第14話 嘘つき I
朝靄がまだ晴れきらない中、イノは家の前に立ち、最後にもう一度小屋を見た。
エリーナの店の支度は済ませてある。
音を立てずに扉を引き、書き置きは残さなかった。
村の出口を過ぎるとき、畑にはもう人が出ていた。
誰かが手を振った。イノも振り返す。
「おはようございます、おじさん! おばさん!」
「おはよう、イノ!」
素朴な笑顔が返ってきた。
風が髪を撫でる。道が足元に伸びていく。
歩みは速いのに、数歩ごとに振り返った。
村の輪郭が朝靄に完全に呑まれるまで。
それから前を向いた。
もう振り返らなかった。
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町の中に、馬蹄の音が響いた。
馬車が一台、ゆっくりと進んでくる。人々が道を空け、小声で頭を下げた。
「リオン様だ!」と誰かが囁いた。
窓の帳がわずかに持ち上がり、リオンが顔を覗かせた。
人々に向かって微笑み、頷いてみせる。
光がその顔に当たっている。
その笑みが、凍った。
前方に、一人の少年が歩いていた。
軽い足取りで、風に向かって。
イノだった。
(生きている。)
あの夜の真相が、頭の中で弾けた。
偽りは、信じられている限り真実になる。
だが真実が、今、目の前を歩いている。
「行け」
リオンが低く言った。
御者が戸惑う。
「若様?」
「早く行け!」
鞭が鳴った。馬車が駆け出し、砂埃が陽の光を覆い隠した。
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ロワク城 西北区 グランソワ学院 東門前 午後
イノはずいぶん歩いた。
グランソワ学院はロワク城砦の西北にあると聞いていたが、朝から歩き通して午後になっても着かない。足の裏に水膨れができかけている。
(これのどこが「ロワク城の範囲」なんだ。)
前方の林がようやく開けてきた。
高い梢の間から陽が差し込み、石畳の上に光の斑が踊っている。
学院の外周に城壁はなかった。
代わりに、細かな鉄柵が巡らされている。黒鉄と蔓の紋様が絡み合っていた。
正面の鉄門は高く、黒と金の装飾が陽の下で鈍く光っていた。
門前に、銀の甲冑を纏った学院生が二名、直立していた。
胸の徽章はグランソワ学院の紋。鎧の質と造りは、クリステル侯爵の親兵よりも上に見えた。
イノは門の前に立った。
手のひらが汗ばんでいる。
深く息を吸い、声を絞り出した。できるだけ落ち着いて聞こえるように。
「すみません……学院に入りたいのですが」
一人が薄く目を開け、イノを一瞥し、すぐに視線を外した。
「何の用だ?」
「入学の申し込みに参りました」
イノは声を保とうとした。
「どなたに伺えばよいでしょうか。中へ通していただけませんか」
「入学」という言葉を聞いた途端、もう一人が鼻で笑った。
振り返り、イノの色褪せた衣を上から下まで眺め回した。
「入学だと? その格好で?」
「はい」
イノの声は丁寧なままだった。
その学院生が冷たく笑った。
「ここをどこだと思ってる? 来れば入れるとでも?」
「話を聞いてください——」
イノが口を開きかけた瞬間、怒声が飛んだ。
「失せろ!」
平手で打たれたようだった。
屈辱の熱が腹の底から込み上げてくる。
それでもイノは怒りを飲み込んだ。
「クリステル侯爵様の推薦状を持っています。通してください」
空気が止まった。
二人の学院生が顔を見合わせた。
さっきまでの軽薄さが、顔の上で固まっている。
「何だと?」
一人が眉をひそめた。疑いと戸惑いが混じっている。
イノがゆっくりと信を取り出した。
厚い羊皮紙が陽の下でかすかに光り、封蝋にはクリステル家の紋章が押されている。
学院生がおそるおそる受け取り、あの印章を見つめた。
喉仏が動いた。
「本物の……クリステル侯爵の……」
顔色が目まぐるしく変わった。疑念、驚愕、そして取り繕った冷静。
「少々お待ちを」
慌てた声で言い残し、門の中へ消えた。
イノは待った。
視線が門前の敷石と、遠くの木立の間をさまよう。
不意に、背後から低い蹄の音が聞こえた。
象牙色の馬車がゆっくりと近づいてくる。
車体には淡い金の模様が施され、銀色の天蓋が陽を受けて光を帯びていた。
御者は人間ではなかった。
尖った耳。高く束ねた金の髪。細く長い体。
車の両脇の護衛も同じだった。金と銅の混じった鎧、冷たい目。
イノは息を呑んだ。
兜越しでも、人間とは違う線の美しさが目を射る。
傍らの学院生が小声で叱りつけた。
「退がれ! こっちに並んで立て!」
イノが慌てて退くと、その学院生が低く付け加えた。
「いいか、頭を下げろ。余計な目を向けるな。あの方はエランシアの王女、リヴィアンナ・シルヴィエン殿下だ」
馬車が近づいた。
風が通り、帳が一瞬めくれた。
横顔が見えた。
雪のような肌。肩に垂れる銀髪。わずかに尖った耳の先。静かな表情。
「おい! 見るなと言っただろう!」
学院生が声を殺して叱り、イノの肩を押した。
イノは慌てて目を伏せた。
馬車が学院の門をくぐり、鉄門がゆっくりと閉じていった。
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しばらくして、学院の門が再び開いた。
先ほどの学院生が戻ってきた。
顔に貼りついた笑みの質が、まるで違っていた。
二人は広い石畳の道を歩いた。
左右に手入れの行き届いた庭園、陽を弾く噴水、遠くに並ぶ高楼と丸屋根。
「ここで学べるだけでも、床を磨くだけでも、誇りなんですよ」
学院生が胸を張って言った。
「どれだけの貴族がいると思います? 公爵、侯爵の子弟がごろごろ。それだけじゃない——」
声をひそめ、目を輝かせた。
「エランシアの王女殿下もいらっしゃるんです。あの国のたった一人の王女ですよ」
イノは黙って後ろを歩いた。
大袈裟な口調が、少し居心地悪い。
「考えてもみてください。あのような高貴な方々と同じ屋根の下で暮らせるんですから」
学院生が急に振り返り、もうひと言添えた。
「ちなみに、僕もさっきの騎士も、学院の正規生ですからね」
イノは唇を引き結んだだけで、何も返さなかった。
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同じ頃、庭園の反対側。
リオンが一人、薔薇の小径を歩いていた。
その表情だけが一寸ずつ強張っていく。
(もしあいつが真実を話したら?)
「ありえない……」
リオンが口の中で呟いた。
すぐに自分を落ち着かせようとする。
(誰が信じる。
パン屋の倅だ。
名もない小僧だ。
真実を知っていても何もできない。)
風が花の間を抜けた。
リオンの瞳孔が縮んだ。
少し先の石の道を、学院生が一人、誰かを案内して歩いている。
その「誰か」は質素な衣を着て、説明に耳を傾けていた。
リオンの瞳孔が縮んだ。
(なぜ——なぜあいつがここにいる?!)
イノが当たり前のように歩いている。
何事もなかったかのように。
リオンの呼吸が、少しずつ乱れていった。
イノが何か言うのが怖い。
一言でも。
誰かがリオンに近づいて「知り合いか?」と訊くのが怖い。
イノの何気ない一瞥で、すべてが崩れるのが怖い。
リオンは陽の中に立っていた。
だが背筋を這い上がるのは冷気だった。
アルレイクの影。
塵を見るような目。
リオンの顔の線がじわりと硬くなり、目の奥に影が広がった。
陽が当たっているのに、その顔には届いていなかった。




