第4話 漆喰と軟膏
ナナが、新入りの女の子の手を取って文字を書かせている。
「違うよ、こう。こっちから先に線を引くの」
「……こう?」
「そうそう。うまい」
三週間前には自分の名前も書けなかった子が、今は誰かに教えている。その光景が目の前にあるだけで、朝起きた甲斐があると思う。
寺子屋の子どもは八人に増えた。ナナ、ルッツ、ミラ、エミル、ロッテ。そこに商業区の近所から三人。全員、読み書きを習ったことのない子どもたちだ。
机が足りない。
八人分の席を確保するために、板材で急いで組んだ机をもう二つ追加したけれど、脚がぐらつく。チョークも減りが早い。ノートは──フェリクス殿下が備品管理係として定期的に届けてくれるので助かっているが、それ以外の消耗品は私の持参金から捻出している。
(一年分、と思っていた予算が、このペースだと八ヶ月で底をつく)
出席簿を開いて、今月の支出を確認する。インク代、チョーク代、板材代、釘代。一人増えるごとに少しずつ嵩んでいく費用。
贅沢はしていない。していないのだけれど。
──壁のひび割れが、また増えていた。
◇
午前の授業を終えて、子どもたちが裏庭で遊んでいる間に、壁を見に行った。
一階の東側。漆喰が剥がれて、下地の煉瓦が見えている。冬が来る前に塞がないと、隙間風で教室が冷える。
(業者に頼む余裕はない。自分でやるしかない)
前の世界でも、施設の軽い修繕は職員が自分たちでやっていた。漆喰の塗り方くらいは知っている。安い漆喰材を市場で買ってきて、古い刷毛で塗ればいい。
作業着に着替えて、買ってきた漆喰の袋を開ける。水で溶いて、刷毛で壁に塗る。こてがないので刷毛で代用しているが、均一に塗るのが難しい。腕を上げていると肩が痛い。指先が白くなる。爪の間に漆喰が入り込む。
「……侯爵令嬢が壁塗りをしているなんて、宮廷の人が見たら何と言うかしら」
誰にともなく呟いて、自分で笑った。
(言わせておけばいい。私はもう宮廷の人間じゃない)
刷毛を動かしていたら、隣にもう一つ、腕が伸びてきた。
袖を肘まで捲り上げた腕。漆喰の袋からこてを──いや、こては持っていない。素手で漆喰を掬い、壁に押し当てて、掌で均している。
「…………殿下?」
フェリクス殿下が、何も言わずに隣で壁を塗っていた。
いつ来たのかわからない。足音がしなかった。備品管理係は、いつの間にか壁塗り係も兼任したらしい。
「殿下、あの、お召し物が──」
白い漆喰が殿下の上着の袖についている。仕立てのいい生地に、べったりと。
「洗えば落ちます」
それだけ言って、塗り続けた。
(落ちないと思う)
でも、それ以上は言えなかった。殿下の手つきが妙に慣れているのだ。漆喰を均す動きに迷いがない。壁に押しつける力加減も、下地の煉瓦の凹凸に沿って表面を滑らかにしていく手も。
(……王族が、なぜ漆喰の塗り方を知っているのだろう)
聞けなかった。代わりに、黙って隣で塗った。二人で塗ると、一人でやるよりずっと早い。東側の壁は昼前には塗り終わった。
殿下が壁を見上げて、仕上がりを確認している。袖まくりした前腕に漆喰の白い飛沫がついていて、その上を秋の日差しが照らしている。
──目を逸らした。何を見ているんだ私は。
「先生」
殿下がこちらを向いた。
「一つ、ご提案があります」
「何でしょう」
「王家の慈善事業助成金を、この教室に適用することができます。申請手続きは私の方で行いますので、先生は運営に集中していただければ」
助成金。
(……それは、つまり)
「寺子屋の経費を、公的に支援するということですか」
「はい。認定条件はいくつかありますが、こちらの教室は要件を満たしています。出席簿の記録が丁寧で、カリキュラムが体系的です。審査は通ると思います」
出席簿の記録。
前世の習慣で、何気なくつけていた記録。名前、出席日、学んだ内容、進捗。それが審査に通る根拠になる。
(……記録は大事。前の世界で叩き込まれたことが、ここでも役に立っている)
「……ありがたいお話です。ただ、助成金を受けるということは、王家の名前がこの寺子屋に紐づくということですよね」
「そうなります」
「殿下のお立場に、ご迷惑は」
「迷惑という言葉は適切ではありません。これは慈善事業統括としての職務判断です」
淡々と言い切った。職務判断。そう、これは殿下の仕事の一環だ。私的な好意ではない。
(──そうだ。そうに決まっている)
「……お願いします。子どもたちのために」
「承知しました」
殿下が頷いて、上着のポケットから紙片を取り出した。もう申請書の下書きができている。
(……用意がいい。いつ作ったのだろう)
聞かなかった。聞いたら、また余計なことを考えてしまいそうだったから。
◇
午後。
商業区の商人ギルドから、若い男が寺子屋を訪ねてきた。
「トーマス・ベルクと申します。商人ギルド代表の息子です。本日は正式なご相談がありまして」
二十二歳くらいだろうか。商人らしくきびきびした物腰で、でも笑顔が人懐っこい。手にはギルドの紋章入りの名刺を持っている。
「こちらの教室で読み書きと計算を習った子どもたちを、卒業後にギルド加盟の商店で見習いとして受け入れたい、というのがギルドの正式な提案です」
──え。
「見習いとして、受け入れる?」
「はい。商業区では読み書きと計算ができる見習いの需要が非常に高いんです。でも平民の子どもの多くは読み書きを習えない。こちらの教室の噂を聞きまして、ギルドとして連携できないかと」
噂。
寺子屋の噂が、商人ギルドにまで届いている。
三週間前、ナナが「先生、来たよ」と扉を叩いた朝から始めたこの教室が、子どもたちの未来を変える可能性として認められた。
(……これは)
声が詰まりそうになって、出席簿を握りしめた。泣かない。泣かないと決めた。だから代わりに、背筋を伸ばした。
「ありがとうございます。詳しいお話をお聞かせいただけますか」
トーマスが具体的な条件を説明する。卒業基準。受け入れ先の業種。見習い期間中の待遇。私は出席簿を開いて、子どもたちの進捗を見せた。トーマスがそれを見て、目を丸くした。
「これは……かなり体系的な記録ですね。正直、これほどとは思っていませんでした」
(前世で叩き込まれた記録の習慣が、ここでもまた)
交渉は三十分で骨子がまとまった。細かい詰めは後日だが、方向性は合意。寺子屋の卒業生が商人ギルドの見習いになれる──子どもたちに、「読み書きの先にある未来」を見せてあげられる。
トーマスが帰り際に「素晴らしい教室です」と言って頭を下げた。
その背中を見送りながら、ふと気づいた。教室の隅で、フェリクス殿下が備品の数を数えている。
数えている、というか──同じ棚の前で、さっきからずっと立っている。ノートの冊数を確認しているだけにしては、少し長い。
「殿下、何か気になることが?」
「いえ。在庫の確認です」
「……そうですか」
殿下の声が、いつもよりほんの少し硬い気がしたのは、気のせいだろう。
◇
夕方。子どもたちが帰った後、片づけをしていたら、備品の箱の中に見覚えのないものが入っていた。
小さな陶器の壺。蓋を開けると、薬草の匂い。
「……軟膏?」
手荒れ用の軟膏だった。掌に少し取ってみると、しっとりとした感触。安物ではない。薬草の配合が丁寧で、塗った瞬間に荒れた指先が楽になるのがわかる。
「お嬢様、それ」
リタが備品の納品書を確認して、首を傾げた。
「注文していませんね」
「……そうよね」
「備品に紛れ込んだのでしょうか。殿下がお持ちになった箱の中に入っていたようですが」
(偶然だろう。備品を詰める時に紛れたのだ)
壺を棚に戻そうとして──やめた。もったいない。手荒れがひどいのは事実だし、漆喰を塗った後の指先は特にがさがさだ。ありがたく使わせてもらおう。
「お嬢様」
リタが、少し声を落とした。
「もう一つ。市場で気になることを聞きました」
「何?」
「聖女セレスティナ様のお付きの方が、最近この辺りで寺子屋のことを聞いて回っていたそうです」
手が止まった。
軟膏の壺を持ったまま、リタの顔を見る。リタの表情は硬い。
「聖女の、お付き」
「はい。若い侍女で、寺子屋がどこにあるか、何人くらいの子どもがいるか、誰が運営しているか。そういうことを」
一周目の記憶が、輪郭を帯びて浮かんできた。
セレスティナは、直接は動かない。いつも誰かを通して、じわじわと外堀を埋める。噂を流し、同情を集め「私は被害者です」という物語を組み立てる。
一周目では、その手口に気づかなかった。気づいた時には、もう全部が手遅れだった。
(──でも今は違う。手口を知っている)
「……セレスティナ」
名前を呟いた。声に出すと、一周目の記憶がさらに鮮明になる。泣きながら私を見下ろしていた目。哀れみに見せかけた、あの計算高い瞳。
「リタ」
「はい」
「明日も授業があるから。それと──出席簿の控えを、もう一部作っておいて」
「……控えを?」
「何かあった時のために。記録は、二重にしておくものよ」
リタが私をじっと見て、それから静かに頷いた。
窓の外は薄暮。商業区の通りに、夕飯の支度をする家々の灯りがぽつぽつと点き始めている。
──不思議と、このあたりは夜も治安がいい。商業区だからだろうか。
机の上に、さっきまでなかった刷毛が一本置いてあった。
新品。漆喰用の、柄の長い刷毛。
誰が置いたのか──聞くまでもないのかもしれない。でも、聞かなかった。




