まっていただけるなんて、こちらこそ」
セレイナが外套をそっと下ろし、エリーナに従ってもう一つの部屋へ向かった。
イノはぽつんと立ち尽くしていた。
二人が並んで歩き、話しながら遠ざかっていく。
扉が、笑い声とともに閉まった。
しばらくして、イノは自分の髪をぐしゃぐしゃと掻き回し、低く呟いた。
「母さん、どんなやつを家に入れたか、わかってるのか……」
部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。
天井を見上げる。
隣の部屋から、エリーナとセレイナの笑い声がかすかに聞こえてくる。
その声が耳にまとわりつき、寝返りを何度も打った。
(さっきまで俺の魂を求めてた女が……今……)
自分の手を見た。
(俺は——
まだ、俺なのか?)
布団を頭まで引っ張り上げた。
空が白みかけた頃、ようやくあの声と香りの中で、浅く目を閉じた。




