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悪役令嬢はもう泣かない  作者: 秋月 もみじ


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第3話 先生と備品管理係


 チョークの粉が指に残る感触を、私は二つの人生で覚えている。


 寺子屋を開いて二週間。机は板材の簡素なものだし、椅子の代わりは木箱だし、窓はまだ少し隙間風が入る。それでも毎朝、扉を叩く小さな拳が増えていた。


 五人。


 ナナ。最初に来た子。相変わらず目つきは鋭いけれど、文字を覚える速さは群を抜いている。自分の名前を書けるようになった日、何でもないふりをして、でも帰り際に三回も出席簿を覗き込んでいた。


 そのナナが連れてきた二人。ルッツとミラ。兄妹で、パン屋の裏で寝泊まりしていた。ルッツは手先が器用で、ミラはおとなしいけれど記憶力がいい。


 さらに二日前から、エミルという男の子と、ロッテという女の子が加わった。エミルは七歳くらい。大きな目をしていて、誰かが声を荒げるとびくりと肩を縮める。ロッテはエミルの手をいつも握っている。姉弟ではないらしいが、二人はいつも一緒だった。


「はい、今日はこの文字。『ほし』の『ほ』です」


 石板に大きくチョークで書く。隣に星の絵を描き添える。子どもたちの視線が、ちゃんとこっちを見ている。


「ほ!」


 ナナが真っ先に声を上げた。石板に見よう見まねで書き始める。ルッツが「ナナ、それ逆」と突っ込んで、ナナが「うるさい、わかってる」と返す。ミラが黙々と正確に書いている。


 ──ロッテが鳴らした石板の音で、エミルが震えた。


 小さな肩がびくんと跳ね上がって、目に涙が溜まった。石板を落としそうになって、必死に両手で抱え込む。


「エミル」


 呼びかけても、耳に入っていない。呼吸が速くなっている。目が泳いでいる。


(──知っている。この反応を知っている)


 大きな音に怯える子。声を荒げる大人に怯える子。施設にいた。何人も、何人もいた。


 立ち上がって、エミルの前にしゃがんだ。膝を床について、エミルと同じ高さまで降りる。


「エミル」


 今度は、低い声で。


 エミルの目が、かろうじて私を捉えた。


「泣いていいんだよ」


 エミルの唇がへの字に曲がった。こらえようとして、こらえきれなくて、ぽろぽろと涙がこぼれる。声を殺して泣いている。声を出して泣くことを覚えていない子ども。


(……こういう泣き方をする子は、泣いたら怒られた経験がある)


「泣いていいから。泣き終わったら、一緒にやろう」


 エミルの頭に、触れていいか迷って──触らなかった。代わりに、エミルの石板を拾って、膝の上に置いた。エミルが泣き止むのを、その横でただ座って待った。


 ナナが「エミル、平気だよ。先生こわくないよ」と後ろから言った。ルッツが頷いて、ミラとロッテが心配そうにこちらを見ている。


 しばらくして、エミルが袖で涙を拭いた。赤くなった目で、私を見上げる。


「……先生」


 その声があんまり小さかったから、聞き逃すところだった。


「先生、やる」


 石板を、自分の膝に引き寄せた。チョークを握り直す。短い指が、震えながら『ほ』の最初の一画を引いた。


 ──ああ。


(……よかった)


 こういう瞬間のために、あの世界で何年もやっていたのだ。施設の蛍光灯の下で、何度もこの瞬間に救われた。子どもが泣き止んで、もう一度顔を上げてくれる。それだけで、あの仕事を続ける理由になった。


 今も同じだ。世界が変わっても。名前が変わっても。


 ◇


 午後。


 子どもたちに昼の休憩を取らせていたら、入口に人影が立った。


 背が高い。逆光で顔がよく見えなかったが、仕立てのいい上着の袖口に小さな刺繍が見える。王家の紋章。


(──王族?)


 身構えた。


「失礼いたします。王家慈善事業統括、第二王子フェリクス・フォン・エルステッドと申します。こちらが、新しく開かれた識字教室と伺い、視察に参りました」


 穏やかな声だった。


 逆光から一歩踏み込んできて、顔が見えた。濃い茶色の髪が額にかかっている。深い緑の目。どこかで──いや、気のせいだろう。王宮で見かけるような顔ではあるけれど、王族と接点があったのは王太子殿下だけだ。


(第二王子。確か、王位継承を辞退して慈善事業をしているという話は聞いたことがある。一周目では一度もお会いしなかった方)


「……お初にお目にかかります。リーネ・フォン・ヴェルナーと申します」


「ヴェルナー嬢ですか」


 その名前を聞いて、一瞬だけ目が動いた。王太子の元婚約者。宮廷で「悪役令嬢」と呼ばれた女。──知っているだろうな、とは思った。


 でも、フェリクス殿下は何も言わなかった。名前について一つも触れず、視線を教室の中に巡らせた。板材の机。木箱の椅子。石板とチョーク。壁に貼られた、私が描いた文字と絵の教材。


「……手作りですか、この教材」


「はい。市販のものは子どもには難しいので」


「文字と絵を組み合わせて覚えさせるのは、どこかで学ばれたのですか」


(前の世界で。別の名前で。何年もかけて)


「……独学です」


 嘘ではない。前世の教育学も、大学で学んだとはいえ現場で叩き上げた部分が大きい。


 フェリクス殿下は教材を一枚一枚、丁寧に見ていた。書類を捌く人の手つきで──指が長い。インクの染みが中指の第二関節についていて、ああこの人もペンを握る仕事をしているのだなと思った。


 ちょうどその時、休憩から戻ったエミルが教室に入ってきて、私を見つけて駆け寄った。


「先生、ロッテがね、外で猫見つけたんだって」


「そう。でもお昼が終わったら、続きをしましょうね」


「うん」


 エミルが嬉しそうに頷いて、木箱の椅子に座った。午前中に泣いていたのが嘘のように、小さな背中がまっすぐになっている。


 フェリクス殿下が、その一連を見ていた。


 見ていた、というか──止まっていた。教材を持ったまま、教室の隅で、動かなくなっていた。


(……殿下?)


「あの……殿下、何か」


「……いえ」


 少し遅れて返事が来た。声の調子が、さっきまでと微かに違う。


「失礼。少し、見入ってしまいました」


 何に見入っていたのかは、聞けなかった。聞いていい距離感ではないし、王族相手に踏み込むのは礼儀に反する。


 帰り際のことだった。


 フェリクス殿下が扉の前で振り返って「何か必要なものはありますか」と聞いた。


 何か必要なもの。


 いくらでもある。この建物の修繕費。子どもたちの食事。冬が来る前に揃えたい防寒具。窓の隙間を塞ぐ材料。


 でも、口をついて出たのは──


「子どもたちが使えるノートと、安い筆を」


 フェリクス殿下が黙った。


 長い沈黙だった。たぶん五秒くらい。でも五秒の沈黙は、会話の中では妙に長い。


「……わかりました」


 それだけ言って、殿下は帰っていった。


 ◇


 翌日。


 朝、扉を開けたら、ノートが十冊と筆が二十本、紐で束ねて置いてあった。


(……え、多くない?)


 手に取る。ノートの表紙に見覚えのある滑らかな質感。あの──最初に匿名で届いたものと、似ている気がする。いや、考えすぎか。


 翌日も届いた。今度はノートに加えて、インク壺が三つ。


 そのまた翌日──三日目の朝。


 ノックの音がした。低い位置からではない。大人の高さ。


 扉を開けると、フェリクス殿下がノートの束を両腕に抱えて立っていた。


「おはようございます。備品管理係です」


「……は?」


「本日より、こちらの教室の備品管理を担当いたします」


 真顔だった。第二王子殿下が、真顔で「備品管理係」と名乗っている。


(いや……何を仰っているのですか、この方は)


「殿下、備品管理係というのは……」


「自称です」


「自称」


「はい」


 奥からナナが顔を出した。フェリクス殿下の顔を見て、目を丸くする。


「あ! 昨日来た人だ!」


 ルッツが走ってきた。「すげえ、またノート持ってる!」


 ミラが静かに近づいて、フェリクス殿下の腕からノートを一冊受け取った。「ありがとうございます」と小声で言う。フェリクス殿下の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。


(……あ)


 無表情かと思っていたのに、子どもに「ありがとう」と言われた瞬間に目尻が下がった。ほんの少し。本当にほんの少しだけ。氷がほどけるみたいに。


「先生」


 ナナが私を呼んだ。


 先生。


 子どもたちが私をそう呼ぶのにも、少しずつ慣れてきた。慣れてきたけれど──毎回、胸の奥がきゅっとなる。前の世界でもそうだった。「先生」と呼ばれるたびに、ちゃんとしなきゃ、と背筋が伸びた。


「フェリクスさま、先生を呼ぶ時だけ声が変わるね」


 ナナが言った。唐突に。子どもの残酷なまでの観察力。


「……そうですか。気のせいでしょう」


 フェリクス殿下が視線を逸らした。ノートの束を机の上に置く手つきが、少しだけ雑になった。


(声が変わる? そうだろうか。よくわからないけれど……)


 ナナはもう興味を失ったように、新しいノートの表紙を撫でている。


 フェリクス殿下は結局、その日の午後まで寺子屋にいた。子どもたちの机を整頓し、チョークの粉を掃き、壁に貼ってある教材がずれていたのを押しピンで直し、帰り際に「明日も参ります」と言った。


(……備品管理係にしては、来すぎではないだろうか)


 思ったが、人手が足りないのは事実なので、ありがたく受け入れることにした。


 ◇


 夜。


 リタが市場から戻ってきた時、少しだけ表情が硬かった。


「お嬢様」


「どうしたの」


「市場で聞いたのですが……宮廷で、お嬢様のことが噂になっているようです」


 手が止まった。出席簿に書き込んでいたペンが、インクの染みを落とす。


「……どんな噂?」


「婚約を解消された侯爵令嬢が、商業区で何かを始めたと。詳しくはわかりませんが……気にしている人がいるようだ、と」


 気にしている人。


 一周目の記憶が、一瞬だけ頭をかすめた。あの広間。並ぶ貴族たち。嘲笑と、冷たい宣告。


(……まだ、終わっていないのか)


 出席簿を閉じた。インクの染みが、ナナの名前の横に小さく広がっている。


 窓の外は暗い。商業区の夜は早くて、通りからはパン屋の竈の残り火の匂いだけが漂ってくる。


「リタ」


「はい」


「明日も授業があるから、早めに寝ましょう」


「……はい」


 リタが何か言いたそうな顔をしたが、私が笑ったので飲み込んだらしい。


 寝室に上がって、窓辺に座る。星が見える。宮廷からは見えなかった角度の、低い位置の星。


 ──噂。


 宮廷の誰が、何を気にしている。


 考えなくていい。いま大事なのはこの寺子屋と、明日の授業と、エミルの震える手がもう少し安定するための教材作りだ。


 でも指先に残るチョークの粉を払いながら、思った。


 あの場所は、まだ私を見ている。

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