第16話 夜の契約 I
イノは足を引きずりながら歩いていた。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
遠くの屋根が暮色の中に浮かんだ。空の端にわずかな光が残り、家の煙突からゆっくりと煙が上がっている。
あの匂い。
覚えがありすぎて、胸の奥が痛くなった。
門の前で少し立ち止まった。
やがて深く息を吸い、扉を押し開けた。
「今日は早いじゃない!」
エリーナの声が厨房から飛んできた。少し弾んでいる。
「パン、全部売れたのよ! 今夜は芋の肉煮込みよ!」
厨房から顔を出した。
笑みが、一瞬で凍った。
「イノ! どうしたの!?」
駆け寄り、体を支えた。声が震えている。
イノは無理に笑った。
「大丈夫、母さん。また……転んだだけ」
エリーナが眉をひそめ、体を上から下まで見た。
溜め息。
「……休みなさい。お湯を持っていくから」
「本当にいいよ」
イノは軽く手を振り、部屋に入って扉を閉めた。
ベッドの縁に座り、手の痣を見下ろした。
「くそ……」
それだけ吐いて、そのまま倒れ込んだ。
意識が、すぐに沈んだ。
——————
『その名で人生を綴りなさい。鎖に縛られず、霧に迷わず……』
イノは目を開けた。
まだぼんやりしている。窓の外を見ると、もうすっかり暗かった。
部屋は静かで、卓の上の油灯がかすかに揺れているだけだった。
(しまった……)
枕元に碗が置いてあった。
煮込みだ。湯気はとうに消えていたが、香りはまだ残っている。
イノは碗を手に取り、匙でひと口すくった。
芋が口の中で崩れる。濃い肉の出汁に、ほのかな塩味と薬草の香り。
目を閉じた。
覚えのある味だった。
次の瞬間、あの屈辱が胸を突き上げた。
匙が止まった。
しばらくして、碗を指輪に収め、窓辺に立った。
窓の外は星もない闇だった。林から風が吹き、湿った冷気を運んでくる。
「墨みたいな暗さだな……」
両手を窓枠に突いて、闇を見つめた。
「あのとき、せめて信だけでも取り返せていたら……」
眉をしかめ、深く息を吸い、両手で顔をごしごしと擦った。
自嘲気味に呟く。
「イノ・ストヴォーク!」
音を殺して部屋を出た。
エリーナの部屋の前で足を止め、戸の隙間から覗く。
寝息が聞こえた。穏やかで、規則正しい。
息をついて、外へ出た。
——————
風がイノの乱れた髪を撫でた。
夜が体を呑み込んでいく。
何も見えない。
だがこの道は数えきれないほど歩いた。暗闇でも、あの場所にたどり着ける。
墓の前に座った。
長い間、何も言わなかった。
「父さん……しくじった」
声が小さすぎて、自分でも聞こえなかった。
「どうすればいいか、わからない。時々本当に思うんだ……」
言葉が止まった。唇を引き結ぶ。
「……父さんがいなくなった日から、俺はもう負けてたのかもしれない」
風が墓地を抜けた。草がさらさらと鳴る。
エリーナの言葉が浮かんだ。何度も繰り返された言葉。返事を求めず、変化も望まず、ただ言い続けていた言葉。
「母さんが正しかったのかもしれない……」
口にして初めて、自分が本気でそう考えていることに気づいた。
(最初からあの扉を開けるべきじゃなかった。)
「くそ、悔しい……」
しばらくして、イノの肩がかすかに二度震えた。
ゆっくりと息を吐いた。
顔を上げた。
目の中の怒りが、少しずつ消えていった。
あとには何も残らなかった。
沈黙の中、立ち上がった。膝の土を払い、衣の裾を整えた。
「ごめん、父さん」
踵を返そうとした瞬間——
空気の中に、あの香りが漂ってきた。
忘れようのない匂い。
「セレイナ……?」
ほとんど反射だった。
四方に風の音しかない。だが香りは濃くなっていく。
やがて、あの声が聞こえた。
「森じゅうが感じているよ……まだ吐き出されていない怒りを」
イノは息を止め、振り返った。
闇が風にわずかに押し開かれた。
あの姿が、夜の中からゆっくりと歩み出てくる。衣の裾が風に流れ、足音はない。
「こんばんは、若き熊殺者」
「セレイナ……」
イノの声に、驚きと、どこかほっとしたものが混じっていた。
セレイナは緩やかな足取りで近づき、つかず離れずの距離で止まった。
「聞かせて」
それだけだった。
イノの中で何かが開いた。
侯爵の前で堪えていたもの。母の前で隠していたもの。墓石の前で最後まで言えなかったもの。
全部が、溢れ出た。
セレイナは黙って聴いていた。相槌もなく、頷きもなく。
やがて、言葉が尽きた。
夜がふたたび沈黙を取り戻した。
長い間を置いて、セレイナが口を開いた。
「あなたが憎んでいるのは、リオンではない」
イノが目を見開いた。
「あなたが憎んでいるのは、あの場に立って、何もできなかった自分を」
イノは口を開きかけた。何も出なかった。
「今日、新しい提案を持ってきた」
セレイナがわずかに前に傾いた。
「私の影になりなさい」
「影?」
イノがまっすぐに彼女を見た。目に迷いが走る。
「なぜ、俺なんかに?」
「イノ・ストヴォーク」
彼女が名を呼んだ。
「あなたはまだ望んでいる——この闇を貫く火になることを」
セレイナがゆっくりと近づいた。声が低く、遠い昔の予言を語るように。
「炎は、、塵の中から生まれる……」
「あなたは平凡ではない、若き熊殺者。あの夜、あなたはすでに証明した」
「何も証明してない」
イノの声が砂を噛むように軋んだ。
「推薦状は、あの場で取り上げられた。あのまま、終わった。
熊を殺したことも誰にも信じてもらえない。口にすれば笑われるだけだ」
セレイナは答えなかった。ただイノを見て、待っていた。
「あなたは力を求めている」
やがて、彼女が言った。
「だが同時に怖れてもいる——」
左手が伸びた。ゆっくりと。冷たい掌がイノの胸に触れた。
「その代償を」
イノが身を強張らせた。
いつの間にか、セレイナは一歩の距離にいた。
指先が胸を掠めた。その感触に、全身が震えた。
「俺は……」
口を開いたが、言葉がひとつも出てこなかった。
目を伏せた。この距離なら、彼女の顔が見えるはずだった。
だが——見る勇気がなかった。
「何をすればいい?」
セレイナがかすかに微笑んだ。
「あなたの信念、あなたの足掻き、あなたの痛み……すべてを——私に預けなさい」
「その代わりに、この闇を越える力を授ける」
イノは黙った。
「……すべて、か。俺には何もない。この命くらいだ」
セレイナの視線を感じた。
あの一瞬、闇が彼女のために道を空けたように見えた。
「望むか?」
エリーナが語って聞かせてくれた神話が頭をよぎった。
人間と悪魔の取引の伝説。
食頭魔が脳に一瞬閃いた。言川の刀。あの裂けた口。
あれらと関わることが何を意味するか、わかっている。
それでも、ここに立っている。
夜はいっそう静まり、風が梢を抜けて低く唸った。
「あなたも……悪魔なのか?」
セレイナはすぐには答えなかった。
わずかに首を傾げた。影がその動きに沿って流れた。
「私をどう呼ぶかは、どうでもいい。大事なのは——あなたが何を得るか」
イノは自分の両手を見た。
リオンの笑い。レオネルの顔。蹴り飛ばされたとき、肋骨に走った音。
(俺は何もできない。母さんを守る資格すらない。)
セレイナは、ただそこに立っていた。
もう誘いもしない。ただ存在している。今この夜空が、黙って腕を広げるように。
「セレイナ……」
心臓が止まりかけていた。
「取引する。代償なんかどうでもいい」
セレイナは動かなかった。わずかに顎を上げ、まだ待っている。
「待って」
イノが低く付け加えた。
「一つだけ条件がある。エリーナを傷つけないでくれ」
森の全てが耳を澄ましていた。風すら止まった。
セレイナの首がわずかに傾いた。
「イノ・ストヴォーク——それは約束できない」
「……何だと?」
イノの体が震えた。怒りが滲む。
「試しもしないのか!」
「あなたの心は、とうにこの道に踏み込んでいる。一歩ごとに、エリーナを遠ざけている」
「守りたいと言いながら——」
声は柔らかかった。だが刃のように鋭かった。
「その決断はいつも、あなた自身のためだ」
イノの瞳孔が縮んだ。
「嘘だ! 俺は母さんを守りたいだけだ!」
「守りたいのか。それとも、守りたいのはあの人か。それとも、お前のちっぽけな意地か」
セレイナがかすかに笑った。その笑みに、淡い哀れみが透けていた。
息をつく間も与えなかった。
「若き熊殺者。あなたの中で燃えているあの炎は、エリーナのためか。それとも、耐えられない失敗のためか。
目を逸らすな、イノ。あなたが力を欲するのは、愛だけが理由ではない。悔しさだ。
ただの悔しさだ」
「あんたにはわからない——」
「イノ・ストヴォーク。あなた自身より、よくわかっている」
「本当にあの人を想うなら、今すぐ家に帰りなさい。この夜を、静かに終わらせなさい」
イノの足は動かなかった。
「本当の力に、偽りはいらない。すべてを差し出す覚悟があるなら——愛のために戦う者のふりをやめなさい。そのとき、あなたの望みをすべて叶えよう」
セレイナが半歩退いた。
左手がゆっくりと持ち上がった。掌が下を向いている。
「跪きなさい、イノ・ストヴォーク。両手を、私の左手に捧げよ」
イノは深く息を吸った。
ゆっくりと、片膝をついた。
両手が震えながら持ち上がり、あの冷たい左手にそっと触れた。
「母さんは……わかってくれる」
低い独り言だった。
最後の勇気を、そこから絞り出すように。




