第4話 健全でほどよい関係
『こんなのでいいんですか……?』
数時間後。
あたりを走る車の量も減り始める頃、俺たちはスマホを通して繋がっていた。
「高校の秀才サマに勉強をお教えいただける機会など、そうそうないものですから」
『勝手に神格化しないでください。そこではなく、ご飯の代わりにお勉強だと、結局お金の問題は解決してないではありませんか』
どうやら綾乃はまだ、自分の価値に気づいていない様子であった。
クラスのクール美少女に、つきっきりで勉強を教えてもらう──男子たちからしたら、お金を払ってでも手に入れたい状況であろう。
まぁ俺は、さっき言った「秀才に勉強を教えてもらえる」が本当に全てなんだけども。
「知識なんて人生の財産みたいなもんだしさ」
『あ、その考え方好きです。って、またはぐらかさせてしまいました』
「バレた?」
『はぁ……どうかご自身を優先していただくことは念頭に置いておいてくださいね』
「分かってるって」
いつまで経っても過度に心配してくるものだから、俺は少しふてくされたように言い返した。
そして、そんな自分に思わず笑ってしまう。
『何笑ってるんですか』
「いやごめん。俺があまりにも子供すぎてつい」
俺は勉強机に置いていたマグカップを手に取り、椅子に深く座りながらコーヒーを一口飲む。
深い味わいが口の中に広がり、その苦みとほんのり感じる温かさに「ふぅ……」と息をつく。
勉強を教えてもらえるが全てなのは間違いない。
しかし客観的に見た今の状況には少なからず動揺もしてしまう。
つい先日までは、話すことすらあり得なかったあの『クール美少女』と日が沈んでから通話しているのだ。
その恥ずかしさはコーヒーの苦みでも上書き出来なかった。
その後の『さ、勉強始めましょうか』という、何とも感じていなそうな綾乃の提案で現実に引き戻されたんだけども。
だいたい二時間ほど集中して取り組んだ。
その間、「何か話さないと」といった気まずさは全く無く、俺が分からないところを綾乃に聞き、それ以外は無言で勉学に励むという非常に有意義な時間であった。
『明日で今週も終わりですねぇ……』
綾乃がポロっとこぼした一言で勉強は一時中断される。
「綾乃も週末って嬉しいんだな。や、変な意味じゃないんだけど」
俺は時間を確認しながら、ふと思ったことを綾乃に返す。
時刻は日付を跨ごうとしているところだった。
『変な意味でしかないでしょうそれは……私だって普通の学生です。休みはそりゃあ嬉しいですよ』
んぅ、と綾乃は気持ちよさそうに伸びをしながら返事をする。
「ちょっと言葉足らずだったか、すまん。俺からしたらさ、まだ学校が始まって間もないこの時期から『放課後残って勉強しよう!』なんて考えにならないからさ。そういう人たちって、学校の時間がめちゃくちゃ好きなんかなってずっと思ってたから」
言いながら勉強道具をまとめる。
明日必要なものはバッグに詰めめ、スマホを持ちながらキッチンに行く。
『そういう人たちもたまにいますよね。私としては学校自体に好きとか嫌いとかそういう感情は特に無くて、それこそ桐原さん風に言う、人生の財産作りって感覚なので』
「かっこいいかよ。食事管理はできないのに」
『黙ってください』
綾乃の理由なき反論に少し笑いながら、冷蔵庫から生卵を数個取り出す。
明日は卵焼きを食べたい気分なので今日のうちに作っておこう。
「自炊したらだいぶ安くなるだろ。お前の親から貰ってる分でも毎日三食いけるって」
『作れたらしてます』
「……確かに」
『そもそも、私があんまり食べられないから足りてないこともないです。それに……今は桐原さんのお料理以外、あまり食べたいとも思えません』
別に、綾乃としては俺の料理が「優しい味付けで食べやすい」という意味で言っているのだと思う。
それでも……それでもズルいだろ、それは。
俺は通話越しであったことに感謝する。
今顔を見られるわけにはいかない。
「ま、料理を美味しいって言ってくれる奴に作るのは楽しいし嬉しいからな。しばらくは俺が作ってやるよ」
トントン、と卵を割り白身と卵黄をボウルに入れる。
それを二個、三個と続けて入れて、箸を使ってチャカチャカと溶きほぐす。
「そういえば、今日はちゃんと飯食ったか?」
『もちろんです。あんなに美味しいのを我慢するほうが難しいです』
「この食いしん坊」
『……別に食いしん坊さんじゃないですけど』
ニヤニヤしながら聞くと、綾乃は不機嫌になりながら否定してくる。
食いしん坊をわざわざ『食いしん坊さん』に言い換えるあたり綾乃らしいな、と小さく笑いながら卵を丁寧に溶きほぐしていく。
ある程度混ざったら、醤油と砂糖を少量加えてかき混ぜる。
あー……なんか────
「――……いいな」
『え?』
「あ、ごめん。声に出てた?」
調理しながら考え事をしていると、つい声となって漏れてしまった。
「いやさ。こうして話しながら作業しているだけの時間ってのもたまにはいいな、と」
『ふふ、こういう時間の使い方もいいですよね』
綾乃はクスッと上品に微笑んだ。
大した特徴もない俺と才色兼備のクール美少女。
接点なんか一生あり得ないと思っていたが、そんな彼女と今は談笑しているだけで時間が過ぎていく。
お互いにこれ以上踏み出そうとも思わない。
だからこそお互い健全でほどよい関係が築けているのだと思う。
それ故に、なんとも言えない心地よさが二人の心を満たしているのかもしれない。
『今はお料理中なんですか?』
温めたフライパンに卵を流し込むと、綾乃が質問してきた。
卵が焼けるジューという音が聞こえたのだろう。
「明日の弁当用に卵焼きだけ作ろうかな、と。悪いな通話中に」
『いえ全然。ご自分を優先いただくと私も安心できますので。それはそれとして、卵焼き……』
物欲しそうな声を漏らす綾乃。
……そういうことか。さすがに可愛すぎるだろ。
「明日の放課後な」
『えっいいんですか? やった……』
卵焼きを貰えると分かった綾乃は、小さな声で素直を喜ぶ。
小動物のようなかわいさと小さくガッツポーズでもしてるんだろうな、と思ってしまった。
どっちが素なんだろうという純粋な疑問の気持ちと、こっちが素であってほしいなという我儘にも近い感情が複雑に交わる。
……あれ?
俺は卵をかき混ぜていた手をピタッと止める。
今の自分の気持ちが理解できなかったからだ。
俺は綾乃に対して特別な感情は抱いていない。
ほどよい関係が心地よいと気づいたばかりなのだから、それは間違いない。
だからこそ、今の独占欲のような自身の感情が理解できなかった。
……いや、きっと寝ぼけてたんだな。
俺は首を振って雑念を追い払う。
この感情が何なのか、理解するにはまだまだ時間が必要であった。
おやすみなさい、と言って桐原さんとの通話を切った後、私は電気を消してすぐベッドにボスっと沈み込む。
『いやさ。こうして話しながら作業しているだけの時間ってのもたまにはいいな、と』
数刻前の桐原さんの言葉が、私の頭のなかで何度も何度も再生されます。
中学の頃から、はたまた小学生の頃から。
常に「かわいい」とおだてられて生きてきたからこそ、何も気にしないで時間が過ぎていくという感覚が嬉しくてたまらなかった。
そしてその気持ちが桐原さんと同じであったということが……ちょっとだけ、恥ずかしくなってしまいました。
「……はぁ」
狭いベッドでゴロンと寝転がり仰向けになる。
服がはだけて腹部が露出していることなど気にかける余裕はなく、目を瞑りながら左手の甲を額に乗せる。
息を吐きたかったが口は縫い付けたように開かなかい。頬がほんのり朱色に染まっていくのを僅かに感じる。
しかし胸を締め付ける変なものは……なぜでしょう、まったく嫌ではありませんでした。




