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第15話 嘘つき II

しばらくして、学院の門が再び開いた。


先ほどの学院生が戻ってきた。


顔に貼りついた笑みの質が、まるで違っていた。


声も、別人のようだった。


二人は広い石畳の道を歩いた。


左右に手入れの行き届いた庭園、陽を弾く噴水ふんすい、遠くに並ぶ高楼こうろう丸屋根まるやね


「ここで学べるだけでも、床を磨くだけでも、誇りなんですよ」


学院生が胸を張って言った。


「どれだけの貴族がいると思います? 公爵こうしゃく、侯爵の子弟がごろごろ。それだけじゃない——」


声をひそめ、目を輝かせた。


「エランシアの王女殿下もいらっしゃるんです。あの国のたった一人の王女ですよ」


イノは黙って後ろを歩いた。


大袈裟おおげさな口調が、少し居心地悪い。


「考えてもみてください。あのような高貴な方々と同じ屋根の下で暮らせるんですから」


学院生が急に振り返り、もうひと言添えた。


「ちなみに、僕もさっきの騎士も、学院の正規生ですからね」


イノは唇を引き結んだだけで、何も返さなかった。


——————


同じ頃、庭園の反対側。


リオンが一人、薔薇ばら小径こみちを歩いていた。


花の香りと午後の熱気が混じる中、その表情だけが一寸ずつ強張こわばっていく。


(もしあいつが真実を話したら?)


「ありえない……」


リオンが口の中で呟いた。


すぐに自分を落ち着かせようとする。


(誰が信じる。

パン屋のせがれだ。

名もない小僧だ。

真実を知っていても何もできない。)


風が花の間を抜けた。


リオンが顔を上げた瞬間、体が固まった。


少し先の石の道を、学院生が一人、誰かを案内して歩いている。


その「誰か」は質素な衣を着て、説明に耳を傾けていた。


リオンの瞳孔どうこうが縮んだ。


(なぜ——なぜあいつがここにいる?!)


イノが当たり前のように歩いている。


何事もなかったかのように。


リオンの呼吸が、少しずつ乱れていった。


イノが何か言うのが怖い。


一言でも。


誰かがリオンに近づいて「知り合いか?」と訊くのが怖い。


イノの何気ない一瞥で、すべてが崩れるのが怖い。


リオンは陽の中に立っていた。


だが背筋を這い上がるのは冷気だった。


アルレイクの影。


ごみを見るような目。


リオンの顔の線がじわりと硬くなり、目の奥に影が広がった。


陽が当たっているのに、その顔には届いていなかった。


——————


イノはやがて、豪奢ごうしゃ執務室しつむしつの前で足を止めた。


学院生が三度叩き、扉を開け、手で促した。


中に、赤褐色せきかっしょくの大きな書卓しょたくがあった。


その奥に、中年の男が座っている。


仕立ての良い長衣ちょうい香油こうゆで撫でつけた髪。ふくよかな体つき。笑みには、練れたあぶらっぽさがあった。


栄誉引薦官えいよいんせんかん、レオネル・ド・ロウィック子爵ししゃくでございます」


学院生の声は、ほとんどびていた。


レオネルが顔を上げ、イノを一瞥した。


笑みはからっぽで、丁寧だった。


イノが両手で信を差し出した。


レオネルは無造作に受け取り、目を通しかけた。


クリステル侯爵の署名と家紋が目に入った瞬間、眼の光が変わった。


姿勢がわずかに正される。声の調子が引き締まった。


「クリステル侯爵か……ほう、大した幸運だな」


信を卓に置き、笑みを足した。


「だが、推薦状だけで入れるほど甘くはないぞ」


声をゆるめ、目をイノの上に這わせた。


素性すじょうを聞かせてもらおうか。侯爵とはどういう関係だ? あの方の推薦は、誰にでも出るものではない」


「親族か? それとも——」


少し間を置き、口の端を上げた。


「何か特別な才でもあって、目に留まったか?」


イノは静かに答えた。


「何のえんもございません。私はただの平民です。侯爵様が、機会を与えてくださいました」


レオネルの笑みがさらに深くなった。


だが次の言葉を継ぐ前に、扉の外から足音がした。


扉が開いた。


学院の制服を着た若い男が入ってきた。端整たんせいな顔立ち。眉目に染みついた傲慢ごうまん


「イノ?」


リオンの声に、あざけりがにじんでいた。


「お前がなんでここにいる?」


レオネルが少し驚いて立ち上がった。


「リオン若、どうなさいました?」


「たまたま通りかかっただけだ」


リオンが口の端を下げた。


「中から声が聞こえたのでな」


視線がイノに落ちた。


「こんなのが、どうやって入ったんだ? こいつが学院に足を踏み入れるなど」


イノが拳を握り締めた。


怒りを押さえ込んで言った。


「入学の申請に来た」


「入学?」


リオンが薄く笑った。


「お前が?」


レオネルが眉をひそめ、慎重に口を挟んだ。


「リオン若、この者はクリステル侯爵の推薦状をお持ちです」


語気を強め、暗にこれ以上は、と示した。


「侯爵?」


リオンは笑話を聞いたかのように、鼻で笑い声を漏らした。


「クリステル侯爵がこいつに推薦状? 冗談だろう。侯爵がこいつに何を期待する? 顔中傷だらけでパンを焼いてる母親か? とっくに死んだ父親か?」


一歩近づいた。声がさらに鋭くなる。


「こんな半端な家の出が、侯爵に取り入れるとでも? レオネル殿、本気で信じているのですか?」


レオネルの笑みがこわばった。


二人の間で揺れている。リオンの家名は無視できない。だが侯爵の名も、軽くは扱えない。


低い声で言った。


「若のおっしゃるのは……この信に問題がある、と?」


「大ありだ」


リオンが冷笑したままイノに向き直った。


軽く言った。


「信が偽物か、侯爵がお前にだまされたか。どっちがいい?」


イノの頭に血が昇った。


拳を震わせ、声が裂けた。


「侯爵様を騙してなどいない! 僕は——俺は自分の力で認めてもらったんだ!」


「力?」


リオンが眉を上げた。嘲笑ちょうしょうしたたる。


「お前に何の力がある? その薄汚い服で侯爵の同情を買ったのか?」


「黒熊を殺したんだ!」


イノの叫びが部屋に反響した。


「あの夜、一人で、素手で!」


リオンが笑い出した。


声がどんどん大きくなる。


レオネルの方を向いた。まるで面白い話を聞かせるように。


「聞きましたか? 素手で? こいつが? これは——学院の芝居好きに聞かせてやるべきですね!」


イノの顔が赤く染まった。


何を言っても無駄だとわかっていた。


「ああ、そうだ」


リオンが声の調子を変えた。ゆっくりと近づく。


「あの猟師りょうし——ハーン・フェルナンデスだろう? お前の家によく来ているな」


さらに近づいた。


「熊を処理したのも、あの男だろう? 知らないとでも思ったか?」


話の向きが変わった。


笑みがやいばになった。


「ハーンがあれほどお前の家に通い詰めるのは、お前のためじゃないだろう。あの寡婦かふの母親のためじゃないのか?」


「黙れ!!!」


イノが低くえ、飛びかかった。


拳が繰り出される——


リオンは待っていた。


身をひるがえし、軽く避けた。


「やれやれ」


袖口を軽く払い、笑った。


「避けて正解だ。感謝しろよ、イノ。お前みたいな賤民せんみんが僕に手を上げたら——どうなるか、わかるだろう?」


身をかがめ、イノの顔を覗き込んだ。


空気の中に、イノの荒い呼吸だけが残った。


拳がまだ宙に止まっている。


震えていた。


レオネルが手を叩いた。


声は冷淡だった。


「リオン若がそうおっしゃるなら、この信の真偽しんぎは……なんとも言えませんな」


扉の外から、先ほどの学院生が入ってきた。


「つまみ出せ」


イノは必死にもがいたが、あっさりと引きずり出された。


靴底が床をこすり、甲高い音を立てた。


扉が閉まった。


——————


室内に、燭火しょくかの揺れだけが残った。


レオネルが椅子に戻り、あの信を手に取った。


しばらく眺めた。


「若、これは本物ですな」


「だからどうした」


リオンが鼻を鳴らした。


「ヴィセス家は大皇子アドリアン殿下にお仕えしている。レオネル殿、立ち位置をお考えになったほうがよろしい」


「若のおっしゃるのは、王都の……」


リオンはすぐには答えなかった。


袖口を直しながら、何気なく言った。


「僕は何も知らない。何もわからない」


声の色が変わった。


「ただ、あの棺桶かんおけに片足突っ込んだ老人が、向こう側に立っているのは確かだ」


レオネルがしばらく黙った。


低く頷いた。


おっしゃる通りで」


手を伸ばし、燭台しょくだいから蝋燭ろうそくを一本取った。


炎が信の端をめた。


クリステルの家紋が、火の中でゆがみ、黒く焦げていく。


じゅう——


灰がに落ちた。


火のがひと瞬光り、消えた。


リオンは満足そうに目を戻した。


声は穏やかで、ほとんど世間話のようだった。


「子爵殿、では父の件、よろしくお願いいたします」


レオネルが笑みを作り、腰を折った。


「お任せくださいませ」


——————


イノは学院の門の外に投げ出された。


石の上に叩きつけられた。


両手で体を支え、起き上がろうとした。


まだ立ちきらないうちに、腹を蹴られた。


体が五、六歩分吹き飛んだ。


詐欺師さぎしが。とっとと消えろ!」


学院生がつばを吐いた。


「侯爵の名をかたるとは、恥知らずめ」


イノは地面に丸まり、両腕で腹を抱えた。


痛みで口が開くが、声が出ない。


数秒かかって、ようやく短いあえぎが漏れた。


歯を食いしばり、涙を押し戻した。


両手を石畳に突き、指のふしが白くなるまで力を込め、一歩ずつ、立ち上がった。


(信は——まだあいつらの手の中だ。)


目が、あの鉄門に戻った。


門は閉じていた。


冷たく、無言だった。


イノは深く息を吸い込み、片足を引きずりながら、背を向けた。


遠くの森へ向かって、歩き出した。


——————


風が学院の高塔こうとうかすめた。


薄いとばりが一角めくれた。


窓の奥に、リヴィアンナが静かに立っていた。


目を落とすと、門の外で追い出された少年の姿が見えた。


光がその目に落ちた。


溜息ためいきほどに淡く。


帳が再び合わさり、すべてが静寂に帰った。


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