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悪役令嬢はもう泣かない  作者: 秋月 もみじ


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第5話 コマ回しと約束


 カラン、と軽い音がして、木のコマが石畳の上で跳ねた。


「あーっ、また倒れた!」


 ルッツが悔しそうに地団太を踏む。その横でナナがコマを拾い上げて、「紐の巻き方が雑なんだよ」と偉そうに言っている。ミラが黙って自分のコマを回して、綺麗に回転させた。


 裏庭の昼休み。秋が深まって、風が少し冷たくなった。子どもたちは寒さなんか気にしていない。


 ──コマは、商業区の露店で見つけた安物だ。一個銅貨三枚。子どもたちの手遊びにちょうどいいと思って、八個買った。遊びの中に計算を混ぜるつもりだった。コマの回転数を数えさせれば、数字の勉強になる。


(前世の「遊びながら学ぶ」メソッド。この世界でも有効だった)


 ナナが新入りの女の子にコマ紐の巻き方を教えている。二週間前に来たばかりの子が、ナナの真似をして紐を巻く。ナナの教え方が、案外うまい。


「ナナ、教え方が上手ね」


「だって先生が教えてくれたのと同じようにやってるだけだよ」


 ──その言葉が、じんわりと胸に沁みた。


 教えたことが、次の子に伝わっている。連鎖。教育で一番嬉しい瞬間は、自分がいなくても回り始めること。


 朝の授業で見たナナの石板を思い出す。一ヶ月前は震えるような線だった文字が、今はちゃんと形になっている。とめ、はね、はらい。全部ではないけれど、自分の名前を迷いなく書けるようになった。


「先生、フェリクスさまにも教えてあげてよ。全然回せないんだもん」


 ルッツが裏庭の隅を指差した。


 フェリクス殿下が、コマを持って途方に暮れている。


 紐を巻こうとしているのだが、指が長すぎるのか、小さなコマに紐をうまく引っかけられない。真剣な顔で紐と格闘している王族というのは、なかなかに珍しい光景だ。


(……備品管理係は、コマ回しの管轄外では)


「殿下、その持ち方だと子どもに勝てませんよ」


 近づいて、声をかけた。殿下が顔を上げる。緑の目が、少し困ったような色をしている。


「……コマは、経験がありません」


「お教えしますね。こう──紐はここに引っかけて、指三本で支えるんです」


 殿下の手からコマを取って、紐の巻き方を実演する。それだけでは伝わらない気がして──殿下の手に、自分の手を重ねた。


 指の位置を直す。長い指に、紐を持つ角度を教える。コマの底に紐が密着するように、手首のひねりを添える。


「ここを支点にして、こう。手首で回すんです、腕じゃなくて」


「……手首で」


「はい。力を入れすぎると飛んでいきますから、軽く」


 殿下の手が、少しだけ温かかった。


 あ、と思った瞬間、コマが手を離れて石畳の上で回った。ぐらぐらと不安定だったけれど、三秒ほど保ってから倒れた。


「回りましたね!」


「……ええ」


 殿下の返事が、妙に小さかった。顔を見ると──耳が、赤い。


(寒いのだろうか。秋だし)


「フェリクスさま、耳真っ赤だよ」


 ナナが容赦なく指摘した。


「……風が冷たいので」


「えー、さっきまで赤くなかったのに」


「風向きが変わったのでしょう」


(風向き?)


 よくわからない理屈だったが、殿下がコマに視線を落として黙々と紐を巻き直し始めたので、それ以上は聞かなかった。


 ◇


 午後。トーマスが来た。


 商人ギルドとの見習い受け入れの詳細を詰めるための再訪。卒業基準の最終調整、受け入れ先の業種の拡大、見習い期間中の待遇。私は出席簿とカリキュラム表を広げて、トーマスと向かい合って座った。


「これが現在の進捗表です。上位三名は基礎的な読み書きと四則計算が完了しています。年明けには最初の卒業生を出せると思います」


「素晴らしい。ギルドの方でも受け入れ枠を増やす方向で話が進んでいまして」


 トーマスが身を乗り出して、帳簿を覗き込む。真剣な目だった。この人は商人だから、数字の意味を正確に読む。出席率、進捗の伸び率、教材の消化速度。


「リーネ先生のカリキュラムは、他のどの教会学校とも違いますね。体系的で、しかも実践的だ」


「ありがとうございます。子どもたちが実際に使える知識を優先していますので」


 トーマスが笑った。人懐っこい笑顔で、こちらの目をまっすぐ見る。商人らしい距離の詰め方。悪い印象はない。


 ──教室の隅で、何かが落ちる音がした。


 振り向くと、フェリクス殿下が備品棚の前に立っていた。ノートの束が床に散らばっている。殿下が無言で拾い上げている。


「殿下、大丈夫ですか」


「問題ありません。在庫確認中です」


 在庫確認。さっきからずっとしている。同じ棚の前で、もう二十分以上。


(……数え間違いでもしたのだろうか)


 トーマスとの話に戻る。受け入れ条件の最終確認を終えて、トーマスが立ち上がった。


「次は月末に、ギルド長を連れて正式な契約に伺います。リーネ先生、今後ともよろしくお願いします」


 差し出された手を握る。商人の握手は固い。


 トーマスが帰った後、リタが備品の納品書を持ってきた。


「お嬢様。本日の備品ですが……」


「何?」


「ノートが三十冊、筆が六十本、インク壺が十二個。チョークが四箱。それと石板が八枚」


「……え」


「いつもの三倍です」


 三倍。


 フェリクス殿下を見る。殿下は備品を棚に詰め込む作業に没頭している。ノートを並べる手つきが、いつもよりきっちりしている。角が全部揃っている。


「殿下、こんなに頼んでいないのですが」


「在庫管理の効率化です。まとめて仕入れた方が単価が下がります」


(……それは確かにそうだけど、三倍は効率化の範囲を超えていないだろうか)


 奥から、ルッツとナナのひそひそ声が聞こえた。


「ねえ、フェリクスさま今日ちょっと怖くない?」


「うん。さっきノート落としてたし。いつもは落とさないのに」


(怖い? いつもは穏やかな方なのに──何かあったのだろうか)


 心当たりがない。私が何か失礼なことをしただろうか。午前中のコマ回しの時は普通だったのに、午後から急に。


「殿下」


「何でしょう」


「私、何かご不快なことを──」


「何もありません」


 即答。速すぎる。


「……そうですか」


 それ以上は聞けなかった。殿下の横顔が、備品棚に向いたまま動かなかったから。


 ◇


 夜。


 子どもたちが帰って、リタも二階に上がった後、一人で翌日の教材を作っていた。


 蝋燭の灯りが揺れる。紙にペンを走らせる音だけが、静かな一階に響いている。明日は計算の応用問題を出す予定で、商売で使う帳簿の読み方を簡単にした教材を作りたい。


 入口の扉が、控えめに叩かれた。


 こんな時間に。もう日が暮れている。


 開けると、フェリクス殿下が立っていた。手に──小さな紙包みを持っている。


「遅くに申し訳ありません。明日の備品を届けに来たのですが、灯りが見えたので」


「……殿下、もうこんな時間ですよ」


「先生こそ」


 返す言葉がなかった。殿下が教室に入ってきて、紙包みを棚の上に置いた。それから、机の上に広がった教材の下書きを見た。


「……毎晩、作っているのですか」


「毎晩ではありません。二日に一度くらいです」


「それは毎晩とほぼ同義では」


(……痛いところを突く)


 殿下が、教材用のペンを棚に戻しながら聞いた。


「なぜ、そこまで」


 簡単な質問。でも、答えるのが少し難しい質問。


「……この子たちには」


 ペンを置いた。蝋燭の灯りが手元を照らしている。漆喰を塗った後のかさついた指先。


「大人に裏切られたという記憶しかない子もいます。約束を守ってもらえなかった子。信じた大人に嘘をつかれた子。だから私は——約束を守る大人でいたいんです。教材を作ると約束したら作る。明日の授業があると言ったら必ずある。それだけのことなのですが、それが一番難しくて、一番大事で」


 言葉が止まった。


 言いすぎた、と思った。でも殿下は黙って聞いていた。棚の前に立ったまま、蝋燭の灯りを反射する緑の目で。


「……あなたは」


 殿下の声が、低い。いつもの穏やかな声と少し違う。


「あなたは、自分が約束を破られた側だったことはないのですか」


 手が止まった。


 一周目の記憶が、不意に喉元まで込み上げた。あの広間。断罪。誰も手を取ってくれなかった夜。約束なんか、全部嘘だった。


「……あります」


「なら」


 殿下の声が、もう半音低くなった。


「あなたにも、約束を守る人間がいるべきだ」


 ──心臓が、一つ跳ねた。


 いや、違う。驚いただけだ。予想していなかった言葉だったから。


(……慈善事業の統括として、寺子屋への責任感を言っているのだろう。そうに決まっている)


「……ありがとうございます、殿下。心強いお言葉です」


 殿下が、一瞬だけ何か言いかけて、やめた。唇が動いて、閉じた。


「では、夜分に失礼しました。先生も、あまり遅くまで」


「はい。もう少しだけ」


 殿下が扉を開けて出ていく。秋の夜の冷たい空気が、一瞬だけ教室に流れ込んだ。


 扉が閉まる。足音が遠ざかる。


 ──片づけをしていたら、殿下が置いていった紙包みの隣に、小さな袋が一つ紛れていた。


 開けると、茶葉だった。乾燥した葉から、甘い花の香りがする。


(これも備品……? 在庫管理の効率化の一環……?)


 首を傾げたが、夜も遅いので深くは考えなかった。ありがたく棚にしまう。明日リタに淹れてもらおう。


 蝋燭を消す前に、さっきの言葉が頭の中で繰り返された。


 ──あなたにも、約束を守る人間がいるべきだ。


(……約束を、守る人間)


 殿下の声の温度を思い出しかけて──考えないことにした。


 蝋燭を吹き消す。暗くなった教室に、茶葉の甘い香りだけが残っていた。

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