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悪役令嬢はもう泣かない  作者: 秋月 もみじ


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8/10

第8話 助けを求めていいと、あの人は言った


 約束通り、マリエは来た。


 夕方の授業が終わり、子どもたちを送り出したあとの教室。西日が窓から差し込んで、机の木目を琥珀色に染めていた。その光の中に、栗色の髪を簡素にまとめた女性が立っている。


 前回と同じ、地味な茶色の外套。でも目が違う。あの日の怯えはまだ残っているけれど、その奥に——何かを決めた人間の光がある。


「お待ちしていました、マリエさん。座って」


「……はい」



 リタが淹れた白湯を、マリエはしばらく両手で包んでいた。湯気を見つめて、唇を何度か開きかけては閉じて。


 急かさない。この人が言葉を見つけるまで、いくらでも待てる。


 やがて、マリエは顔を上げた。


「リーネ様は——王太子殿下に婚約の解消を申し出られたと伺いました」


「ええ」


「あのとき、殿下がどれほどお怒りだったか、ご存じですか」


 知らない。知る必要もないと思っていた。でもマリエの声には、怒りの話をしているのに悲しみの色が滲んでいた。


「殿下は、ご自分から断罪する筋書きを用意なさっていました。舞踏会の場で、貴族たちの前で。リーネ様を——セレスティナ様を虐げた悪女として、公に糾弾するおつもりでした」


 知っている。前の人生で、実際にそうされたから。


 でもそれは口にしない。


「それを、リーネ様がご自分から先に解消を申し出られた。殿下の筋書きは崩れました。殿下は……とても、混乱なさっていました」


 マリエの指が、白湯の器をきつく握った。


「そしてセレスティナ様が——殿下のお傍で、泣かれたのです」


「……泣いた」


「はい。『リーネ様がいなくなってしまう、私のせいで』と。殿下はすぐにセレスティナ様を慰められて、リーネ様を取り戻すとおっしゃいました」


 聖女の涙。


 あのとき窓の外で見た、あの完璧な泣き方だ。声が震えすぎず、涙の量が多すぎず、相手の庇護欲をちょうど刺激する程度の——。


「マリエさん。その涙は、本物でしたか?」


 マリエが、唇を噛んだ。


「……いいえ」


 その一言が、教室に落ちた。夕日に照らされた埃が、ゆっくりと舞っていた。


「わたしは——侍女として、セレスティナ様のお傍に長くおりました。あの方が本当に泣かれるとき、声は出ません。ただ、肩が震えるだけです。でもあの日の涙は……声も、言葉も、すべてが整いすぎていました」


 マリエの声が小さくなる。


「以前からそうでした。リーネ様が殿下とお話しになると、その後に必ず、セレスティナ様が泣かれるのです。『リーネ様にこんなことを言われた』と。でもわたしは……そのとき、近くにいたことが何度もあります。リーネ様は、そんなことをおっしゃっていなかった」


 息を、深く吸った。


 怒りではない。悲しみでもない。ただ、長い時間をかけて積もった砂埃を、ようやく払い落としたような——そういう感覚だった。


「わたしは、声を上げられませんでした。侍女の立場では、聖女様のお言葉に異を唱えることなど。でも——ずっと」


 マリエの声が震えた。今度は、本物の震えだ。


「ずっと、おかしいと思っていました。リーネ様は——わたしが知るリーネ様は、あんなことをする方では、なかった」


 白湯の器から手を離して、マリエは深く頭を下げた。


「遅くなりました。本当に——申し訳ありません」



「顔を上げてください、マリエさん」


 私は椅子から立って、マリエの前に膝をついた。頭を下げたままのマリエの手を、そっと取る。冷たくて、細い指だった。


「あなたは来てくれた。それだけで十分です」


「でも——」


「マリエさん」


 目を合わせた。


「あなたの言葉を、記録に残させてください。私のためだけではなく——今後、同じことが誰かに起きないようにするために」


 マリエが目を見開いた。それから、静かに頷いた。


 リタが筆と紙を用意してくれた。マリエの証言を、リタが一語一語丁寧に書き取っていく。証言者の名前。日付。場所。具体的な出来事の記述。マリエが署名し、リタが筆記者として署名した。


 私は記録を読み返し、封筒に入れた。


「大切にします。ありがとう、マリエさん」


 マリエは外套のフードを被り直して、もう一度だけ教室を見回した。子どもたちの習字が壁に並んでいる。ナナの字。ルッツの計算。ミラの花。マリエの目がまた潤んだけれど、今度は涙を流さなかった。


「リーネ様。この場所を——どうか、守ってください」


「守るわ。約束します」



 マリエが帰って、リタも帰して、ひとりになった。


 机の上に証言記録の封筒がある。出席簿の控えはフェリクスが持っている。返書の控えは引き出しにある。審査日まであと三日。


 ——武器は、揃いつつある。


 でも。


 椅子に座ったまま、天井を仰いだ。教室の梁が、蝋燭の光に照らされて影を作っている。


 前の人生でも、証拠はあった。私が何もしていないという事実は、そこにあった。でも誰にも見せなかった。誰にも助けを求めなかった。全部ひとりで抱えて、ひとりで法廷に立って、ひとりで負けた。


 今は——武器がある。証拠がある。味方がいる。リタがいる。マリエが来てくれた。トーマスが寺子屋を支えてくれている。子どもたちがいる。


 それでも。


 この手で全部やらなければいけないと、まだ思っている自分がいる。


 助けを借りることは、弱さではないはずだ。頭ではわかっている。でも体が覚えている。助けを求めた瞬間に裏切られる恐怖を。差し伸べられた手が、いつ引っ込められるかわからない不安を。


 ……でも。


 あの子たちに言ったじゃないか。「困ったときは先生に言うのよ」と。エミルが泣いたとき、「泣いていいのよ」と。


 大人が、自分に同じことを許せないなんて——おかしい。



 戸を叩く音がした。


 いや、違う。戸の外に立っている気配がした。叩くかどうか迷っているような——。


 私は立ち上がって、戸を開けた。


 フェリクスが、そこにいた。


 頭巾を被って、夜の通りに立っている。いつもの巡回の延長。でも今日は、寺子屋の前で立ち止まっていた。


「フェリクスさん」


「……灯りがまだ点いていたので」


 言い訳が先に出る。この人はいつもそうだ。


 私は——今日は、窓越しに話すのをやめた。教室から外へ、一歩踏み出した。


 夜の空気が肌に触れた。初夏の夜はぬるい。星が、少しだけ出ている。


「フェリクスさん。あなたが備品管理係でないことは、もう分かっています」


 フェリクスが、微かに息を吸ったのが聞こえた。


「詮索するつもりはありません。あなたが名乗らないのなら、それでいい。今はそれよりも——」


 言葉を探した。喉の奥が、少しだけ詰まる。


 助けてほしい。


 たった五文字だ。子どもたちには毎日言っている。「先生に言ってね」と。それなのに、自分がその五文字を口にするのが、こんなに——。


「審査の日。私ひとりでは、足りないかもしれません」


 声が震えなかったのは、意地だ。


「助けて、ほしいんです」



 長い沈黙が落ちた。


 夜風が、通りの向こうの洗濯紐を揺らしている。フェリクスの頭巾の端が、かすかに動いた。


「……出席簿の控えは」


 低い声だった。いつもの平坦な声ではない。少しだけ——ほんの少しだけ、温度がある。


「全て、保管してあります」


 全て。


 最初の一冊から。ナナが初めて来た日の記録から。ルッツが計算を間違えた日も、エミルが泣いた日も、ロッテが「先生」と呼んだ日も。全て。


 ——この人は、最初から。


「ありがとう、ございます」


 声が、少し掠れた。


 フェリクスが踵を返しかけた。二歩、歩いて——立ち止まった。


 振り返った。頭巾の下の目が、蝋燭の漏れ光にほんの一瞬だけ照らされた。


「先生」


「はい」


「あなたは——助けを求めていい人間です」


 心臓が、止まったかと思った。


「それを、忘れないでください」


 声が違う。備品管理係の声ではない。誰かの下に隠れた人間の声でもない。この人自身の——ただ、この人だけの声。


 目の奥が、熱くなった。


 泣きそうになった。息を止めて、唇を引き結んで、まばたきを一度だけ深くして——堪えた。


「……泣かないって、決めたんです」


「知っています」


 短い言葉だった。でもその二語に、どれだけの時間が詰まっているのか。


 この人は知っている。私が泣かないと決めたことを。あの朝。書記官局に走ったあの朝から、ずっと。いつから見ていたのかはわからない。でも「知っています」と言い切れるだけの時間を、この人はどこかで過ごしてきた。


 フェリクスが歩き出した。足音が遠ざかる。規則正しく、静かに。


 私はしばらく、通りに立ったままだった。夜風が髪を揺らして、初夏の星がぼんやりと滲んで見えた。


 ——この人に助けを求めて、よかった。



 教室に戻った。


 蝋燭がだいぶ短くなっている。机の上に——備品ノートが開かれたまま置いてあった。


 いつもの備品リスト。チョーク、筆、インク壺、石板。フェリクスの丁寧な筆跡が並んでいる。


 最後の行だけ、いつもと違った。


 備品リストではない。


「先生の分の筆も、1本追加しておきました。——よい報告を」



 先生の分の、筆。


 子どもたちの分ではなく。教材用でもなく。私の——私だけの、一本。


 備品ノートにこんなことを書く人を、私は備品管理係だなんてもう呼べない。


 呼べないのに、明日もきっとあの人は「備品管理の一環です」と言うのだろう。


 蝋燭の芯が、ぱちりと弾けた。


 審査日まで、あと三日。


 証言記録がある。出席簿の控えがある。返書の控えがある。そして——「助けを求めていい」という言葉がある。


 どんな書面より、どんな証拠より、あの一言が今の私を一番強くしている。


 蝋燭を消す前に、備品ノートの最後の一行をもう一度読んだ。


 ——よい報告を。


 ええ。必ず。

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