第13話 希望
村の入り口に着いたとき、最後の残照が山の背に沈みかけていた。
家々の灯りがぽつぽつと点り始めている。
「ふう、間に合ったな」
ハーンが馬から降り、首筋を叩いてやった。
笑みの中に疲れが混じっている。
「お前も今日はよく走ったな。ご苦労さん」
イノが馬から飛び降り、自分の家の窓を見上げた。
エリーナに嘘はつきたくない。
だが今夜、本当のことは言えない。
そのとき、少し離れたところで水汲みの女が二人、足を止めた。
「またあの猟師だよ」
「もう暗いのに、エリーナんとこの坊やを連れ回して」
「ちょっとねえ。噂になるわよ」
声は大きくなかったが、はっきりと聞こえた。
イノの眉がきつく寄った。
足が止まる。
こういう言葉は初めてではなかった。昔は意味がわからなかった。今はわかる。
振り返り、一歩踏み出しかけた。
ハーンが腕を掴んだ。
いつもより力が強い。
イノが振り払おうとしたが、外れない。
振り向いて睨んだ。
ハーンは手を離さなかった。
いつも笑っている顔に、何の表情もなかった。
数秒後、イノの力が抜けた。
「行くぞ。帰る時間だ」
ハーンが手を離した。
肩を叩く。
「余計なことは考えるな。まずはうまく乗り切れ。飯を食ってからだ!」
イノが苦笑した。
「おじさん、本気でごまかすつもり? 母さんにバレたら、おじさんも逃げられないよ」
ハーンが眉を上げた。
「おい、エリーナに怒鳴られるのは何回目だと思ってる? お前を連れ出すたびに散々言われてるが、最後は飯を出してくれるんだ」
そう言って馬の鞍から包みを下ろし、大股で玄関へ向かった。
「心配するな、今朝のうちに"証拠"を仕込んである。見せりゃわかる!」
扉を開けると、薪の温かい匂いが流れ出てきた。
エリーナが炉端に座っていた。
物音を聞いて顔を上げる。
イノの姿を見て、眉がほんの少しほどけた。
次にハーンが目に入り、すぐにまた寄った。
「イノ! またどこに行ってたの! あなたもよ、ハーン! 今度はどこに連れて行ったの!」
「怒るなって。この小僧が猟に行きたいっていうから、ちょっと付き合っただけだ。ずっと家に閉じ込めとくわけにもいかないだろ?」
手早く包みを開け、野兎を数匹と乾燥させた薬草を並べた。
「ほら、運が良かったんだ。獲物の始末に手間取って遅くなった。悪かったな」
エリーナが兎を見て、少し表情が緩んだ。
だが声はまだ冷たい。
「それでも、暗くなるまで連れ回していい理由にはならないわ」
「はいはい、おっしゃる通りで。次は早めに戻ります」
ハーンがへらへらと頭を下げた。
その視線が、ふと炉火に照らされたエリーナの顔に留まった。
ひと拍。
慌てて目を逸らした。
「イノ、突っ立ってないで手を洗え! 飯だ!」
イノは水瓶のそばへ走り、小声で呟いた。
「ありがとう、ハーンのおじさん」
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食後、ハーンは遅くなったからと言って腰を上げた。
帰り際、イノの肩を叩き、低く笑った。
「覚えとけ。お前のハーンおじさんは、一人で二人分だ」
イノが白い目を向け、軽く頷いて見送った。
部屋には薪のはぜる音だけが残った。
エリーナが食器を片づけていた。
足音を聞いて、ちらりとイノを見た。
溜め息をつく。
「イノ、何をするにしても、自分の体だけは大事にしなさい。心配させないで」
イノしっかりと頷いた。
「わかった、母さん」
——————
夜が深まった。
イノは身支度を終えて部屋に戻った。
月の光が窓から差し込み、あの推薦状の上に落ちている。紙面が冷たく光った。
厚い羊皮紙の端がわずかに反り、封蝋の紋章が銀光の中で暗い赤を帯びている。
指の腹であの印をなぞった。
胸の奥で鼓動が高まる。
だが同時に、罪悪感が息を詰めた。
「うまくいきますように」
視線が指の指輪に落ちた。
月光の下で金属がかすかに光る。
「やっぱりこの中が一番安全だな」
横になり、天井を見つめた。
(推薦状は手に入った。だから何だ。)
(侯爵に会えたのは、ハーンのおかげだ。ハーンが城に入れたのは、ヨゼフのおかげだ。)
もし自分がヴィセスの姓を持っていたら、今日、誰にも頼む必要はなかった。
イノは寝返りを打ち、壁に向いた。
(それに、母さんがいる。同意するはずがない。)
目を閉じた。
炉端に座っていたエリーナの姿が浮かんだ。
顔を上げてイノを見たとき、眉がまず緩み、それからまた寄った。
いつもそうだ。
まず緩んで、それから寄る。
明日切り出したら、あの眉はどうなるだろう。
考えたくなかった。
だが、黙っているつもりもなかった。




