第17話 夜の契約 II
二人の手が触れた瞬間——
森が、異様な静けさに落ちた。
漆黒の空に星はない。
重なった掌の間から、かすかな光がゆっくりと滲み出した。
蒼白く、遠い光だった。別の世界から漏れ出た冷たい銀のようで、その縁を暗い葡萄酒色の脈が静かに流れていた。
セレイナが低く詠唱を始めた。
古く、聞いたことのない言葉だった。
声が夜の中に響く。千百年の記憶が、今この瞬間に呼び覚まされるように。
「燃え尽きし火より、永久に幽世の塵を照らさん。
命の輪の岐路にて、古き誓い新たに鋳る。
血と影をもて、汝の形を環鎖に捧げ。
沈みし淵より、不滅の契印を咲かせん」
暗い赤紫色の光がセレイナの掌から溢れ出た。線が二人の間に交差し、草葉と石の面が不気味な暗紅に染まった。
詠唱が一節ごとに高まり、最後の一音が落ちた瞬間——光が目を灼くほどに膨れ上がり、心臓の鼓動のように一拍で止まった。
周囲を満たしていた輝きが、瞬時に消えた。
セレイナが目を落とした。
契約の紋様が、イノの掌の上で一片ずつ崩れ、剥がれ落ちていく。
空気が震えた。木の葉が一斉に散り、塵が宙に浮いた。
そして——静寂。
セレイナがわずかに退いた。
両手がかすかに震えている。
「あ……」
低い呻きが漏れた。
この一瞬、あの永遠の落ち着きを保てなかった。
極めてかすかな驚きの声。
イノがゆっくりと顔を上げた。
その動揺で外套がわずかにずれ、影の下に隠されていた顔が露わになった。
イノは見た。
「美しい」ではなかった。
神に捨てられ、この世の最も深い場所に遺された、誘惑そのもの。
白すぎる肌が、かすかな光の中で冷たい月のような艶を帯びていた。
眉目は深く、言葉より先に生まれた支配がそこにあった。
すべての目線が無言で問いかけている——「本当に望んでいるものは何だ?」
双眸は底のない黒金の深淵。永夜の中で、静かに燃えている。
唇がわずかに開いたが、言葉はなかった。
ただ古い神託のような気配だけが漂った。
人間が直視できる存在ではなかった。
この瞬間、あの一貫した従容に、初めて亀裂が入った。
瞳孔がわずかに縮み、表情に極めて微かな——だが致命的な——「人間性」が浮かんだ。
イノは動けなかった。
「セレイナ」と呼ばれるもの。
——————
セレイナの唇が何度かかすかに動いた。
呼吸を整えようとしている。外套のずれた縁が、そっと引き戻された。
少しして、彼女の視線が制御を離れ、あの墓石へと向いた。
「イノ、あなたの父親は誰?」
イノはまだ跪いたままだった。両手は空で、指先がかすかに震えている。
「……父と何の関係がある?」
顔を上げた。声に不安と警戒が混じっている。
「これは父の墓だ」
イノが石碑を指した。声が硬くなった。
「父が死んだことも知らないのか?」
もう隠さなかった。疑いも、怒りも。
(この女は突然現れて、突然消える。)
(それとも——あいつらと同じか? 俺を跪かせたいだけなのか? 辱めたいだけなのか?)
歯を食いしばった。騙されたのではないかと、疑い始めていた。
「こんな質問をして、何がしたいんだ?」
セレイナは自分が乱れたことに気づいた。
頭を垂れ、深く息を吸った。
「違う……そういう意味ではない」
「いったいどうしたんだ? 急にさっきまでと全然違う」
イノが立ち上がった。目が冷たい。
「あなたは突然——前と全く別人だ」
セレイナは答えなかった。
ゆっくりと一歩退いた。
「帰りなさい、イノ・ストヴォーク。お母さんのそばへ。あの人はあなたを必要としている」
イノは彼女を見つめた。
従容が少し戻っていた。だが完全ではない。
声の中に、今まで一度も聞いたことのないものがあった。
脅しではない。誘いでもない。
懇願に近い、柔らかさだった。
「セレイナ、何を隠してるんだ?」
彼女がゆっくりと顔を上げた。
月の光が梢を抜け、淡くその面に落ちた。
外套の影が退き、顔が完全に現れた。
イノの呼吸がわずかに詰まった。
怒りも疑いも、一瞬で空白になった。
「セレイナ……」
彼女は目を伏せ、背を向けた。
ひと拍。
「帰りなさい」
イノはその背中を見つめた。夜が少しずつ彼女を呑み込んでいく。
長い間立っていた。
それからようやく、踵を返した。
——————
風が彼女の髪を掠めた。
頭を下げ、目を閉じた。
外套の端だけが、風の中でかすかに震えていた。
(失敗した。何の反応もなかった。)
ゆっくりと目を開け、夜空を仰いだ。
(こんなことは、一度もなかった。)
眉間がわずかに寄る。
(だがあの子はただの人間……)
(本当に?)
目を細めた。視線が風に揺れる墓石に引かれた。
脳の奥で、十年前の光景がゆっくりと浮かび上がった——
——————
夜風が麦畑を撫で、一面の銀光にさざ波を立てた。
彼女は林の縁に立っていた。
銀灰色の長い髪が風に流れ、煙のように散る。
月の光が肩に落ちたが、吸い込まれるように消え、灰青の光沢だけが残った。
あの農家を見つめている。
屋根が傾いている。窓の奥に灯りはなく、すべてが眠りについたようだった。
足を踏み入れた。音はなかった。
空気に、食事のあとの残り香がある。何かを祝ったばかりのようだった。
寝台は一つだけ。
彼女はその前に立ち、静かに見下ろした。
男は仰向けに横たわっていた。胸はもう動いていない。
女が男の肩に寄りかかって眠っている。
二人の腕の中で、幼い子が母の衣の襟に小さな手を絡ませ、口の端がわずかに上がっていた。
温かい夢を見ているのだろう。
彼女の目が、あの子の顔に止まった。
——————
セレイナの睫毛がかすかに震えた。
ゆっくりと目を伏せた。
(あそこには、何か「見えないもの」が、私を拒んでいた……)
わずかに首を傾げた。あの一瞬に何が起きたのか、別の角度から見極めようとするように。
だがすぐにその考えを打ち消し、目の光が鋭く戻った。
(もう一つ、可能性がある……)
セレイナはその場に立ち尽くした。
長い沈黙。
風が外套の裾を攫い、思考をいっそう静かにさせた。
——————
イノは帰り道を歩いていた。
頭の中にはセレイナの顔が張りついていた。
だが、家の輪郭が視界に入った瞬間——思考が何かに掴まれた。
門の前に、エリーナが立っていた。
薄い上着を羽織り、闇の中で両腕を抱えている。
冷たい夜風の中、遠くをじっと見つめていた。
暗がりの中から見覚えのある影が現れるまで、ずっと。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
この物語は、少しずつしか進みません。
それでも、誰かが隣で歌を聴くように読んでくれたら嬉しいです。
これから、イノとこの世界の物語が動き出します。




