第9話 風、起こる
ロワク城砦 ヴィセス邸 午前
高座の下、シリアンが影の中に立っていた。
「件の事案は〈逐宪者〉が処理いたしました。現場は清掃済みです。学院の方が午後にお問い合わせに参ります」
アルレイクは椅子に深く腰を沈め、両手を肘掛けの上に置いていた。
「リオン以外に、目撃者は?」
「おりません。ただ——」
「ただ、何だ?」
「街中で噂になっております——リオン若が獣を仕留め、人々を救った、と」
短い沈黙。
アルレイクが片眉を上げた。
「それは結構。ロワク城の英雄は、ヴィセスの名を持つ」
言い終わるか終わらないかのうちに、イレイナが帳簿を開き、小声で報告した。
「西区の塩鉱税が入金遅延しております。商会からの保証金が——」
アルレイクが手を上げて遮った。
「リオンは?」
イレイナがかすかに笑った。
「おそらくまだ布団の中で震えていらっしゃるかと」
「呼べ」
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ロワク城砦 ヴィセス邸 リオンの部屋
厚い帳が陽を遮り、部屋には古い香の匂いが立ちこめていた。
書卓の上には昨夜の酒が乾ききらずに杯の底に溜まり、外套は椅子の背にかかったまま、長靴には泥がこびりついている。
リオンはベッドの縁に座り、両手でシーツを握り締め、息が浅くなっていた。
あの音を覚えている。
三つの孔の眼を覚えている。
背を向けて走ったとき、あの風を覚えている。
耳を塞いでも、まだ聞こえる。
あの黒洞のような「眼」が、ゆっくりとアルレイクの眼差しに重なっていく——
同じ見下ろし方。
同じ、息のできない沈黙。
同じ、膝をつかせる静けさ。
「逃げてはいない。生き延びることも勇気だ、判断だ……」
もう少しでその言葉を信じかけていた。
だがあの風がまた脳裏を掠めた——
自分が何かを突き飛ばしたことを覚えている。
影ではない。
人だった。
「イノ……あいつ、生きているのか?」
扉が叩かれた。
「若様、伯爵様がお呼びです」
リオンが顔を上げた。
目がひと拍空になった。
立ち上がり、上着を羽織り、袖口を整えた。
鏡の中の自分は顔色が蒼白だったが、わずかに笑みの形を作った。
廊下は長かった。
靴の踵が石畳を打つ。
一つ。
一つ。
曲がり角で、足が止まった。
父が自分を呼んでいる。
ならば、これ以上怖いものはない。
少なくとも、まだ見てもらえる。
侍衛が居眠りしていた。
顔を上げたとき、リオンはもう目の前に立っていた。
目が据わっている。
瞳孔が針のように細く、顔中に冷や汗。
口元がかすかに引かれ、笑みのようで、笑みではない。
侍衛の手が把手の上で半秒固まったが、気がつけばリオンはもう自ら扉を押し開けていた。
「父上、申し訳ありません。時刻を失念しておりました」
アルレイクが目を上げた。
その表情が、珍しくひと瞬だけ緩んだ。
「あの獣の件、耳に入った。見事だ」
リオンが凍りついた。
二拍の間を置いて、ようやく頭を下げた。
「……父上?」
「よくやった、リオン」
胸の中に、心臓の音だけが残った。
アルレイクの言葉が、鋭く頭に突き刺さった。
(僕が、やった?)
アルレイクは、自分があの怪物を仕留めたと思っている。
(父上の耳目は城中に張り巡らされている。ならば、事はすでに処理されたはず……では)
「イ——」
喉から半音だけ漏れた。
だがアルレイクは自分を褒めている。
リオンの口元がわずかに動き、ぎこちない、ほとんど形をなさない笑みが浮かんだ。
胸の緊張がゆっくりと解け、奇妙な安堵が血の中をめぐった——
見てもらえている。
必要とされている。
たとえ嘘でも、本当にしなければ。
「今や街中がお前の話で持ちきりだ。行って伝えてこい——我がヴィセスがあの畜生をどう始末したかを」
「はい、父上」
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ロワク城 小さな町 午前
酒場の外の片隅で、ユージンとマルが石段にしゃがみ込み、骰子を振っていた。
笑い声に汚い言葉が混じる。
不意に、頭上からかすかな擦れる音がした。
ガシャン——!
植木鉢の割れる音が弾け、陶片が四方に飛び散った。ユージンの肩に直撃し、声を上げた。
「いってえ——何だよこれ!」
「うわっ!」
マルがびくりと跳ね上がり、手の中の骰子が側溝に転がっていった。
「大丈夫だ!」
ユージンが肩を揉みながら吐き捨てた。
「くそ、誰だよ上にガラクタ置きやがったの——」
「上、誰もいないぞ……」
マルが顔を上げて目を細めた。陽の光が目に刺さり、涙が出る。
ユージンも見上げた。
二階の窓が半開きで、風にカーテンがかすかに揺れている。
が、誰もいない。
ほぼ同時に——
イノが酒場の扉を押し開けた。
酒の匂いが顔に押し寄せ、笑い声と杯が合わさる音が耳に飛び込んでくる。
ハーンがいるはずだと確信していたが、ローナの姿は見えなかった。
「おい、ガキ。場所を間違えてないか?」
カウンター脇の大男が酔眼を半分開けた。
「ここはお前が泥遊びする場所じゃねえぞ。家帰っておふくろの乳でも飲んでろ!」
角の方で太い笑いが弾けた。
イノは眉をひそめ、そのままハーンの隣に座った。
ハーンが背中を軽く叩き、口元にからかうような笑みを浮かべた。
「当ててやろうか……エリーナにこっぴどく叱られたな?」
「同意してくれなかった」
「やっぱりな」
ハーンが杯を一息に干した。
「はあ……」
イノは頭を垂れ、両手で膝を握り締めた。
「ずっと何もしないままなんて、できないよ」
ハーンが椅子の背にもたれ、少し黙ってから言った。
「エリーナはお前が道を踏み外すのが怖いんだ。帰ってこられなくなるのも」
イノは口をつぐんだ。
隣で誰かが酒のげっぷをし、椅子がギィと鳴った。
「だがまあ——」
ハーンが少し笑い、声を軽くした。
「お前の年で止まれっていうのも無理な話だ」
イノの肩を叩いた。
「若い頃の俺にそっくりだな」
イノがあの大男をちらりと見た。
「あんな連中みたいにだけはなりたくない。昼間っから死んだように酔いつぶれて、ここに転がってるだけなんて」
酒場が一瞬、静まった。
酔客たちが互いに目を見合わせ、複雑な無念さを顔に浮かべた。
あの大男が「バン!」と卓を叩いて立ち上がり、目を剥いた。
「もう一回言ってみろ、このガキ」
イノが立ち上がった。
一歩も退かない。
「言ってやる——」
「やめろ」
ハーンの声が鋭く割り込んだ。
イノの前に体を入れ、笑みは浮かべているが目は冷え切っている。
「すまない、若いもんで礼儀を知らなくてな」
ハーンが軽く手を合わせた。
「あとで一杯おごらせてもらう」
大男が鼻を鳴らして座った。
イノがまだ何か言おうとしたのを、ハーンが片手で座席に押し戻した。
「このガキ、勝てるかどうかは知らんが、エリーナに知れたら尻の皮がなくなるぞ」
「でも先に絡んできたのはあっちだろ——」
「わかってる」
ハーンが遮り、立ち上がって酒杯を押しやった。
「行くぞ、運試しだ」
「え?」
「それ以外に何の用で来たんだ?」
ハーンがにやりと笑った。
「どこへ?」
「クリステル侯爵に会いに行く」
ハーンが手回り品をまとめた。
「会えるかどうかは五分五分だがな」
「よし!」
イノの目が輝いた。
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馬小屋の脇で、黒鬃の馬が陽の光の中で鬃を振っていた。
鼻から白い息がひと筋立ち上る。
「これ、おじさんのか?」
「俺のじゃなきゃ、エリーナのだとでも?」
ハーンが鞍に跨り、手を伸ばした。
「突っ立ってないで、乗れ」
イノが飛び乗った。
尻が落ち着くか落ち着かないかのうちに、蹄が土を蹴った。
風が頬を叩き、道が足元を猛烈に後退していく。
手綱を死に物狂いで握り、馬背の上下に合わせて体がぎくしゃく動く。
丸太のように硬い。
金色に光る麦畑が横を掠め、雀が飛び立った。
自分が馬に乗っているのか、風に押されて前へ突っ込んでいるのか、もうわからない。
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林の中の影が、疾走する馬に次々と後方へ弾かれていく。
「イノ」
ハーンが口を開いた。
声が風を越えて届く。
「言い返さなきゃならん言葉ばかりじゃない。やり返すべき挑発ばかりでもない」
「わかってるよ」
「さっきは堪えたかと思ったんだがな」
ハーンの口の端が半笑いに上がった。
「あいつが先にふっかけてきたんだ」
「ああわかってるよ、お前はあのまま座って——俺はてっきり——」
「あっちが先だ」
ハーンが軽く鼻を鳴らした。
「お前は本当に根に持つやつだな……」
イノは何も言わなかった。
「クリステル侯爵がどういう人物か、知ってるか?」
首を振った。
「鉄樺で最も力のある人間の一人だ。あの家の名はこの土地より古い」
ハーンの声が低くなった。
「統治に長け、教育を重んじる。グランソワ学院の後援者の一人でもある」
「俺を助けてくれるかな?」
「それはお前次第だ、小僧。俺はお前を連れていくことしかできん」
遠くに、オーランド城の灰色の壁が地平線に浮かんだ。
塔が陽の中に光り、ひっそりと巨人のようだった。
ハーンが横を向いて聞いた。
「エリーナには言ったのか? 俺と出かけるって」
イノが少し固まった。
「……言ってない」
「終わったな」
ハーンが溜め息をついた。
「また叱られる」




