第10話 オーランド城
オーランド城 南城門前 午後
城壁の面に、帝国の金獅子旗が掲げられていた。
高々《たかだか》とそびえる大門がゆっくりと開き、オーランド城内の賑わう街道と人の波が姿を現した。
イノは馬を引き、ハーンの後ろについて近づいた。
本物の城に足を踏み入れるのは初めてだった。
目が止まらない。
あちこちを見回し、息すら慎むように浅くなっていた。
「止まれ」
守衛が長槍に寄りかかり、横目で二人を値踏みした。
視線が粗い布の衣の上で止まり、眉がゆっくりと寄っていく。
「何の用だ?」
ハーンが馬から降りた。
まだ口を開く前に、相手が手を上げて遮った。
「お前、こっちへ来い」
ハーンを脇へ引っ張り、声をひそめた。
「どこから来た? オーランドに何の用だ?」
ハーンは相手の胸元にある、磨り減った金獅子の紋章をちらりと見た。
懐から小さな袋を取り出し、笑みを浮かべて差し出した。
「お役人様、銅貨二十枚でございます。どうかお通しを」
守衛が鼻を鳴らした。
見もせずに袋を押し返す。
「入城するなら、銀貨一枚だ」
イノはまだ城楼と旗を見上げるのに夢中で、二人の会話など聞こえていなかった。
ハーンの手が一瞬こわばった。
袖口をさりげなく引き寄せ、とうに色褪せた護腕を隠す。
「三十枚」
守衛が槍の石突を軽く地面に突いた。
声が冷える。
「これが融通の値だ」
「お役人様、本当にこれ以上は出せないんです」
「なら帰れ」
相手はひと振りで片づけ、後方の商隊に向かって怒鳴った。
「次——!」
ハーンが途方に暮れかけたその時、人混みの向こうから大きな声が飛んできた——
「おい! ハーン・フェルナンデスか?! 四、五年ぶりじゃないか!」
ハーンが弾かれたように顔を上げた。
金髪の士官が一人、街道を早足で抜けてくる。
「ヨゼフ?」
ハーンの表情がぱっと明るくなり、歩み寄って肩を叩いた。
「本当にお前か! いつ戻ったんだ?」
「小隊長に任じられてな」
ヨゼフが笑って首を振った。
「お前こそ、なんでオーランドなんかに?」
「今日は酒を飲みに来たわけじゃないんだ」
ハーンが歯を見せて笑った。
「侯爵に用がある。それと——一人見せたい奴がいる」
手招きすると、イノが足早に駆け寄り、二人の傍にぎこちなく立った。
「イノ・ストヴォーク。覚えてるだろ?」
「エリーナの?」
ヨゼフがわずかに目を見開き、イノの顔をしげしげと見つめた。
やがて笑みが深くなった。
「こんなに大きくなったのか」
イノは目を瞬かせ、つい衿に手をやった。
敬礼すべきかどうか分からず、ただ背筋をいっそう伸ばした。
傍らの守衛が口を開きかけたが、ヨゼフの姿を認めた途端、体がかすかにこわばった。
慌てて直立し、敬礼した。
「隊長殿」
ヨゼフがちらりと目をやった。
「くだらんことを言うな。旧友が城に入るのに、いちいち手続きがいるのか?」
「は、はい……」
守衛がぺこぺこと頭を下げ、脇に退いた。
「どうぞどうぞ、ご無事で!」
ハーンがにやりと笑い、馬の手綱を引いた。
「行くぞ」
「今朝行ったばかりだが、侯爵はまだ邸にいらっしゃるはずだ」
ヨゼフが身を引いて道を空けた。
「忙しい方だが、顔くらいは見てもらえるかもしれん。まあ、試してみろ」
「恩に着る、旧友! 今度おごるよ」
「踏み倒すなよ」
二人は別れ、ハーンはイノを連れて城門脇の馬小屋に馬を預けた。
だがイノは二人の会話などほとんど耳に入っていなかった。
街道の光、風、人の声——すべてが目の中に流れ込んでくる。
熱く、眩しく、どこから見ればいいのかわからない。
ラッパの音が街角で弾け、砂糖を炒る甘い香りが革の生臭さと混ざって鼻を突く。
二階の女中が差し出す盆が、陽を弾いて目を射った。
「ぼうっと突っ立ってないで、行くぞ!」
ハーンが振り向いて声を飛ばした。
イノは慌てて追いかけたが、足取りはまだどこかふわふわしていた。
「ハーンのおじさん、さっきの人……?」
「ヨゼフか。若い頃、一緒に侯爵の下で働いてたんだ。あの頃はまだただの兵隊崩れだったのにな」
ハーンが笑い、それからひとつ息をついた。
「まさかあいつも、あれを着る日が来るとはな」
「いいことじゃないの?」
ハーンは答えなかった。
ただ、首を振った。
——————
二人が街角を一つ曲がったところだった。
白袍の伝道師が、ひっくり返した木箱の上に立ち、声を張り上げていた。
「ノルマは我らに秩序を与え給うた。そして光を。苦痛は信仰の試練であり、敬虔なる者のみが救われるのです」
イノは足を緩め、顔を上げた。
あの男の表情がよく見えない。
ハーンが軽く肩を叩いた。
「ああいう連中は、いつもうまいことを言うんだ」
教会の外には長い列ができていた。
杖にすがる老人。赤子を抱いた女。石段に座り込んで息を荒くする病人。
「あの人たち、何をしてるの?」
イノが小声で訊いた。
「病を治してもらうんだ」
ハーンの口調は素っ気なかった。
「聖光術は確かに痛みを止める。ただし、十分に敬虔であるか——十分に金を持っているか、だがな」
「聖光術?」
「治癒の魔法だ」
「え? 本当に魔法なんてあるの?」
「お前、いったいどこで暮らしてたんだ?」
「なんで? みんな知ってることなの?」
「うちの村にも教会があっただろうが。ほら、あの……名前が出てこないな」
「ハーンのおじさん……俺が七つのときにはもう誰もいなかったよ、あの中」
「あ、そうだったか?」
イノが顔を傾けた。
「おじさんこそ、いったいどこで暮らしてたの?」
ハーンが後頭部を掻いた。
「……まあとにかく、教会だけが使える魔法だ」
イノは視線を列へ戻した。
差し出された手。丸まった体。
ノルマの名は、物心ついた頃から知っていた。
創造主ノルマは光の上に立ち、秩序を授け、救済を授けた。
ノルマの眼は混沌を見通すと、人々は言う。
だがイノは覚えていた——あの壁画に描かれた眼には、いつも瞳がなかった。
イノの唇がわずかに開いた。
「悪魔は血肉を喰らう。ノルマは何を喰うんだろう」
街の向こうで、教会の鐘が定刻に鳴った。
祈りの声と人波が一斉にうねる。
ハーンが振り返り、少し笑った。
「まあ、ここ数年は連中も商売がやりにくくなったがな」
「どうして?」
「薬師だよ」
ハーンが言った。
「銅貨三枚で、熱を下げ、咳を止め、傷口に膏を塗ってくれる。早いし、効く」
あの列にちらりと目をやり、皮肉を含んだ声で続けた。
「お前ならどうする? 神の奇跡を待つか、三枚で済ませるか」
「薬師?」
イノが眉をひそめた。
「薬草に詳しくて、膏薬や煎じ薬を調合する人間のことだ」
ハーンがさらりと説明し、付け加えた。
「知らなかったのか? エリーナも昔はそうだったんだぞ」
「母さんが?」
イノが目を見開いた。
「一度も言われたことない」
「あの晩お前が飲んだ薬湯、どこから来たと思ってたんだ?」
ハーンは軽く笑い、もうイノを見なかった。
イノは列に並ぶ蒼白い顔を一つ一つ見つめた。
しばらく、何も言えなかった。
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二人は街道を進み、広場の中央にたどり着いた。
そこには巨大な銀鷲の石像があった。
いや、あった——というべきか。今まさに取り壊されている最中だった。
砕けかけた翼が荒縄で縛られ、半ばまで宙に吊られている。
下では石工たちが槌を振るい、鑿を打ち込んでいた。
砕石の音が広場に幾重にも反響する。
イノは顔を上げ、まだ倒れていない胴体を見つめた。
陽光が断面を滑り、影が人々の足元に斜めに落ちている。
「あれは何?」
ハーンの足が少し緩んだ。
半ばで止まった石の翼を、じっと見ている。
「オーランド城の象徴だ」
少し間を置いた。
「城ができた頃から、ずっとあった」
「なんで壊してるの?」
ハーンはその問いには答えなかった。
「行くぞ」
イノは振り返った。
あの石の翼が風の中でかすかに揺れている。
足を速め、ハーンの背中にぴたりとついた。
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大通りを曲がると、巨石の高壁が目に飛び込んできた。
クリステル城砦だった。
門前に、甲冑の磨かれた兵士が数名、直立していた。
鎧には翼を広げた鷲と、金の樫の枝が刻まれている。
来訪者の姿を認めると、一人が進み出た。
「何かお手伝いできることがございますか?」
あれほど厳しい面持ちなのに、言葉がこれほど穏やかな人を見たことがない。
ハーンが丁寧に頭を下げた。
「猟師のハーン・フェルナンデスと申します。侯爵様に急ぎの用がございまして、お取り次ぎ願えませんでしょうか」
兵士が頷き、門の中へ入っていった。
イノはその重い扉を見つめ、それから並ぶ兵士に目を走らせた。
「ねえ……侯爵様、会ってくれるかな?」
「緊張するな」
ハーンが笑った。
「侯爵は人を喰ったりしないさ」
イノは首を振った。
「そうじゃなくて」
少し黙って、続けた。
「あの兵士……ものを尋ねるだけで、あんなに丁寧なんだ」
ハーンがふいに、小さく笑った。
手を伸ばして、イノの髪をくしゃりと撫でた。
イノは高い壁を見上げ、深く息を吸い込んだ。
背筋が、さらに伸びた。
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ロワク城郊外 村
ユージンが壁にもたれていた。
左手を肩に置き、指先で時折押さえている。
マルがそばにしゃがみ、木の枝で地面に何か描いていた。
ローナがいつの間にか、ユージンの前に立っていた。
「痛いの?」
ユージンが顔を上げ、ちらりと彼女を見た。
「別に」
ローナが肩のあたりに目をやった。
ユージンは眉をひそめ、手を肩から下ろした。
少し苛立っている。
「あんたは自分の仕事だけしてりゃいいんだよ」
そう言って、鼻で笑った。
「いちいち姐御ぶるなって」
ローナが一瞬、止まった。
「何?」
ユージンが鼻を鳴らした。
「違うか?」
「いつもわざとらしく人のこと気にかけてさ」
顔を上げて、ローナを見た。
「まず自分の心配でもしたらどうだ」
ローナの眉が寄った。
「あたしがいつわざとらしかった?」
ユージンが薄く笑った。
「まだ昔と同じだと思ってんだ?」
マルが顔を上げ、二人を見比べた。
少し落ち着かなさそうに頭を掻く。
ユージンの声が、じわりと冷えていった。
「俺たちが昔イノとつるんでたのは、パンが食えたからだ」
「あんたを怖がってたのは、イノがあんたを姉貴扱いしてたからだ」
「本気で俺たちがあんたを姐御だと思ってたとでも?」
マルが口を開きかけた。
「ユージン——」
ユージンが手を振って遮った。
言わせない。
ローナを見ている。
「あんた、この何年、俺たちに何か話しかけたことあったか?」
「今になって急に気にかけてくるなんてさ」
ユージンが少し間を置いた。
「まさかリオン様に何か頼んでほしいとか、そういう話じゃないよな?」
「だったら最初からそう言えよ」
「回りくどいことしなくていい」
ローナは彼を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「あんた、いつからこんなふうになったの」
ユージンの目が、一瞬だけ止まった。
それから肩をすくめた。
「ずっとこうだよ」
「あんたが知らなかっただけだ」
ローナの声が少し冷たくなった。
「自分が今どんな顔してるか、わかってる?」
ユージンが笑った。
「あんた何様だよ。俺に説教か?」
「まさか俺にもあんたみたいに働け、とでも?」
ローナを見据える。
「そんであんたの足の悪い親父みたいに、冬に家の中で死ぬのか?」
マルが固まった。
ユージンは何事もなかったようにマルの肩を叩いた。
「行くぞ」
マルがローナを見て、ユージンを見た。
結局、立ち上がってついていった。
少し歩いてから、マルが小声でぼそりと言った。
「なんで急にあんな……」
ローナはその場から動かなかった。
ふと、小さな景色が頭をよぎった。
夏だった。
木陰が大きくて。
イノとユージンとマルの三人が木の棒を持って打ち合い、汗だくで笑っていた。
『ローナ姉! 一緒にやろうよ!』
父が死んでから、あそこにはずっと行かなかった。
一度だけ、遠くからイノを見かけたことがある。
あの木の下で、一人で棒を振っていた。
しばらく立って見ていた。
それから踵を返して、酒場に戻った。
ローナはゆっくりと息を吸った。
風がエプロンの裾をかすかに揺らした。




