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悪役令嬢はもう泣かない  作者: 秋月 もみじ


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第2話 約束を守る大人


「──お前は、ヴェルナー家の恥だ」


 父の執務室は、いつも同じ香のにおいがする。樫の机。革張りの椅子。壁に掛けられた歴代当主の肖像画。この部屋に呼ばれて褒められた記憶は、二つの人生を合わせても一度もない。


「王太子殿下との婚約を、お前の方から解消しただと?」


「はい」


「……理由は」


「価値観の不一致です」


 父──ヴェルナー侯爵カールの眉間の皺が、さらに深くなった。書記官局からの正式な通達書が、机の上に広げられている。私が一週間前に提出した婚約解消の申請が受理された証。


「事前に相談もなく、か」


「事後にお伝えするつもりでした。本日がその事後です」


 父の目が細くなる。怒りなのか、呆れなのか。おそらく両方だろう。こめかみの血管がうっすら浮いている。


「王家の面子を潰して、侯爵家が無事で済むと思うか」


「面子については、申し出たのは私個人です。侯爵家の総意ではないと、必要があればご説明ください」


「……リーネ」


 低い、抑えた声。この声を一周目でも聞いた。あの時は追放された後で、手紙で届いた父のたった一行──『勘当する』。


 でも今は違う。今の私は、追放される前に自分から降りた。


「父上。私はヴェルナー家を出ます。ご支援は不要です」


 沈黙。


 時計の針が動く音だけが、しばらく部屋に響いていた。


「……好きにしろ」


 父は通達書から目を逸らし、別の書類に手を伸ばした。それが答え。ヴェルナー侯爵家は、リーネ・フォン・ヴェルナーを支援しない。切り捨てるとは言わないが、助けもしない。


(……知ってた)


 知っていた。この人はこうだ。家門の名誉が全てで、名誉に傷をつけた者は身内であっても切り離す。一周目で学んだ。だから今更、胸が痛いなんてことはない。


 ──ないと、思う。


 一礼して、扉に向かう。ドアノブに手をかけた瞬間、背後で椅子が鳴った。


「お嬢様」


 リタだった。


 侯爵家で私付きの侍女を長年務めてくれた、二十八歳の女性。栗色の髪を低い位置で一つに結んで、いつも姿勢がよくて、帳簿を書かせたら誰より速い。


「リタ?」


「私も参ります」


「……え?」


「お嬢様についてゆきます。お荷物、まとめてまいりますので、少々お待ちくださいませ」


 父が書類の手を止めた。リタを見る。リタは微塵もたじろがなかった。


「リタ。お前、自分が何を言っているかわかっているのか」


「承知しております、旦那様。長年のお勤め、感謝しております。お暇をいただきます」


 それだけ言って、リタは深く頭を下げた。そのまま執務室を出て、廊下を歩き始める。早い。この人は昔から決断が早い。


「リタ、待って。あなたまで巻き込む必要は」


「巻き込まれたいのです」


 振り返ったリタの目は、思ったよりずっと穏やかだった。


「お嬢様。あなたは変わりましたね」


「……変わった?」


「ええ。一週間前にこのお屋敷を出て行かれた朝から。お顔が違います。泣いておいでにならない」


 泣いていない。


 ──ああ、そうか。リタは気づいているのだ。以前の私と今の私が、どこか違うことに。


(一周目の私は、きっとここで泣いていた。父に見捨てられて、みっともなく泣いて、結局一人で追い出されたのだろう)


 今は、泣かない。泣いても何も変わらなかったから。


「ありがとう、リタ」


 それしか言えなかった。でもリタは満足そうに頷いて、荷物をまとめに自室へ走っていった。


 ◇


 王都の商業区は、宮廷や貴族街とは空気がまるで違う。


 石畳が少し欠けている。干し物が頭上の紐に揺れている。パン屋の焼きたての匂い。鍛冶屋の槌の音。子どもの笑い声と、それを叱る母親の声。


 生活の音だ。一周目の宮廷生活では、一度も聞いたことのない種類の音。


「この物件、いかがでしょう」


 リタが案内してくれたのは、商業区の路地裏にある二階建ての借家だった。一階は広めの居間と小さな台所。二階は二部屋。壁は白漆喰だが、ところどころにひびが入っている。窓は小さいが、磨けば光が入る。


「家賃は月銀貨八枚。商業区の相場からすれば安い方です」


 リタが冷静に報告する。この人、いつの間に物件を調べたのだろう。


(……有能すぎないか、この侍女)


「一階を教室にします」


「教室、ですか」


「読み書きを教える場所。寺子屋のようなもの」


 リタの目が微かに丸くなった。けれどすぐに帳簿係の顔に戻って、持参金の残額をそらで暗算し始めた。


「持参金の残りが金貨二十三枚。違約金の支払いで半分になりましたから……月の生活費を銀貨十五枚に抑えれば、一年は保ちます。ただし、教室の備品代は別途かかりますね。机、椅子、筆記具……」


「最低限でいい。机は安い板材で作れるし、椅子は木箱を並べればいい。筆記具は──」


(──前の世界なら、百円ショップで揃うのに)


 百円ショップはない。ないが、知恵はある。


「チョークなら安い。石板に書かせれば、紙も節約できる。最初はそれでいきましょう」


 リタが私をじっと見た。


「お嬢様。その……教室の経験が、おありなのですか?」


(ある。別の世界で、別の名前で、何年も)


「……少しだけ」


 嘘ではない。少しだけ、とは言い難い量の経験があるが、説明するわけにもいかない。


 借家の鍵を受け取る。重たい鉄の鍵。ドアを開けると、埃っぽい空気と、かすかな木の匂い。


 ここで生きると決めた。


 侯爵家の令嬢としてではなく。宮廷の婚約者としてでもなく。ただ、ここで。


 ◇


 二日かけて、一階を片付けた。


 リタと二人で床を磨き、壁の蜘蛛の巣を払い、窓を拭いた。板材を買ってきて、リタが驚くほど手際よく簡素な机を二つ組み上げた。


(この人、侍女というより大工の才能があるのでは)


 三日目の夕方。台所で夕飯の支度をしていたら、借家の前の路地で物音がした。


 覗くと、小さな影がゴミ箱を漁っていた。


 六歳くらいの女の子。薄汚れた麻の服。黒い髪がぼさぼさで、膝に擦り傷がある。手に持っているのは──古い芋の皮だ。


 目が合った。


 女の子の瞳が、怯えたように揺れる。こちらを睨んでいるような、泣きそうなような、どちらにもつかない顔。


 ──知っている。この目を、知っている。


 前の世界で、施設に来たばかりの子どもたちが、みんなこの目をしていた。「大人は信用できない」という目。「どうせまた裏切るんでしょう」という目。


 膝をついた。


 路地の石畳は硬くて冷たい。スカートの裾が汚れる。構わない。この子の目線まで、降りる。


「こんにちは」


 女の子が一歩後ずさった。


「……なに」


「私はリーネ。あなたの名前は?」


「……ナナ」


「ナナ。いい名前ね」


 ナナは私をじっと見ている。警戒心が針のように尖った目。でも、逃げてはいない。


「ナナ。文字は書ける?」


 首を横に振る。


「読める?」


 また首を横に振る。今度は少し、恥ずかしそうに目を伏せた。


「明日から、ここで読み書きを教えます」


 ナナの目が、わずかに大きくなった。


「教えるって……誰に」


「あなたに。あなたみたいに、読み書きを習いたい子がいたら、誰にでも」


「……タダで?」


「タダで」


 ナナの唇が、微かに震えた。何か言いかけて、飲み込んで、もう一度口を開く。


「本当に? 嘘じゃない?」


(──ああ、もう)


 この声も知っている。施設の子どもたちが、何度も何度も私に投げた言葉。「本当に?」「嘘じゃない?」「また裏切るの?」


 大人に裏切られ続けた子どもの、最後の確認。


「約束します。私は約束を守る大人です」


 ナナの喉が、こくりと動いた。


 芋の皮を握りしめた小さな手。指の爪の間に泥が詰まっている。こういう手を、前の世界で何度握ったか、もう数えられない。


「……明日、ほんとに来ていいの?」


「ほんとに。朝、この扉を叩いて」


 ナナが、怯えと期待が入り混じった顔で、路地裏に走り去った。


 ──振り返った。一度だけ、こちらを振り返った。


 その背中を見送りながら、立ち上がる。膝が冷えて少し痺れていた。スカートの裾に石畳の汚れがついている。


(前世の私が見たら笑うだろうか。侯爵令嬢が路地裏で膝をついて、子どもと話してるなんて)


 笑わないだろうな、と思った。たぶん、泣く。


 ◇


 夜。


 リタが下ごしらえしてくれた豆のスープを啜りながら、教材の構成を考えていた。


 文字を絵と結びつけて覚えさせる方法。前の世界で使っていた教材のイメージが、不思議なほど鮮明に蘇ってくる。「あ」のつくものの絵を描いて、隣に文字を書く。この世界の文字体系は違うけれど、やり方は応用できる。


 出席簿も作ろう。名前と、来た日と、何を学んだか。


(記録は大事。前の世界で、それを叩き込まれた。何かあった時に、記録だけが子どもを守る)


 羊皮紙の切れ端にペンを走らせる。仮のカリキュラム。初日は名前を書く練習。自分の名前が書けるだけで、子どもの世界は変わる。


 ペンを置いて、ふと窓の外を見た。


 暗い路地。商業区の夜は早くて、通りにはもう人影がない。


 ──さっき。


 夕方、ナナと話す前。窓拭きをしていた時、路地の向こうに人が立っていた気がする。背の高い影。でも、目をやった時にはもう誰もいなかった。


(……気のせいだろう)


 ◇


 翌朝。


 扉を開けて、息が止まった。


 敷居の前に、ノートが五冊と筆が十本、麻紐でひとまとめにして置いてある。


「……え?」


 しゃがんで手に取る。ノートは安物ではなかった。紙の手触りが滑らかで、背表紙の綴じもしっかりしている。筆も、子どもの手に合うやや小ぶりなもの。


 差出人を示すものは何もない。包み紙もなし。ただ、紐の結び方が妙に丁寧だった。


「お嬢様、それは……」


 後ろからリタが覗き込む。


「わからない。朝起きたら置いてあったの」


「ご近所の方でしょうか。昨日、お嬢様が路地でお子さんと話しておいでだったのを、どなたか見ていたのかもしれませんね」


「……そうかもしれないわね」


 ノートの表紙を指でなぞる。


(ありがたい。理由はわからないけれど、ありがたく使わせてもらおう)


 紐を解いて、ノートを机の上に並べた。五冊。十本の筆。昨夜まで「チョークと石板で始めよう」と思っていたのに、これで初日からノートに書かせてあげられる。


 ──コンコン。


 扉を叩く音。小さい。低い位置からの、遠慮がちなノック。


 開けると、ナナがいた。


 昨日と同じ薄汚れた服。でも、髪を一生懸命に手櫛で撫でつけた跡がある。


 その後ろに、さらに二人。ナナより少し大きい男の子と、同じくらいの女の子が、ナナの服の裾を掴んで隠れている。


「……先生」


 ナナが言った。


 先生。


「先生、来たよ。ともだちも連れてきた」


 ──泣かない。泣かないと決めた。


 だから代わりに、笑った。


「いらっしゃい。今日から始めましょう」


 朝の光が、開け放した扉から差し込んで、ノートの表紙を白く照らしていた。

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