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悪役令嬢はもう泣かない  作者: 秋月 もみじ


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第6話 聖女の涙は乾いていた


 白い手袋が、教室の戸を叩いた。


 朝の授業が始まって間もない時刻だった。ナナが石板に「な」の字を書き終えた瞬間、リタが血相を変えて教室に飛び込んできた。


「リーネ様、聖女様がいらっしゃいました。寺子屋の子どもたちに祈りを捧げたいと——」


 心臓が一拍、跳ねた。


 けれど私は筆を置いて、静かに立ち上がる。泣かない。慌てない。ここは私の教室だ。


「お通しして」


 


 セレスティナ・ラウシェンバッハは、白と金の聖衣を纏って現れた。


 柔らかな亜麻色の髪。薄い水色の瞳。両脇に侍女を従え、胸の前で祈りの形に指を組んでいる。その姿はたしかに——絵画のように完璧だった。


「突然の訪問をお許しくださいね、リーネ様。恵まれない環境にある子どもたちがいると聞いて、いてもたってもいられなくて」


 声が震えている。いや、震わせている。


 前の人生で何度も見た演技だ。聖女の涙。聖女の慈悲。それに王太子が何度も騙されて、私は何度も悪者にされた。


 けれど今の私には、もうあの頃の怯えはない。


「ありがとうございます、セレスティナ様。子どもたちもきっと喜びます」


 にっこりと笑って、教室の中央へ案内した。


 


 ナナが目を丸くしてセレスティナを見上げた。ルッツは警戒するように半歩下がり、ミラはエミルの袖を掴んでいる。ロッテだけが物怖じせず、「きれいなお姉さん!」と声を上げた。


「ありがとう。あなたたちに、光の女神様のお恵みを届けに来たの」


 セレスティナが膝をつき、両手を広げる。聖衣の袖が白い翼のように広がった。侍女が一歩退き、祈りの姿勢を取る。


 ——浄化の儀。


 穢れを祓い、心を清める。聖女に与えられた最も象徴的な魔法。王宮では何度も披露され、その度に淡い光が対象者を包み、人々はひざまずいた。


 セレスティナの唇が祈祷の言葉を紡ぐ。空気が微かに震える。


 私は子どもたちの後ろに立ち、静かに見守った。


 ——三秒。五秒。十秒。


 何も起きなかった。


 光が、灯らない。


 セレスティナの指先が微かに震えた。もう一度、祈祷を繰り返す。声がほんの少しだけ高くなった。


 何も、起きない。


「……あれ、魔法は?」


 ロッテが首を傾げた。無邪気な声が、静まり返った教室に響く。


「きれいなお姉さん、光るやつ見せてくれるんじゃないの?」


 セレスティナの頬から、一瞬だけ微笑みが剥がれた。ほんの一瞬。それを見ていたのは、たぶん私だけだった。


「……今日は、少し体調が優れないようです。子どもたち、お騒がせしてごめんなさいね」


 聖女は立ち上がり、衣の裾を払った。指先がまだ震えている。


 私は一歩前に出た。


「お加減がよろしくないのでしたら、どうぞご無理なさらず。——お気をつけてお帰りください」


 それだけを、穏やかに言った。


 嘲りはいらない。勝ち誇る必要もない。この子たちに穢れなどないという事実だけが、ここにある。


 セレスティナは何も言わず、侍女を促して教室を出て行った。白い背中が小さくなるのを、私は戸口に立って見送った。


 


「先生、あの人どうしたの?」


 ナナが袖を引いた。


「大丈夫よ。少しお疲れだったの」


 しゃがんで目線を合わせ、ナナの頭をそっと撫でた。


「さ、授業の続きをしましょう。ナナ、さっきの『な』の字、とても上手だったわ」


 子どもたちが席に戻っていく。それだけのことだ。ここでは毎日、石板の上に文字が増えていく。それ以上でも以下でもない。


 


 昼過ぎ、リタが裏口から戻ってきた。市場の買い出しのついでに、いつもの情報収集をしてくれていたらしい。


「リーネ様、例の噂なんですが」


 リタが声を潜めた。


「『元婚約者が貧民街で怪しい集会を開いている』——って話、商業区ではまったく広まっていないそうです。八百屋のおかみさんに訊いたら、『ああ、あの寺子屋の先生でしょう? うちの甥っ子も通わせたいくらいだよ』って」


 思わず、息が漏れた。


「それと、トーマスさん経由で。ギルドの親方衆が寺子屋の卒業生を見習いに取ると言ってくれているそうです。正式にではないですが、会合で話題に上がったと」


 ……ああ。


 ちゃんと、届いている。毎日ナナたちの石板を拭いて、インク壺を補充して、ルッツの間違いを直して、エミルの涙を拭いて。その積み重ねが、少しずつ。


「ありがとう、リタ。あなたのおかげよ」


「わたしは買い物ついでにお喋りしているだけですから」


 リタはそう言って笑ったけれど、この人がどれだけ丁寧に情報を拾ってきてくれているか、私はちゃんと知っている。


 午後。フェリクスが来た。


 いつものように備品管理係の顔で、いつものように静かに教室へ入ってくる。今日は出席簿の控えを受け取りに来たらしい。


「前回お願いした二部目の控え、お預かりします」


「どうぞ。……ねえ、フェリクスさん。出席簿の控えって、備品管理に必要なものなんですか?」


「必要です」


 短い。いつも通りだ。それ以上の説明はしない。


 フェリクスが控えの帳面をめくり、ひとつひとつ確認している。その横をルッツが駆け抜けた。


「ルッツ、背が伸びたな」


 何気ない一言だった。帳面から目を上げもせずに言った。


 ルッツが驚いた顔をして、それからにっと笑った。「おう、わかる? 先生がちゃんとご飯食べなさいってうるさいから!」


 ——この人、名前を覚えている。


 八人の子ども全員の名前と顔を。ルッツの身長が伸びたことまで。


 備品管理係が覚えるような情報では、ない。



 フェリクスが出席簿をしまい、立ち上がった直後だった。


 教室の戸が叩かれた。今日は来客の多い日だ。


 入ってきたのは、見覚えのない壮年の文官だった。王宮の制服を着ている。


「失礼いたします。王太子アルヴィン殿下の名代として参りました。殿下がリーネ嬢の教育事業に深い関心を持っておられ、王宮にて報告の場を設けたいとのことです」


 空気が変わった。


 フェリクスが帽子を深く被り直し、備品棚の影に自然に退いたのが視界の端に見えた。


 ——来た。


 やはり、アルヴィン殿下は動いてきた。婚約解消から数ヶ月。聖女の訪問が失敗した直後のこのタイミング。偶然ではないだろう。


 けれど、慌てない。


「ご関心をお寄せくださり光栄です。ただ、このような場での口頭のお伝えだけでは、私としても判断がつきかねます。正式な書面でのご依頼をいただければ、検討いたしますわ」


 文官の眉が、微かに上がった。


 元伯爵令嬢の——それも婚約を解消された令嬢が、王太子の招きを即答で受けないなど、想定していなかったのだろう。


「……承知いたしました。改めて書面にて」


 文官は形式的な礼をして帰っていった。


 私はその背中を見送りながら、握りしめていた手をそっと開いた。爪の跡が、掌に残っていた。



 子どもたちを送り出し、リタも帰り、教室の片付けをしていたときだった。


「先生」


 まだいたのか、この人。


 フェリクスが備品棚の整理をしながら、こちらを見ていた。


「手」


「……え?」


「手を見せてください」


 言われるまま差し出すと、フェリクスの視線が私の指先で止まった。チョークとインクで荒れた指。爪の際が少しひび割れている。自分では気にしていなかったけれど。


「備品箱の右端に軟膏が入っています。使ってください」


 視線を逸らされた。声が、ほんの少しだけ低くなっていた。


「……備品箱に軟膏?」


「備品です」


 それだけ言って、フェリクスは帽子を目深に被り直し、教室を出て行った。


 ——備品箱を開けた。右端に、小さな白い陶器の壺。蓋を開けると、蜜蝋とラベンダーの香りがした。滑らかで、きめが細かい。


 これは、市場で売っているものではない。


 王都の薬師通りでも見たことがない。宮廷の侍医が調合する類のものだ。こんなものが備品であるはずがない。


 ——備品管理係は、軟膏を届けたりしない。


 壺を指先で撫でて、そっと蓋を閉じた。それ以上は、考えないことにした。今は。



 日が暮れた教室で、ひとりきり。


 明日の教材を並べ終えて、ふと机の端に目が留まった。


 封書が一通。いつからあったのだろう。封蝋の紋章は、見覚えのないものだった。少なくとも王家の双頭鷲ではない。


 開くと、紙が一枚。一行だけ。


 ——「助成金の審査日程が確定しました。同日に、王太子殿下の教育視察が予定されています」


 差出人の名はなかった。


 けれどこの筆跡を、私は知っている。毎日、備品ノートに丁寧な文字を書き連ねる、あの——。


 ……いいえ。まだ、決めつけてはいけない。


 封書を教材の間に挟み、窓の外を見た。夕焼けが教室の壁を橙に染めている。


 助成金の審査と、王太子の視察が同じ日。


 それは偶然ではない。


 ——でも、この封書を届けてくれた人も、偶然ではないはずだ。


 明日も、子どもたちが来る。ナナは「に」の字を練習する予定だ。ルッツは計算がもう二桁に入った。


 この場所を、誰にも渡さない。


 私は封書を握ったまま、教室の灯りを消した。

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