第8話 助けを求めていいと、あの人は言った
約束通り、マリエは来た。
夕方の授業が終わり、子どもたちを送り出したあとの教室。西日が窓から差し込んで、机の木目を琥珀色に染めていた。その光の中に、栗色の髪を簡素にまとめた女性が立っている。
前回と同じ、地味な茶色の外套。でも目が違う。あの日の怯えはまだ残っているけれど、その奥に——何かを決めた人間の光がある。
「お待ちしていました、マリエさん。座って」
「……はい」
リタが淹れた白湯を、マリエはしばらく両手で包んでいた。湯気を見つめて、唇を何度か開きかけては閉じて。
急かさない。この人が言葉を見つけるまで、いくらでも待てる。
やがて、マリエは顔を上げた。
「リーネ様は——王太子殿下に婚約の解消を申し出られたと伺いました」
「ええ」
「あのとき、殿下がどれほどお怒りだったか、ご存じですか」
知らない。知る必要もないと思っていた。でもマリエの声には、怒りの話をしているのに悲しみの色が滲んでいた。
「殿下は、ご自分から断罪する筋書きを用意なさっていました。舞踏会の場で、貴族たちの前で。リーネ様を——セレスティナ様を虐げた悪女として、公に糾弾するおつもりでした」
知っている。前の人生で、実際にそうされたから。
でもそれは口にしない。
「それを、リーネ様がご自分から先に解消を申し出られた。殿下の筋書きは崩れました。殿下は……とても、混乱なさっていました」
マリエの指が、白湯の器をきつく握った。
「そしてセレスティナ様が——殿下のお傍で、泣かれたのです」
「……泣いた」
「はい。『リーネ様がいなくなってしまう、私のせいで』と。殿下はすぐにセレスティナ様を慰められて、リーネ様を取り戻すとおっしゃいました」
聖女の涙。
あのとき窓の外で見た、あの完璧な泣き方だ。声が震えすぎず、涙の量が多すぎず、相手の庇護欲をちょうど刺激する程度の——。
「マリエさん。その涙は、本物でしたか?」
マリエが、唇を噛んだ。
「……いいえ」
その一言が、教室に落ちた。夕日に照らされた埃が、ゆっくりと舞っていた。
「わたしは——侍女として、セレスティナ様のお傍に長くおりました。あの方が本当に泣かれるとき、声は出ません。ただ、肩が震えるだけです。でもあの日の涙は……声も、言葉も、すべてが整いすぎていました」
マリエの声が小さくなる。
「以前からそうでした。リーネ様が殿下とお話しになると、その後に必ず、セレスティナ様が泣かれるのです。『リーネ様にこんなことを言われた』と。でもわたしは……そのとき、近くにいたことが何度もあります。リーネ様は、そんなことをおっしゃっていなかった」
息を、深く吸った。
怒りではない。悲しみでもない。ただ、長い時間をかけて積もった砂埃を、ようやく払い落としたような——そういう感覚だった。
「わたしは、声を上げられませんでした。侍女の立場では、聖女様のお言葉に異を唱えることなど。でも——ずっと」
マリエの声が震えた。今度は、本物の震えだ。
「ずっと、おかしいと思っていました。リーネ様は——わたしが知るリーネ様は、あんなことをする方では、なかった」
白湯の器から手を離して、マリエは深く頭を下げた。
「遅くなりました。本当に——申し訳ありません」
「顔を上げてください、マリエさん」
私は椅子から立って、マリエの前に膝をついた。頭を下げたままのマリエの手を、そっと取る。冷たくて、細い指だった。
「あなたは来てくれた。それだけで十分です」
「でも——」
「マリエさん」
目を合わせた。
「あなたの言葉を、記録に残させてください。私のためだけではなく——今後、同じことが誰かに起きないようにするために」
マリエが目を見開いた。それから、静かに頷いた。
リタが筆と紙を用意してくれた。マリエの証言を、リタが一語一語丁寧に書き取っていく。証言者の名前。日付。場所。具体的な出来事の記述。マリエが署名し、リタが筆記者として署名した。
私は記録を読み返し、封筒に入れた。
「大切にします。ありがとう、マリエさん」
マリエは外套のフードを被り直して、もう一度だけ教室を見回した。子どもたちの習字が壁に並んでいる。ナナの字。ルッツの計算。ミラの花。マリエの目がまた潤んだけれど、今度は涙を流さなかった。
「リーネ様。この場所を——どうか、守ってください」
「守るわ。約束します」
マリエが帰って、リタも帰して、ひとりになった。
机の上に証言記録の封筒がある。出席簿の控えはフェリクスが持っている。返書の控えは引き出しにある。審査日まであと三日。
——武器は、揃いつつある。
でも。
椅子に座ったまま、天井を仰いだ。教室の梁が、蝋燭の光に照らされて影を作っている。
前の人生でも、証拠はあった。私が何もしていないという事実は、そこにあった。でも誰にも見せなかった。誰にも助けを求めなかった。全部ひとりで抱えて、ひとりで法廷に立って、ひとりで負けた。
今は——武器がある。証拠がある。味方がいる。リタがいる。マリエが来てくれた。トーマスが寺子屋を支えてくれている。子どもたちがいる。
それでも。
この手で全部やらなければいけないと、まだ思っている自分がいる。
助けを借りることは、弱さではないはずだ。頭ではわかっている。でも体が覚えている。助けを求めた瞬間に裏切られる恐怖を。差し伸べられた手が、いつ引っ込められるかわからない不安を。
……でも。
あの子たちに言ったじゃないか。「困ったときは先生に言うのよ」と。エミルが泣いたとき、「泣いていいのよ」と。
大人が、自分に同じことを許せないなんて——おかしい。
戸を叩く音がした。
いや、違う。戸の外に立っている気配がした。叩くかどうか迷っているような——。
私は立ち上がって、戸を開けた。
フェリクスが、そこにいた。
頭巾を被って、夜の通りに立っている。いつもの巡回の延長。でも今日は、寺子屋の前で立ち止まっていた。
「フェリクスさん」
「……灯りがまだ点いていたので」
言い訳が先に出る。この人はいつもそうだ。
私は——今日は、窓越しに話すのをやめた。教室から外へ、一歩踏み出した。
夜の空気が肌に触れた。初夏の夜はぬるい。星が、少しだけ出ている。
「フェリクスさん。あなたが備品管理係でないことは、もう分かっています」
フェリクスが、微かに息を吸ったのが聞こえた。
「詮索するつもりはありません。あなたが名乗らないのなら、それでいい。今はそれよりも——」
言葉を探した。喉の奥が、少しだけ詰まる。
助けてほしい。
たった五文字だ。子どもたちには毎日言っている。「先生に言ってね」と。それなのに、自分がその五文字を口にするのが、こんなに——。
「審査の日。私ひとりでは、足りないかもしれません」
声が震えなかったのは、意地だ。
「助けて、ほしいんです」
長い沈黙が落ちた。
夜風が、通りの向こうの洗濯紐を揺らしている。フェリクスの頭巾の端が、かすかに動いた。
「……出席簿の控えは」
低い声だった。いつもの平坦な声ではない。少しだけ——ほんの少しだけ、温度がある。
「全て、保管してあります」
全て。
最初の一冊から。ナナが初めて来た日の記録から。ルッツが計算を間違えた日も、エミルが泣いた日も、ロッテが「先生」と呼んだ日も。全て。
——この人は、最初から。
「ありがとう、ございます」
声が、少し掠れた。
フェリクスが踵を返しかけた。二歩、歩いて——立ち止まった。
振り返った。頭巾の下の目が、蝋燭の漏れ光にほんの一瞬だけ照らされた。
「先生」
「はい」
「あなたは——助けを求めていい人間です」
心臓が、止まったかと思った。
「それを、忘れないでください」
声が違う。備品管理係の声ではない。誰かの下に隠れた人間の声でもない。この人自身の——ただ、この人だけの声。
目の奥が、熱くなった。
泣きそうになった。息を止めて、唇を引き結んで、まばたきを一度だけ深くして——堪えた。
「……泣かないって、決めたんです」
「知っています」
短い言葉だった。でもその二語に、どれだけの時間が詰まっているのか。
この人は知っている。私が泣かないと決めたことを。あの朝。書記官局に走ったあの朝から、ずっと。いつから見ていたのかはわからない。でも「知っています」と言い切れるだけの時間を、この人はどこかで過ごしてきた。
フェリクスが歩き出した。足音が遠ざかる。規則正しく、静かに。
私はしばらく、通りに立ったままだった。夜風が髪を揺らして、初夏の星がぼんやりと滲んで見えた。
——この人に助けを求めて、よかった。
教室に戻った。
蝋燭がだいぶ短くなっている。机の上に——備品ノートが開かれたまま置いてあった。
いつもの備品リスト。チョーク、筆、インク壺、石板。フェリクスの丁寧な筆跡が並んでいる。
最後の行だけ、いつもと違った。
備品リストではない。
「先生の分の筆も、1本追加しておきました。——よい報告を」
先生の分の、筆。
子どもたちの分ではなく。教材用でもなく。私の——私だけの、一本。
備品ノートにこんなことを書く人を、私は備品管理係だなんてもう呼べない。
呼べないのに、明日もきっとあの人は「備品管理の一環です」と言うのだろう。
蝋燭の芯が、ぱちりと弾けた。
審査日まで、あと三日。
証言記録がある。出席簿の控えがある。返書の控えがある。そして——「助けを求めていい」という言葉がある。
どんな書面より、どんな証拠より、あの一言が今の私を一番強くしている。
蝋燭を消す前に、備品ノートの最後の一行をもう一度読んだ。
——よい報告を。
ええ。必ず。




