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悪役令嬢はもう泣かない  作者: 秋月 もみじ


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第9話 報告会の朝、すべての帳簿が開かれる


 記録院の扉は、思ったより重かった。


 両手で押して開けると、朝の光が石造りの廊下に差し込んでいた。風の強い日だった。窓の外で官庁区の旗がばたばたと鳴っている。


 リタが隣で深呼吸した。


「リーネ様」


「大丈夫。行きましょう」


 手には活動報告書。寺子屋のカリキュラム、出席記録の写し、識字率の変化を示す表、商人ギルドとの連携実績。昨夜、三度読み返して、一字の誤りもないことを確認した。


 審査室の扉を開ける。



 長机が三つ、コの字に並んでいた。正面に審査委員——記録官が二名、財務官が一名。右手側にギルド代表としてトーマスが座っている。目が合うと、小さく頷いてくれた。


 リタは傍聴席に。私は報告者席に着く。


 ——そこまでは、想定通りだった。


 左手側の傍聴席に、二つの人影があった。


 双頭の鷲を胸に縫い取った礼服。金糸の飾緒。亜麻色の髪と白い聖衣。


 アルヴィン殿下。そしてセレスティナ。


 心臓が跳ねた。わかっていた。書面の時点でわかっていた。でも実際に目の前にいると——。


 一呼吸。二呼吸。


 大丈夫。ここは記録院の審査室だ。舞踏会の広間ではない。断罪の場ではない。証拠と記録の場所だ。


 報告書の表紙を指先で確かめて、前を向いた。



「では、リーネ・フォン・ヴェルナー嬢。寺子屋事業の活動報告をお願いいたします」


 記録官の声は事務的で、淡々としていた。それが、今はありがたかった。


 立ち上がる。


「はい。本事業は、商業区南端に開設した小規模教育施設において、識字教育および基礎算術を行うものです」


 声が震えなかったのは、昨夜あの備品ノートを読んだからだ。


 ——よい報告を。


 あの一行が、背骨になっている。


「開設から現在まで、登録児童数は八名。出席率は平均九割を超えております。カリキュラムは週五日、午前に読み書き、午後に算術と生活知識——」


 数字を並べた。感情ではなく事実で語る。ナナが「な」の字から始めて、今は短い文章を書けるようになったこと。ルッツが二桁の計算に入ったこと。そういう一つ一つを、記録として。


 報告の途中で、トーマスが発言を求めた。


「商人ギルドの立場から補足させていただきます。寺子屋の卒業生については、ギルドとして見習い受け入れを正式に表明いたします。識字能力と基礎算術を有する人材は、商業区にとって極めて有益です」


 審査委員の一人が頷き、記録官が筆を走らせた。


 ——ちゃんと、届いている。


 毎日石板を拭いて、インク壺を補充して、ルッツの間違いを直して、エミルの涙を拭いた。その全部が、今この記録に載っている。



 報告を終えた直後だった。


「発言を求めます」


 左手側の傍聴席から声が上がった。低く、よく通る声。


 アルヴィン殿下が立ち上がっていた。


 審査委員が顔を見合わせたが、王太子の発言を制止する権限はない。記録官が「どうぞ」と言うしかなかった。


「この教育事業は、王家の慈善事業の理念と深く合致するものです。リーネ嬢の献身は称賛に値する。王家として、この事業を保護し、リーネ嬢には王宮付きの教育顧問として——」


 来た。


 丁寧に包まれた言葉だけれど、中身は変わらない。私を王家の管理下に戻す。寺子屋を王太子の功績に組み込む。


「——ご活躍の場をさらに広げていただきたいと考えております」


 セレスティナが、隣で静かに涙を浮かべた。


「リーネ様の素晴らしいお働きを……王家として支えられたら、わたくしも嬉しいのです」


 薄い水色の瞳から、涙がひとすじ。声の震わせ方も、涙の量も、あの日と同じ——完璧に制御された感情表現。


 審査委員たちの視線が揺れた。王太子の提案。聖女の涙。この二つが揃えば、普通は断れない。


 私は口を開きかけた。


 そのとき——会場の端で、椅子が鳴った。



 立ち上がったのは、壁際に座っていた男だった。地味な亜麻布の服。見慣れた頭巾。


 その頭巾を、ゆっくりと外した。


 審査室の空気が変わった。記録官の筆が止まった。財務官が息を呑んだのが聞こえた。


 顔を知っている。もちろん知っている。でも今、その顔が——頭巾の影からではなく、この部屋の光の中にさらされるのを見るのは、初めてだった。


「王弟フェリクス・フォン・ヴァルトシュタインです」


 静かな声だった。備品管理係の平坦な声でもなく、夜の巡回のときの低い声でもなく——公的な場に立つ人間の、明瞭な声。


「本件に関連する資料を提出いたします」


 フェリクスが審査委員の前に歩み出て、二つの書類を差し出した。


「一点目。寺子屋の出席簿の控えです。事業開始時から現在に至るすべての記録を、独立した第三者として保管しておりました。報告者の提出記録と照合していただければ、活動の正当性を確認いただけます」


 出席簿。ナナが初めて来た日から。ルッツの身長が伸びた日も、エミルが泣いた日も、ロッテが「先生」と叫んだ日も。全部。


 ——この人は、最初から。


「二点目。本事業に関連する過去の経緯について、元王太子付き侍女マリエ・ベッカーの証言記録です。証言者と筆記者の署名入りの原本であり、内容は慈善事業の審査に直接関わるものです」


 マリエの証言。あの夕暮れの教室で、震える声で語ってくれた——すべて。


 フェリクスが審査委員に向き直った。


「この事業は、いかなる個人の庇護も必要としておりません。制度の枠内で正当に運営されており、助成金の審査基準をすべて満たしています」


 一拍の間を置いて、続けた。


「加えて、王太子殿下の教育視察が助成金審査日に重ねられた経緯について、手続き上の確認を求めます。視察と審査が同日に設定された事実は、審査の独立性に関わる問題です」


 審査室が静まり返った。


 アルヴィンの顔から、一瞬だけ表情が消えた。それを取り繕うように唇を引き結ぶのが見えた。


 審査委員がマリエの証言記録を開いた。目が文面を追うにつれて、記録官の筆を持つ手がわずかに強張った。


「セレスティナ様」


 記録官が顔を上げた。


「本記録について、事実確認をさせていただきます」


 セレスティナの涙が——止まった。


 ただ、止まった。唇が動きかけて、言葉が出ない。涙はもう流れていない。目が泳いでいる。あの完璧に制御された表情が、初めて崩れたのを、私は見た。


「わたくしは——ただ、リーネ様のお力に」


「本件は審査記録に基づき、後日改めて確認の場を設けます」


 記録官の声は事務的だった。感情がない。それがいい。ここは記録の場所だ。涙ではなく文字が残る場所だ。


 長い沈黙が落ちた。


 アルヴィンが立ち上がった。


「……本日の視察は、終了とする」


 それだけだった。


 断罪はなかった。糾弾もなかった。王太子は筋書きを失った人間の顔で、聖女の腕を取り、審査室を出て行った。


 扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。



 審査委員が残りの手続きを進める間、私は報告者席に座ったまま、自分の指を見ていた。


 震えていなかった。


 報告書を握っていた手も、フェリクスが立ち上がったときに膝の上で握りしめた手も、今はもう——穏やかに開いている。


 軟膏のおかげで、ひび割れはだいぶ治った。チョークの白い粉が、まだ爪の際に残っている。


 明日も、子どもたちが来る。



 審査が閉会し、記録院の廊下に出た。


 リタが隣を歩いている。


「リーネ様」


「ん?」


「勝ちましたね」


「勝ち負けじゃないわ」


 窓の外を見た。風がまだ強い。官庁区の旗がはためいている。


「ただ——正しい場所に、正しい記録が残った。それだけよ」


 リタが何か言いかけて、口を閉じた。それから、小さく笑った。「はい」と。


 記録院の出口が見えた。大きなアーチ型の門。その向こうに、初夏の日差しが白く広がっている。


 そこに人が立っていた。


 頭巾はもうない。王弟の礼服でもない。飾緒も紋章もない。簡素な亜麻布の上着に、見覚えのある革の鞄。備品ノートが入っていた、あの鞄。


 フェリクスが、門の脇に背を預けて立っていた。


 私の足が止まった。


 目が合った。あの人の目を、影の外で——頭巾なしで、まっすぐ見るのは、初めてかもしれない。灰色がかった青。深くて、静かで、少しだけ——怯えている。


 名乗った後の、この人の居場所が、まだ決まっていない。


「先生」


 ——まだ、先生と呼んだ。


 王弟として名乗った後で。審査室であの声を出した後で。出席簿の控えを全部出した後で。


 それでもまだ、「先生」。


 ああ。


 この人はまだ、備品管理係のつもりだ。


 名前を明かしても、立場を使っても、この人自身の居場所はまだ——備品棚の横にしかないと思っている。


 風が吹いた。記録院の旗がばたばたと鳴って、フェリクスの髪を乱した。この人の髪が風に揺れるのを見るのも、初めてだった。


 私は何も言えなかった。ありがとうも、あなたのおかげでも、今は言葉にならない。


 だからただ——小さく、頷いた。


 フェリクスも、小さく頷き返した。


 それだけで、十分だった。今は。

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― 新着の感想 ―
第3話 先生と備品管理係では第2王子となってましたけど、こちらの回では王弟とされていて、どちらが正しいのでしょうかね?
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