第2話 クラスのクール美少女
高校一年生、五月上旬の空は夕焼けに染まっていた。
窓から差し込む夕日に照らされた学校の廊下を、俺――桐原蒼汰は足早に歩いていく。
「今日はバイトがなくて助かった……」
明日提出の課題を学校に忘れたので取りに来た、というわけだ。
外からは運動部の声が、中からは吹奏楽部の演奏が聞こえてくる。
しかし、それらとは棟が違う本校舎の一階には人の気配がなく、どこか不思議な感じがする。
中間考査まであと一ヶ月くらいあるし、一年生にはまだ「居残りして勉強しよう」という考えの人はいないらしい。
──と思っていたが、
「あ」
俺のクラスには一人の女子生徒が残っていた。
まさか人がいるとは思ってもみなかったので、咄嗟に扉を開ける手を止めてしまう。
女子生徒――綾乃は机に向かっていた。
机上に開かれた問題集は、まだ授業では扱っていない範囲のようだ。
「……えっら」
才色兼備、文武両道と呼ばれる『クール美少女』も、こうして影で努力しているというのはなんだか嬉しかった。
俺にはどうしても、人間らしくないように見えていたからだ。
とはいえ、忘れ物は教室の中にあるので、勉強の邪魔をすることを申し訳なく思いつつ、そっと扉を開けた。
誰もいなかった教室にガラガラという音が響き、綾乃は反射的に顔を上げる。
「悪い。忘れ物取りに来ただけだ」
突然教室に入ってき俺に汰に少し怪訝そうな顔を浮かべたが、俺の言葉に納得してコクンと頷くと勉強を再開した。
「綾乃からしたら俺の名前も覚えられていないんだろうな」とどうでもいいことを考えつつ、一つ隣にある自分の机から目的のプリントを探す。
ガサゴソという音と、シャーペンがノートを走る軽快な音だけが教室を支配する。
「放課後、いつも勉強してるのか?」
そんな中、俺はふと気になったことを聞いてみた。
綾乃と話したいとかプライベートなことを知りたいとか、邪な気持ちは一切無い。
ただ普段は一切関わることがないので、二人だけのときにしか質問できないと思っただけだ。
「そう、ですね。七時過ぎくらいまではだいたい毎日残ってます」
透明な声で答える。
友達未満の異性から話しかけられたことに、僅かながら警戒感を抱いていることが声色から感じ取れた。
「そりゃすげえわ」と脳のフィルターを介さずに返事をする。
しかし年度初めの自己紹介を思い出し、プリントを探す手を止めて隣を向く。
それが視界の端に見えたのだろう、綾乃も勉強を中断して俺の方を向いた。
「……どうしました?」
「あ、ごめん。綾乃って一人暮らしじゃなかったっけ、と思って……」
「一人暮らしですけど、それが?」
警戒というよりも、何を言っているんだ、と怪訝そうに聞き返してくる。
「俺も一人暮らしだから分かるんだけどさ、飯とかどうしてんの?」
ここ桐谷高校の生徒のほとんどは自宅通いで、一人暮らしをしている生徒は一部しかいない。
そういった人たちに向けて学校が所有するマンションが安価で提供されていて、一人暮らしをするほとんどの人はそこを利用している。
俺も綾乃も、そのうちの一人だ。
学校からかなり離れてるってわけじゃないが……毎日七時過ぎまで学校に残るとなると、家に帰る時間もかなり遅くなる。
風呂やら洗濯やらしていたら自炊する時間なんて取れないだろう。
だが、ただでさえ昼は食べないんだから、夜も食べてないとは考えにくい。
「いつも買ってます。食事代として母親に貰ってますので」
「え、毎食?」
「毎食です」
どこのお嬢様なんだ。
そんな感想が真っ先によぎった。
うちは私立高校でそもそもの学費もかなりする。
澄香ともなれば特待制度で多少安くなっているだろうが、追加で毎食購入しているともなれば、かなりの金が必要なのではないか?
え…………まさか?
「食べてる?」
「……食べてますよ?」
「食べてないのかよ……」
綾乃はわかりやすく目をそらす。透明な声も初めて揺らいだ。
そして小声で「……まぁ、たまに食べてないことも、ありますけど」と付け加えた。
絶対「たまに」じゃ済まないだろ……。
普段の『クール美少女』とのギャップに、自然と笑いが込み上げてきた。
「っはは」
「……何笑ってるんですか」
「いやごめん。嘘つけないタイプなんだな、と」
「放っておいてください」
つい、いつものテンションで話してしまうと馴れ馴れしくされたことが気に障ったらしく、普段の素っ気ない態度で返事をされてしまった。
俺も反省する。ほぼ初対面で、しかも異性に対してとっかかりすぎたな。
不摂生な生活は少し心配になるところだが、「他人のことなんだから放っておいてほしい」と綾乃も思っているだろうと思い、これ以上追求はしなかった。
プリントをバッグに入れ、肩にかける。
「じゃ、勉強頑張れよ」
「ありがとうございま――」
潔く帰ろうとドアに手をかけたとき、ぐうぅぅという可愛らしい音が鳴った。
取っ手にかけた手の力を抜き、綾乃を見る。
綾乃は肩を小刻みに揺らしながら俯き、両手で顔を覆っていた。真っ赤に染まった耳はまったく隠せていない。
「綾乃」
「黙ってください」
いつになく語気が強い綾乃に、俺は遠慮なく聞いた。
「最後に飯食ったのいつ?」
「気にしないでください」
「正直に」
「…………昨日の朝、です」
素直に圧に負けてくれた綾乃は口を割った。
告白しつつ机に広げたノートの上に両肘を乗せ、そこに頭を乗せて顔を完全に隠してしまった。
食が細いってのも嘘ではないんだろうけど、やっぱ食費も結構ヤバかったのかよ……。
まるで絵の中にいる天使のような完璧美人の人間らしいところを見ても、呆れることしかできなかった。
ってか昨日の朝? ……もう丸一日以上食ってないじゃねえか。
もうちょっと周りを頼れば……って、綾乃の性格的に無理か。
はあぁぁ、と綾乃にも伝わるようわざと大きなため息をつく。
「家に飯あんの?」
「……気にしないでください」
「ったく、こういう時まで強がんなっての……」
もう一度呆れながらバッグを床に置き、メモ帳から一枚だけ破り取る。
なんの音だと顔を僅かに上げた綾乃の机にその紙を置き、シャーペンを勝手に借りてマンションの部屋番号を書く。
「ここ俺んちだから帰るときに寄ってけ。余りもんしかないけど分けてやる」
「い、いや……いらないですから」
綾乃は申し訳ないと提案を受け入れない様子であったが、無視して俺は教室を出ていった。
これが俺にできる、精一杯のことだろう。
◇ ◆ ◇
もうすぐ八時をすぎようかという頃。
音楽を流しながら取ってきた課題を進めていると、ピンポーンと来客を知らせるチャイムが鳴る。
玄関を開くと、見慣れた黒の頭が目に入った。
「……その」
「そういえばアレルギーとかないか?」
「ないです、けど……そうじゃなくて!」
綾乃の反論を無視してキッチンに向かい、肉じゃがときんぴら、ポテトサラダが入ったタッパーを持ってくる。
「お金…………」
「いいって。尽くしたい精神みたいなもんだから」
「それでも……」
二十四時間以上食べてないというのに、今までの育ちの良さも相まってなのか、綾乃はなかなかタッパーを受け取ろうとしない。
ハッキリとしない状況が続き少しめんどくさくなってきた俺は、強硬手段に出ることにした。
「あー、じゃあさ。これ全部食べて明日またこの時間に空のタッパー返してくれなかったら、お腹鳴ってたことクラスでバラしちゃうかもなぁー」
俺の言葉に綾乃の動きがピシャッと止まる。
そして、少し涙目になりながら上目遣い気味に睨みつけてきた。
「……いじわる」
「言ってろ」
綾乃は渋々ではあったがタッパーを受け取った。今まで一度も見たことがなかった表情と言動に、思わず目を逸らしてしまう。
俺は綾乃に「また明日な」とだけ告げて家に入る。
玄関が閉まる直前、小さく「……ありがとうございます」と聞こえてきた。
これじゃ、『クール美少女』ってよりも不器用な人だな。
元気になってくれればいいなとか、ちゃんと飯は食ってくれとか。
その程度の、自己満足にすら近しい感情だった。これ以上でもこれ以下でもない。ただそれだけの関係。
確かにそう思っていたのだ。この時までは。




