第10話 悪役令嬢はもう泣かない——と、決めていたのに
認可通知は、薄い茶封筒に入っていた。
金の縁取りも双頭の鷲もない。書記官局の事務印が一つ押されただけの、そっけない封筒。でも中の紙に書かれた一行が、私の手の中で小さく震えた。
『王家慈善事業助成金の交付を決定し、本事業を制度上の認可教育施設として登録する旨、通知いたします』
——通った。
「リーネ様」
リタが、私の顔を覗き込んでいた。
「……通ったわ」
声が少し掠れた。リタの目がみるみる潤んで、でも私より先に泣いてはいけないと思ったのか、口を手で押さえて天井を仰いだ。
「子どもたちに言わなきゃ」
教室に戻ると、ナナが石板に「ぬ」の字を練習していた。ルッツが隣で二桁の引き算と格闘している。ミラとロッテが窓際で花の絵を描いていて、エミルは机に突っ伏して寝かけている。
いつもの朝だ。
「みんな、ちょっと聞いて」
八つの顔がこちらを向いた。
「この寺子屋が、お国からちゃんと認められました。これからも、ずっと続けられます」
ナナが首を傾げた。
「先生、それってすごいこと?」
「すごいことよ。あなたたちが毎日ここに来て、字を覚えて、計算して、絵を描いて——その全部が、ちゃんと認められたの」
ナナの顔がぱっと明るくなった。ルッツが「よっしゃ」と小さくガッツポーズをした。エミルが机から顔を上げて、寝ぼけ眼で「え、何?」と言った。
「じゃあ明日もある?」
ロッテだった。いつも一番に声を上げる子。
「あるわ。ずっと」
ロッテが笑った。ミラが笑った。ナナがルッツの腕を引っ張って、エミルが欠伸をしながらもう一度机に突っ伏した。
何も変わらない朝だ。でも、この朝が明日も続くということが——今日、約束された。
午後。
子どもたちが算術の問題に取り組んでいる最中に、裏口が静かに開いた。
見慣れた亜麻布の服。見慣れた革の鞄。そして——頭巾。
王弟として名乗った後なのに。記録院であの声を出した後なのに。この人は今日も、備品管理係の姿で来た。
フェリクスは何も言わず備品棚に向かい、チョークの残数を数え、筆の本数を確認し、インク壺の液面を覗いた。ノートを開いて、一行ずつ丁寧に記入していく。
私はそれを、少し離れた場所から見ていた。
この光景を何度見ただろう。最初は「変な人が来た」と思った。次は「律儀な人だ」と思った。そのうち「この人がいると棚が整う」と思うようになって、気がついたら——この人がノートに数字を書く音が、教室の日常の一部になっていた。
フェリクスがノートを閉じた。
いつもと違う動作だった。ノートを鞄にしまわず、備品棚の上に置いた。
「先生」
「はい」
「本日をもって、備品管理の任務を完了とします」
空気が止まった。
子どもたちは算術に夢中で気づいていない。ルッツの筆の音と、ミラが石板を擦る音だけが聞こえる。
——完了。
わかっていた。名乗った以上、この人がいつまでも頭巾を被って備品棚を数えているわけにはいかない。王弟が寺子屋の備品管理係を続けるなど、宮廷が許すはずもない。
でも。
胸の奥が、きゅっと締まった。
「……ノートは、置いていかれるんですね」
「今後の管理に必要かと思いましたので」
「そうですか」
それ以上、声が出なかった。
子どもたちを送り出した後の教室で、フェリクスがまだ立っていた。
備品棚の前ではなく、教室の中央。窓からの午後の光が、頭巾の縁を白く照らしている。
「今後の寺子屋への支援については、王家の公式事業として——」
「辞令は要りません」
言葉が、思ったより早く出た。
フェリクスの目がわずかに開いた。
「あなたが王弟として寺子屋に関わるのなら、それは命令と服従の関係になります。認可をいただいた以上、寺子屋は制度の中で自立しています。王家の個別の庇護は——必要ないんです」
フェリクスが黙っている。表情が読めない。でも私は、言わなければならないことを全部言う。前の人生で黙っていた分を、今ここで。
「私が欲しいのは、そういうものじゃない」
声が、少し震えた。
「権力に守られることと、対等に歩くことは違います。私は——辞令で誰かに守ってもらいたいわけではないんです」
長い沈黙が落ちた。
窓の外で、風が強くなっていた。夕立が来るのかもしれない。雲が速く流れて、教室の光が明るくなったり翳ったりしている。
フェリクスが、口を開いた。
「では——何として、来ればいいですか」
低い声だった。平坦ではない。あの夜「助けを求めていい人間です」と言ったときと同じ温度の声。
何として。
備品管理係でもなく。王弟でもなく。辞令も肩書きも契約もなく。
この人がこの場所に来る理由を、私が決めていいのなら——。
「フェリクスさんとして、来てください」
言った。
「肩書きも辞令もなく。ただ——あなたとして」
フェリクスの唇が、かすかに動いた。何かを言いかけて、やめて、それから。
笑った。
小さく。ほんの少しだけ。口の端がわずかに持ち上がっただけの、不器用な笑み。
この人が笑うのを、私は初めて見た。
備品を数えているときも、嘘をついているときも、夜の通りを歩いているときも、名乗ったときも——一度も見なかった。それが今、午後の教室の光の中に、ある。
「……わかりました」
フェリクスが頭巾に手をかけた。外すのかと思った。でも外さなかった。被り直しただけだった。
「明日も来ます」
それだけ言って、教室を出ていく。
辞令ではない。命令でもない。契約でもない。ただ——「明日も来ます」。
背中が入口に向かう。いつもの歩幅で。規則正しく。革の鞄は持っていない。備品ノートは棚の上に残してある。
この人はもう、備品管理係ではない。
でも明日も来ると言った。フェリクスさんとして。
——ああ。
だめだ。
目の奥が、熱い。
涙が落ちた。
一滴。頬を伝って、顎の先から机の上に落ちた。
堪えようとした。唇を引き結んで、まばたきを深くして、息を止めて——でも、止まらなかった。
泣かないって、決めたのに。
あの朝。二度目の人生の最初の朝。寝室で目を覚まして、もう泣かないと決めた。書記官局に走ったときも泣かなかった。父に見捨てられたときも泣かなかった。ナナの前でも、ルッツの前でも、マリエの前でも、審査室でも——一度も。
なのに今、涙が止まらない。
悲しいのではない。悔しいのでもない。ただ——長かった。ひとりで走って、ひとりで書類を出して、ひとりで教室を掃除して、ひとりで教材を作って。ひとりで、ひとりで。
ひとりじゃなくなった瞬間に、全部がこぼれ落ちた。
「リーネ様」
リタの手が、肩にそっと触れた。いつからいたのだろう。何も言わず、ただ手を置いてくれている。
入口の方で、足音が止まっていた。
フェリクスだった。出て行ったはずなのに——振り返ってはいない。背中をこちらに向けたまま、通りの真ん中で立ち止まっている。
「先生」
振り返らない声が言った。
「明日、筆を持ってきます」
一拍。
「先生の分の」
——ああ、もう。
この人は本当に、不器用だ。
涙を袖で拭った。鼻をすすって、深く息を吸って。リタが差し出してくれた手巾で目元を押さえた。
泣いてしまった。泣かないって決めたのに。
でも——いいか。
泣いたって、明日は来る。ナナが来る。ルッツが来る。ロッテが「先生」と叫ぶ。エミルが机に突っ伏す。ミラが花を描く。リタが白湯を淹れる。
そして、筆を一本持った人が来る。
私は手巾を握ったまま、笑った。たぶん、ひどい顔だったと思う。目は赤いし、鼻も赤いし、頬に涙の跡がある。
でもいい。
明日の私は、この寺子屋の先生だ。それだけは変わらない。
窓の外で、遠くの空が光った。夕立が来る。でも雨は上がる。明日は晴れるだろう。
備品棚の上に、ノートが一冊残っている。開くつもりはない。でも、明日あの人が来たら——新しいノートを渡そう。備品管理用ではなく、何に使ってもいいノートを。
私は教室の蝋燭に火を灯して、明日の授業の準備を始めた。
ナナは「ね」の字に入る。ルッツは三桁に挑戦するかもしれない。チョークは——あと何箱だったかしら。
……大丈夫。数えてくれる人が、明日も来るから。




