第12話 名前
墨の香りと燭火が交わる中、クリステル侯爵が筆を走らせていた。
ふと顔を上げ、ハーンに目をやった。
声にわずかな温もりが混じる。
「お前はかつて長く家に仕えてくれた。古い友でもある。どうだ、最近は?」
傍らに立つミレーネは微動だにしなかったが、視線だけがそっとハーンへ流れた。
その顔に、何かの答えを探すように。
ハーンが笑った。
「どうもこうも、なんとかやっております。それより侯爵様、相変わらずご立派で」
侯爵の筆が一瞬止まった。
かすかに笑う。
「立派か。ただの老いぼれの悪足掻きだ」
「あの煙くさい酒、まだお好きですか?」
「はは……いつの話だ、それは……」
侯爵は筆を置き、傍らにまっすぐ立つイノを見た。
「若者よ。学んだことは、己の栄達のためではなく、世の安寧のために使え」
そう言って、まだ墨の乾かぬ推薦状を手に取った。
動作はゆっくりで、重かった。
推薦状をハーンに手渡し、表情がわずかに動いた。
「ハーン……アエリオに代わって、詫びておく。待たせてしまったな」
ハーンの体が止まった。
ミレーネの、それまで揺るがなかった顔がかすかに震えた。
ハーンは侯爵の疲れた表情を見つめた。
胸の奥で、何かがざわついた。
「……あの人が?」
声は小さかった。
独り言のようだった。
「あの人……どうしたんですか?」
侯爵の目が、広間の壁に掛かった一枚の絵に向いた。
アエリオの肖像だった。
若い男が生き生きと描かれている。今にも額縁から飛び出して笑い出しそうだった。
「知っている。お前たちには約束があったことを」
侯爵が低く言った。
「お前を信頼している、ハーン……」
「アエリオは——」
侯爵が息をついた。
「死んで四年になる」
ハーンの目が見開かれた。
顔から色が引いた。
「……何と、おっしゃいました?」
侯爵は答えなかった。
頭を垂れ、両手で肘掛けを握り締めた。
あの絵はまだそこに掛かっている。
色硝子から落ちた光が、ちょうどアエリオの顔を照らしていた。
だが描かれた人は、もうこの世にいない。
ハーンは動けなかった。
耳の奥で、アエリオの声が聞こえた気がした。
『ハーン、俺が戻ったら、もうお前の好きにはさせないからな! 傍で手伝ってもらうぞ!』
『ははっ、待ってるよ!』
膝が揺らいだ。
ミレーネがハーンを見ていた。足がわずかに動いたが、結局、前には出なかった。
ハーンは傍の卓の縁に手をついた。
「……どこで」
「南の国境だ」
侯爵が目を閉じた。
「戦死した。詳しいことは、わからん」
大広間が、墓のように静まった。
燭火だけが揺れ、それぞれの顔に違う影を落としている。
「……どうやって……」
ハーンがもう一度訊いた。
ほとんど縋るように。
「もう訊くな」
侯爵が疲れたように首を振った。
しばらくして、侯爵はハーンの肩に手を置いた。
「あいつは逝った……だが、我々はまだ生きている」
「……はい、侯爵様」
ハーンが頭を下げた。
声がいつもより、ずっと重かった。
いつも笑みを帯びていた目に、霧がかかったようだった。
侯爵がイノに向き直った。
目がふたたび澄んでいた。
「この機会を大切にせよ、若者。恩を求めもしなければ、見返りも望まん。ただ願わくは——いつの日か、お前の名が記憶に値するものであることを」
イノは両手を胸の前で重ね、深く頭を下げた。
侯爵が静かに頷いた。
「……お二人を引き留めるのはやめておこう。なぜだろうな、急に少し疲れた」
ミレーネが音もなく進み出て、重い扉を開けた。
イノが振り返った。
扉がゆっくりと閉じていく。
広い部屋の中に、クリステル侯爵が一人座っていた。
蝋燭の灯が横顔を照らし、あの堅い顔に、かすかな寂しさが滲んでいた。
——————
廊下は静かだった。
高窓から差し込む陽が、斑な光を落としている。
ミレーネは変わらず先頭を歩いていた。
短い髪が歩くたびにわずかに揺れるが、肩の線は微塵も崩れない。
長い廊下を抜けた。
角を曲がりかけたところで、ミレーネの足がわずかに止まった。
前を向いたまま、声が届いた。
冷たく、静かだった。
「ハーン、あなたは……どうしてこんなに長い間、一度も戻らなかったの?」
間を置いて、もうひと言。
ほとんど吐息のように。
「結局——何か用があるときだけなのね」
イノは二人の間に何かがあることを、うっすら感じ取っていた。
だが突然の言葉に、どちらにも寄れず、ただ挟まれて立っていた。
ハーンは何も言わなかった。
足取りも変わらなかった。
この瞬間が来ることを、ずっと前から知っていたかのように。
「アエリオ兄さんが死んだこと、知ってたの?」
声はとても軽かった。
自分に言い聞かせるように。
「まあ……どうでもいいか。あなたはいつもそうだったから」
沈黙が、音もなく広がった。
三人は階段を下りていった。
最後の一段を踏んだ瞬間、ミレーネの足が止まった。
勢いよく振り返った。
目に怒りがあった。
その奥で、何かが光っていた。
「あなたは自分のことしか考えてない!」
「あのとき、私も行きたかった! でもアエリオ兄さんが許さなかった!」
「あなたはどこにいたの?! もしあなたが傍にいたら——!」
声が詰まった。
最後まで言えなかった。
かつてイノを背負い、狼に囲まれても笑っていた男が、今は頭を垂れていた。
顔は影の中に沈み、表情が見えない。
ミレーネは深く息を吸い、数秒かけて表情を戻した。
「……こちらへ」
背を向けた。
背筋はまっすぐだった。歩みも乱れない。
ただ、握り締めた拳がまだ震えていた。
——————
城門を出ると、陽が目を射た。
微風が庭の旗と石段を撫でていく。
ミレーネが足を止め、振り返り、二人の前に立った。
わずかに身を折る。
「イノ・ストヴォーク」
その目に、量りかねるような光があった。
「侯爵様がお与えくださった機会です。学院で、しっかり成長なさい」
それからハーンを見た。
多くは言わなかった。
責めもしなかった。
ただ——その一瞥が、霜のように冷たく、その下に押さえ込まれたものが渦巻いていた。
踵を返し、去っていった。
背筋はやはり、まっすぐだった。
——————
夕焼けが細い道を赤く染め、空の光が少しずつ縮んでいく。
イノは馬の背に揺られていた。
懐にあの推薦状を抱いている。
なのに、胸は少しも軽くなかった。
何かが載っている。言葉にならない重さだった。
「ハーンのおじさん……」
ようやく口を開いた。
声が風に削られて、少し欠けていた。
「ん?」
「あの人たちの間に、何があったの?」
ハーンが少し黙り、馬の腹を軽く叩いて走りを安定させた。
「俺は小さい頃、侯爵に引き取られたんだ。物心ついた時にはもう、クリステルの家で暮らしてた」
前方の残照を見ながら、声は淡々としていた。
「アエリオ若様とは一緒に育った。遊んで、叱られて、塀を乗り越えて雪山の初雪を見に行ったこともある」
口元にかすかな笑みが浮き、すぐに消えた。
「そのあと、ミレーネが来た」
「あの子も孤児でな。小さい頃は俺たちの後ろをちょこちょこついて回ってた。まさかあんな、氷の顔をした別嬪になるとはな」
「ハーンのおじさん」
イノがためらいがちに訊いた。
「侯爵様のこと……あの金獅子旗、街中にあったけど」
言い終わる前に、ハーンが鋭く振り向いた。
「イノ、それはお前が気にすることじゃない」
「あの鷲のことだけど——」
「違う。お前が今やるべきことは一つだ——学院で踏ん張って、強くなれ」
イノは唇を噛んだ。
「俺だって、誰かの力になりたい」
ハーンの顔が少し和らいだ。
「お前は弱くない、イノ。あの信は、侯爵が自ら書いたものだ。今日から、あの信に恥じない人間でいろ」
イノが顔を上げた。
「わかった」
しばらくして、小さく言った。
「……母さんには、どうすればいい?」
ハーンの口の端が悪戯っぽく上がった。
「そりゃな、すぐには言うな。今晩エリーナに話したら、天井から吊るされて朝まで尋問だぞ」
イノがぽかんとして、それから真面目に頷いた。
「……うん」
空が暗くなってきた。
田の畦道から夜風が吹く。
「イノ、しっかり掴まれ」
ハーンの声が風の中に響いた。
「うん!」
イノは鞍を握り締め、少し前のめりになった。
二人は帰り道を駆けた。
背後に薄い土埃が舞い上がった。




