第1話 今度は泣きません
「──リーネ・フォン・ヴェルナー。お前の罪を、ここに断ずる」
その声を、私は知っている。
広間に響く冷たい宣告。居並ぶ貴族たちの刺すような視線。足が震えて、膝から崩れ落ちて、涙でぐちゃぐちゃになった視界の中で、必死に手を伸ばした。
お願いです、信じてください。私は何もしていません。
──誰も、手を取ってはくれなかった。
◇
……目を開けると、天蓋が見えた。
見慣れた天蓋。朝の光が薄いレースのカーテン越しに射し込んで、刺繍の薔薇を白く浮かび上がらせている。ヴェルナー侯爵家、私の部屋の天蓋だ。
知っている。この天蓋を知っている。
(……戻った?)
身を起こす。両手を見る。細くて、白くて、まだ荒れていない手。追放されたあと、ろくに食べられずに痩せ細っていく前の──十八歳の、私の手。
心臓が五月蝿い。息が浅くなる。記憶がなだれのように押し寄せてきて、一瞬、視界が明滅した。
断罪の広間。
アルヴィンの冷たい声。
聖女セレスティナの、私を見下ろす哀れむような目。
追放された街道。誰も迎えに来ない宿場町。熱を出して、起き上がれなくなって。
──死んだ。私は、一度死んでいる。
それだけじゃない。
もっと古い記憶が、断罪の記憶の下から湧き上がってくる。知らない部屋。蛍光灯の白い光。小さな手を握って、「大丈夫だよ」と繰り返す、誰かの──。
私だ。
前の世界の、私だ。
児童養護施設の、職員。大人に裏切られ続ける子どもたちに、「逃げていいんだよ」「助けを求めていいんだよ」と言い続けた。子どもたちにはそう言えたのに、自分がそうすることは最後までできなかった。
……ああ、そうだったのか。二つの人生分の後悔が、頭の中でぐるぐる回っている。
涙は出なかった。
一周目で全部使い果たしたのだ。泣いて、泣いて、許しを請うて。それでも何ひとつ変わらなくて、最後は涙さえ枯れて死んだ。
だから。
(──今度は、泣かない)
枕元の小さな時計を見る。朝の六時。季節は秋の初め。窓から入る風がまだ温い。
三ヶ月前。
断罪の、三ヶ月前だ。
つまり——まだ間に合う。
ベッドから降りて、洗面台の冷水で顔を洗った。鏡に映る自分の顔は、記憶より少しだけ若い。頬が乾いている。よく眠れた顔だ。
(三ヶ月後、あの広間で何が起きるか、私は全部知っている)
アルヴィンが聖女を庇い、私に冤罪を着せ、公衆の面前で断罪する。聖女セレスティナが泣き崩れ、私は「悪役令嬢」のレッテルを貼られて追放される。
その筋書きを、成立させなければいい。
断罪とは、「婚約者の悪行を王太子が裁く」という形式だ。ならば──婚約者でなくなれば、裁く名目がなくなる。
先に降りる。自分から。
(……前の世界の私なら、こう言っただろう。「逃げていい」って)
逃げるんじゃない。これは、選ぶことだ。
タンスから外出用の上着を取り出す。まだ朝が早い。宮廷の書記官局が開くのは八時だ。それまでに身支度を済ませて、書類の文面を頭の中で詰めておく。
一周目の宮廷生活で嫌というほど学んだ。貴族間の婚約解消には、宮廷書記官局への正式届出が必要であること。理由として「価値観の不一致」を挙げれば、違約金は半額に減免されること。申し出た側ではなく、申し出を受けた側の面子が傷つくこと。
あの退屈な茶会で聞き流していた知識が、こんな形で役に立つ日が来るとは。
◇
宮廷書記官局は、王宮の東棟にひっそりとある。
大理石の床に革靴の音が響く。朝一番、まだ人の少ない廊下を歩きながら、私は自分の心臓の音を聞いていた。速い。けれど震えてはいない。
受付の書記官は、中年の痩せた男だった。丸眼鏡の奥の目が、私の名前を聞いた瞬間に大きくなる。
「……ヴェルナー侯爵令嬢が、婚約解消の申請を?」
「はい」
「理由は」
「価値観の不一致です」
書記官の眉がぴくりと動いた。王太子との婚約を侯爵令嬢の側から解消するなど、前例がないわけではないが——珍しいことに変わりはない。
「……失礼ですが、侯爵閣下のご承認は」
「事後に報告いたします」
(嘘はついていない。事後に報告するとは言った。承認を得たとは言っていない)
父がこれを聞いたら卒倒するかもしれないが、それは後で考える。今はこの書類を通すことだけに集中する。
書記官はしばらく私の顔をじっと見ていたが、やがて嘆息して申請書を差し出した。
「所定の書式にご記入ください。受理後、控えを一部お渡しします。相手方──王太子殿下への正式な通達は、書記官局から三日以内にお届けします」
「通達の前に、私から直接お伝えしたいのですが」
「……それは、ご自由に」
申請書に記入する。名前。身分。婚約の成立日。解消の理由。
ペンを持つ手は、不思議なほど安定していた。一周目の私なら、この書類を前にして泣いていただろう。あの頃はまだ、アルヴィンに愛されたいと思っていたから。
もう思っていない。
記入を終え、控えを受け取る。二つ折りにして、上着の内ポケットに仕舞う。
(この紙が、私の盾になる)
◇
王太子の執務室は、東棟の二階にある。
扉の前で一度だけ深呼吸をした。一周目で何百回も通った扉。ノックの感触まで手が覚えている。
「──入れ」
低い声。
扉を開けると、アルヴィンが執務机に座っていた。切れ長の目。整った顔。金糸の刺繍が入った上着の襟元に、小さな聖女の紋章のピンが光っている。
(……あのピン、一周目でもつけていた。セレスティナからの贈り物だ)
一周目の私は、あのピンの意味に気づかなかった。気づきたくなかったのかもしれない。
「珍しいな、こんな朝早くに。何の用だ、リーネ」
名前を呼ぶその声に、もう何も感じない。一周目で枯れ果てたのは涙だけじゃなかった。この人への感情も、とうの昔に底をついている。
「お時間をいただきありがとうございます、殿下。本日は一つ、お伝えしたいことがございます」
「ほう」
アルヴィンが書類から目を上げる。大して興味のない顔。
「——婚約の解消を、お願いに参りました」
沈黙。
アルヴィンの目が、わずかに細くなった。
「……何だと?」
「先ほど宮廷書記官局に正式な申請書を提出いたしました。理由は価値観の不一致です。書記官局からの正式な通達は三日以内に届きますが、その前にご本人にお伝えするのが礼儀かと存じまして」
アルヴィンの唇の端が持ち上がった。笑っている。だが目は笑っていない。
「……悪あがきか」
「いいえ。正式な手続きです」
「面白い冗談だな。侯爵家がそれを許すと思うか」
「侯爵家の対応については、私が責任を持ちます」
アルヴィンが椅子の背に身を預けた。腕を組む。余裕の姿勢。でも、その余裕が揺らぐ瞬間を、私は待っている。
「リーネ。お前がどういうつもりか知らないが、王家との婚約を一方的に──」
「一方的ではございません」
内ポケットから、控えの書類を取り出す。
「宮廷書記官局の受理印が押された正式な控えです。書式に不備はなく、理由の『価値観の不一致』は法令上、正当な解消事由として認められています。違約金につきましては、減免規定に基づき半額をお支払いする用意がございます」
アルヴィンの表情が変わった。
嘲笑が消えて、代わりに浮かんだのは──驚き、ではない。もっと鋭い、不快の色。自分の知らないところで話が進んでいたことへの、純粋な苛立ち。
この人は、自分の知らないところで物事が動くのが嫌いなのだ。一周目で嫌というほど学んだ。
「……本気か」
「本気です」
「後悔するぞ」
その言葉に、思わず息を吐きそうになった。
(──後悔?)
一度目の人生で、後悔しなかった日なんか一日もなかった。泣いて、許しを請うて、何も変わらなくて、死んだ。あの日々が後悔でなくて何だというのだろう。
「後悔は——もう済ませました」
アルヴィンの目が、一瞬だけ揺れた。
私はそれ以上何も言わなかった。深く一礼して、顔を上げて、まっすぐ扉に向かう。
「ご縁がありませんでした。殿下のご多幸をお祈りしております」
振り返らなかった。
扉を閉める音が、やけに大きく聞こえた。
◇
廊下に出たら、手が震えていた。
(……あ、震えてる)
強がっていなかったと言えば嘘になる。あの執務室に一歩踏み入れた瞬間、一周目の記憶が喉元まで込み上げてきた。断罪の広間のアルヴィンの声。冷たい宣告。あの日の恐怖が、身体の奥にまだ残っている。
でも——泣かなかった。
泣かなかった。
それだけで、今はいい。
書記官局の前の廊下を歩く。朝の光が窓から差し込んで、磨かれた石の床に長い影を落としている。すれ違う官吏たちが小さく会釈を返してくる。まだ「婚約解消」の噂は広まっていない。三日もすれば宮廷中が知るだろう。だが、その頃には私はもうここにいない。
角を曲がったところで、正面から人が来た。
背の高い青年。書類の束を腕に抱えている。濃い茶の髪が額にかかっていて、その下の目は──深い緑色。穏やかな色なのに、どこか澄んでいて、光を奥のほうに蓄えているような目だった。
見覚えがない。
一周目の宮廷で、一度も会ったことのない顔。
すれ違う瞬間、目が合った。ほんの一瞬。青年の足が止まる気配がしたが、私は歩みを緩めなかった。知らない人だ。今の私に、立ち止まっている余裕はない。
背中に、視線を感じた気がした。
気のせいかもしれない。振り返らなかった。
宮廷の正門を出る。秋の朝の風が、頬を撫でる。乾いた、温い風。
(──これで、断罪は起きない)
王太子の婚約者でなくなれば「婚約者の悪行を裁く」という断罪の形式が成立しない。一周目の筋書きは、ここで崩れる。
次にやることは、決まっている。
生きる場所を、作る。
ふいに、前の世界の記憶が頭をよぎった。蛍光灯の下、泣いている子どもの肩を抱いて「逃げていいんだよ」と囁いた夜のこと。あの子たちに言い続けた言葉を、今度は自分にかける番だ。
逃げていい。助けを求めていい。
──ただし、自分で選ぶ。
頬は乾いていた。もう涙はない。だから代わりに、歩く。まだ何もない道を、自分の足で。




