第11話 クリステル侯爵
大門の前で、しばらくの時が過ぎた。
やがてあの兵士が戻ってきた。
その後ろに、背の高い女がいた。
クリステル家の侍女服を着ている。袖口に家紋の刺繍、深い栗色の短髪。
イノは思わず二度見した——整った顔立ちだった。だがその茶金色の目がこちらを一瞥した瞬間、思わず目を逸らした。
ハーンの表情が変わった。
笑いかけたのを、途中で引っ込めた。
彼女の視線がハーンの上でほんの一瞬止まった。
口元が動いたが——何も出なかった。
イノに向き直り、静かに頭を下げた。
「お待たせいたしました。ミレーネ・ベアトリーチェと申します。クリステル家の侍女長を務めております」
「侯爵様はただいま公務の最中で、お目通りは難しいかと存じます」
ハーンを見た。
「ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
ハーンが口を開きかけた。
「どうぞ、お二方、こちらへ」
彼女はもう背を向けていた。
ハーンの口がまだ開いたままだった。
ひと拍遅れて、咳払い。
「ハーン・フェルナンデスと申します。こちらの若者はイノ・ストヴォーク。お手数をおかけいたします」
——————
ミレーネに導かれ、城砦の中へ入った。
松と石灰の匂い。磨き抜かれた石の床。足音が廊下に反響した。
壁には色鮮やかな壁掛けが連なり、色硝子が陽を砕いて足元に散らばっている。
イノは丸天井を仰いだ。
イノは丸天井を仰いだ。
ハーンは黙って歩いていたが、時折その視線が前を行く背中に落ち、わずかに止まっているのがわかった。
やがて、ミレーネが巨大な木の扉の前で足を止めた。
扉には銀鷲の家紋が彫り込まれている。
三度叩く。
扉が開き、深紅の絨毯が奥へ伸びていた。
その奥に、人の老人が上座に腰かけていた。
白髪の中に、まだ褪せきらぬ金の筋が残っている。深い青の目が、燭火の下で静かだった。
目は鋭い。だが眉目のどこかに、穏やかさが透けていた。
ミレーネが頭を下げた。
「侯爵様。ハーン・フェルナンデス殿、および随行の方がお目通りを願っております」
振り返り、ハーンとイノに向き直った。
「お二方の前におわすは、帝国侯爵、オーランド城主、クリステル家第十四代当主——アレスト・ド・クリステル・レヴィオン侯爵閣下にございます」
ハーンが一歩進み出て、腰を折った。
「侯爵様、ご無沙汰しております。突然のお伺い、ご容赦くださいませ」
「よく来た、ハーン。久しいな……」
侯爵の声は低く、落ち着いていた。
「見たところ、歳月もお前には手加減しなかったようだ」
視線がイノに移った。
「こちらの若者は?」
イノが半歩前に出た。
背筋を張り、拳を握っている。
「侯爵様! 俺は——私はイノ・ストヴォークと申します!」
「ご機嫌よう。今日はどのようなご用向きかな?」
「お願いがございます——どうか、グランソワ学院に入る機会をいただけないでしょうか!」
侯爵の目がゆっくりとイノを見渡した。
「なぜ、グランソワなのだ?」
「騎士になりたいんです!」
「では、それはなぜだ?」
侯爵がゆっくりと椅子の背にもたれた。
「若者よ、グランソワは志を立てれば誰でも入れる場所ではない——」
イノは待てなかった。
「自分の力で、胸を張って生きたいんです。大切な人たちを、守れるように」
侯爵はすぐには答えなかった。
燭火が揺れ、思案する顔を照らしていた。
「大切な者を守りたいなら、方法はいくらでもある」
「百姓は田を守り、鍛冶は火を打ち、猟師は獣と渡り合う。それぞれのやり方で、真っ当に生きている」
侯爵がわずかに身を乗り出した。
「なぜ——わざわざ血の道を選ぶ?」
イノが言葉に詰まった。
唇を噛んだ。
「……踏みにじられたとき、あの人たちには抗う術がないからです」
「膝をついたまま生きるのは——嫌なんです」
大広間が静まった。
侯爵が目を細め、傍らのハーンに視線を向けた。
ハーンは口を開かなかった。
ミレーネが静かに目を閉じた。
「若者よ、グランソワはお前が思い描いているような場所ではない」
侯爵がミレーネに向き直った。
「西の離れ、まだ人手は足りておらぬか?」
「二名分の空きがございます」
イノが歯を食いしばった。
「侯爵様……俺は——一人で黒熊を仕留めました!」
侯爵の目がわずかに変わった。
「聞かせてみよ」
イノがあの夜の出来事を手短に語った。
ハーンが半歩前に出た。
「事実でございます。熊の亡骸は、私がこの手で始末いたしました」
侯爵が頷いた。
「勇気は認めよう」
声が止まった。
「だが、己の内にある欲を見極められぬ者は——やがて他人の刃に成り果てる」
イノの体が震えた。
何も出てこなかった。
頭が下がった。
大広間には、燭火の音だけが残った。
侯爵の目がイノの上に落ちている。
包帯の巻かれた左手。指先がかすかに震えている。だが拳は握られていなかった。
イノは懇願しなかった。
言い訳もしなかった。
ただ、そこに立っていた。
侯爵は、長いあいだ見ていた。
「熊を仕留めた話だが」
ふいに口を開いた。
「省いたところがあるな?」
イノは俯いたまま、どう答えればいいかわからなかった。
「怖かったのだろう——怖いと知りながら生き延びた者は、怖さを知らぬ者より遠くまで行く」
「面を上げよ」
「グランソワの騎士とは、戦を好む者ではない。沈黙の中で重荷を負う者だ」
手を上げた。
「筆と墨を」
ミレーネが一瞬、目を見開いた。
すぐに応じ、足早に去った。
イノは呆然と立っていた。
胸の奥で、脈が打った。
機会を——与えられた。
クリステル侯爵の、直筆の推薦状。




