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悪役令嬢はもう泣かない  作者: 秋月 もみじ


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第7話 正式な書面と、不器用な嘘


 封蝋は、双頭の鷲だった。


 朝、寺子屋の戸を開けたら、差出口に一通の書簡が落ちていた。白い封筒に金の縁取り。押された蝋の紋章を見た瞬間、指先が冷たくなった。


 ——王太子殿下。


 リタが隣で息を呑んだのが聞こえた。


「開けます」


 自分に言い聞かせるように呟いて、封を切った。



 文面は丁重だった。一分の隙もなく整えられた宮廷書式。


『リーネ・フォン・ヴェルナー嬢の教育事業に深い関心を抱いております。つきましては、王宮にて活動の報告を賜りたく、ご招待申し上げます。日時は以下の通り——』


 日付を読んで、息を止めた。


 助成金の審査日と、同じ日。


 あの封書の警告の通りだ。一字の違いもない。


「リーネ様……これは」


「大丈夫よ、リタ」


 手紙を机に置いた。指が震えていないことを確かめてから、もう一度読み返す。


 ——「ご招待申し上げます」。


 召喚ではない。招待だ。


 宮廷文書法において、「招待」は受諾・辞退の選択権が受取人にある。「召喚」であれば法的拘束力が生じるが、この書面にはその文言がない。つまり、断ることもできるし——条件をつけることもできる。


 あの人は、知っていたのだ。この書面が「招待」の形式で来ることを。だから事前に教えてくれた。慌てないように。冷静に読めるように。


「リタ、紙と筆を持ってきて。返書を書くわ」



 返書の草案を書き終えた頃、教室の裏口が静かに開いた。


 フェリクスだった。今日は帽子ではなく、薄い亜麻布の頭巾を被っている。日差しが強くなったからだろうか。


「おはようございます、先生。今日の備品確認に参りました」


「おはようございます。フェリクスさん、少しいいですか」


 備品棚に向かいかけたフェリクスの足が止まった。


「先日——机の上に、封書がありました」


 沈黙が、一拍。


 フェリクスの手が、備品ノートの上でわずかに止まった。ほんの一瞬だったけれど、私はそれを見逃さなかった。


「備品の発注書ではありませんか」


「いいえ。発注書には助成金の審査日程は書かれないと思います」


 フェリクスが備品ノートを開いた。ページをめくる指は落ち着いている。でも、耳が赤い。頭巾の縁から覗く耳の先が、はっきりと。


 追及するつもりはなかった。この人が名乗らないのなら、名乗らないなりの理由があるのだろう。


「あの封書のおかげで、慌てずに済みました」


 棚に並んだチョークの箱を整えながら、言った。


「届けてくださった方に、ありがとうございますとお伝えください」


 フェリクスは何も答えなかった。備品ノートに数字を書き込んでいる。筆先は正確で、一画の乱れもない。——この筆跡を、私はもう知っている。


「……チョーク、4箱補充しておきます」


 それだけ言って、フェリクスは棚に向き直った。



 返書は昼前に仕上げた。


『ご招待を謹んでお受けいたします。ただし、寺子屋の活動報告は王家慈善事業助成金の審査と密接に関わるものであるため、審査の場と同席の形で報告の機会を頂戴できれば幸いです。公的な審査記録に活動内容を残すことが、事業の透明性にも資するものと存じます』


 リタが清書してくれた文面を、もう一度読み直す。


 これで、アルヴィンが報告の場を私的に利用する余地は狭まる。審査委員と助成金の記録官が同席する場で、王太子が元婚約者を公然と取り込もうとすれば、手続き上の問題になる。


 書面一枚。それが今の私の武器だ。


「リタ、書記官局の窓口に出してきてくれる? 受領印をもらうのを忘れないでね」


「はい、リーネ様。……かっこいいです、その手紙」


「かっこよくないわ。怖いだけ」


 正直に言った。怖い。でも怖いのと動けないのは違う。前の人生では、怖くて黙って、黙ったまま断罪された。今度はちゃんと、自分の言葉で返す。



 午後の授業を終えた頃だった。


 教室の入口に、見覚えのある人が立っていた。宮廷の侍女服ではなく、地味な茶色の外套を羽織った女性。栗色の髪を簡素に編み込んで、俯きがちに立っている。


 マリエ。


 元・王太子殿下付きの侍女。前の人生で、何度か廊下ですれ違った人だ。セレスティナが王太子の傍に来てからは、少しずつ遠ざけられていたはずの——。


「リーネ様」


 小さな声だった。


「お久しぶりです、マリエさん。どうぞ中へ」


「あの……お伝えしなければならないことが」


 マリエの手が、外套の裾を握りしめていた。唇が震えている。言葉を探しているような、それでいて怖がっているような顔。


「あります。リーネ様に——」


「先生ーーっ!」


 ロッテの声が廊下から飛んできた。ルッツとエミルがもつれるように教室に転がり込んでくる。


「ルッツがエミルのチョーク折った!」


「折ってねえ! 勝手に割れたんだ!」


「エミルが泣いてるーっ!」


 マリエが一歩退いた。子どもたちの声と動きに、ほんの一瞬だけ目を見開いて——それから、その表情が変わった。


 怯えではなかった。教室の壁に貼られた子どもたちの習字を見ている。ナナの「な」の字。ルッツの計算問題。ミラが描いた花の絵。マリエの目に涙が浮かんだ。


「……すみません。今日は」


「いいのよ、マリエさん。急がなくて大丈夫」


「また来ます」


 マリエは外套の袖で目元を拭って、小さく頭を下げた。


「必ず——また来ます」


 その声には、聖女の涙にはない何かが混じっていた。私にはわかる。作られた震えと、本当に震えている声の違いくらい。


 マリエの背中を見送りながら、子どもたちの喧嘩を仲裁する。チョークは新しいのを出せばいい。エミルの涙は本物だけど、すぐ乾く涙だ。


 ——あの人の涙は、すぐには乾かない種類のものだった。



 夜。


 子どもたちを送り出し、リタも帰し、ひとりで明日の教材を並べていた。


 窓の外はもう暗い。初夏の宵は長いけれど、路地に灯りはほとんどない。教室の蝋燭が窓硝子に映って、自分の顔がぼんやり見える。


 その向こうに、人影が動いた。


 通りを歩いている。ゆっくりと、寺子屋の前を。規則正しい歩幅で、周囲を見渡しながら。


 ——フェリクスさん。


 備品管理の用事がある時間ではない。子どもたちはとうに帰った。備品棚はもう閉めた。


 窓を開けた。


「フェリクスさん」


 人影が立ち止まった。頭巾の下の顔がこちらを向く。


「……先生。まだいらしたんですか」


「それはこちらの台詞です。こんな時間にどうされたの?」


 沈黙。


 フェリクスが一歩、こちらに近づいた。窓越しに見上げる形になる。蝋燭の灯りが頭巾の陰を少しだけ照らした。


「夜道の治安確認です。備品が盗まれると困りますので」


 ——二度目の嘘。


 この人は嘘がとても下手だ。声は平坦なのに、理由だけがいつも不自然に具体的すぎる。備品が盗まれる心配があるなら、鍵を増やせばいい。夜中に歩く必要はない。


「備品管理係は、夜間警備もなさるの?」


 笑ってしまった。意地悪で言ったわけではない。ただ、この人の不器用さがおかしくて、少しだけ嬉しくて。


 フェリクスが帽子の——いや、今日は頭巾だ——縁を引き下げた。


「……管轄の範囲です」


「ずいぶん広い管轄ですね」


「備品管理は多岐にわたりますので」


 まだ言い張るんだ、この人。


 小さく息をついて、窓枠に手を置いた。


「ありがとうございます。……お気をつけて」


 フェリクスは小さく頷いて、また歩き出した。規則正しい足音が遠ざかっていく。


 窓を閉める前に、もう一度だけその背中を見た。


 あの人の管轄は、いったいどこまで広がるのだろう。


 備品ノートから出席簿の控えへ。軟膏から封書へ。そして今は、夜の巡回。


 ——どれも、備品管理係の仕事ではない。


 でもあの人は「管轄です」と言い張る。私はそれを、嘘だと知っている。知っていて、受け取っている。受け取ってしまっている。


 それが何を意味するのか、まだ名前をつけたくない。


 蝋燭を吹き消す前に、マリエの顔を思い出した。あの涙と、あの「必ず」という声。伝えなければならないこと。


 助成金の審査日まで、あと二週間。


 王太子が動いている。聖女が動いている。そして——名前もない誰かが、夜の道を歩いている。


 私は机の上の返書の控えを指先でなぞり、蝋燭を消した。


 明日は、ナナが「ぬ」の字に入る日だ。

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