1-1.藍川慧太郎の日常
※藍川 慧太郎
藍川さん家の長男坊。職業、中学生。
現実主義者の苦労人。
苦手な教科は数学と英語。
通っている道場の師匠がもう少し大人としてどうにかならないか、というのが目下一番の悩み。
風がそよそよと、アスファルトの路端に逞しく生えた雑草を優しく揺らしていく。 青空には雲一つ無く、ここのところ続いていた雨が嘘のように晴れ渡っていた。そんな空の下を、藍川家の長男、慧太郎少年が中学から自宅への帰路についている。
時刻は午後三時過ぎ。
いつも学校帰りは道場に寄って練習をしてから帰るので、日暮れ前に家に帰るなんて実に久しぶりのことだった。その事実だけを踏まえて見れば、現状は確かに嬉しいものであるのだが。
(あの師匠は全く)
どこの世界に、二歳になったばかりの愛娘がくしゃみをしたと聞いただけで、飛んで帰る人間が居るのだろうと、慧太郎は歩む足は緩めずに、視線だけをどこか遠くした。
しかも、わざわざ道場を休みにしてまでの所業に呆れるより他はない。常日頃は雪が降ろうが嵐が来ようが、例え槍が降ったとしてもはしゃぎこそすれ、絶対に練習を休ませてくれなどしないくせに、まったくあの親馬鹿親父は。
文句の一つも言ってやりたいとは思うが、その後に確実に待ち受けているであろう教育的指導を思うと…言えない。絶対に言えやしなかった。
(でも、なぁ)
しかしそれがよりによって今日とは。
右手に握ったプリントを横目に見つめて、思わず天を仰いでしまった慧太郎だった。今日だけは少しでも家に帰る時間が遅くなるのなら、どんな無茶な練習内容でも喜んでこなすつもりだったのに。
《おや。そこを行くのは、姉さんとこのけいたくんじゃありやせんか?》
頭上、斜め上より降ってわいた声に、ピタリと音をたてて慧太郎は動きを止める。
《いやあ、いつ見ても別嬪さんでやんすねぇ。そういやあ、昨日新しくできた散髪屋で、まぁた女子に間違えられたってホントでやんすか?》
「……ほんとだけど、なんで知ってるの」
無視することも考えた。しかしついで発された言葉に、思わず反応していた。
なんで道端で己の恥をさらすはめになっているのかわからないが、声が示唆したことは哀しいことに事実だった。
つい昨日の日曜日。
確かに、慧太郎は先週からオープンしたばかりの店に弟を連れて行き、はっきりきっぱりとした口調で「あらー、若いのに弟さんの面倒ちゃんと見てえらいわねぇ。さすがお姉ちゃん」と褒められてしまったのだ。結局最初から最後まで、店員のお姉さんは彼が『お兄ちゃん』だということに気付かなかった。やっぱり、いくら安くて腕が良いといっても美容院は止めておくべきだったのかもしれない。美容院というのは大抵、女性の通うところであろうから。
……それでも中一にもなって、女の子に間違われたと言う事実は消えてくれはしないのだけれども。
《ありゃ。それじゃ今月に入って…ひーふーみー、と、三回目でしたっけ》
「…ちがう、まだ二回目だよ。先月の終わりに、洸太郎のクラスメイトのお母さんに間違われた分も入れたんじゃない?」
《あれまあ、そうでやんしたか?》
「そーだよ。って、それよりもトラ」
振り向き、他所様の家の塀に鎮座している雄の虎猫を、どこか諦めたような風情で見つめる。彼の名前はトラ。慧太郎の家から五分ほどの距離にあるクリーニング屋の看板猫である。慧太郎自身はクリーニング屋のお爺さんとはあまり話したことはなかったが、別口の理由から良く知ることになった猫であった。
「いつも言ってるけど、別嬪さんは止めて貰えないかな? 一応僕、男なんだし」
一応どころか、正真正銘そうなのだがあっさりと同意されてしまった。
《あぁ、それはあっしとしたことが失礼致しやした。坊ちゃんがあんまり美人だったもんですから、つい》
トラは耳をぴくりと動かして、気まずそうに鳴く。
だからそれは褒めてない、ついってなんだついって。という言葉は辛うじて飲み込んで。
「そーしてくれると嬉しいよ」
乾いた笑いを浮べ答えると、慧太郎の複雑な心中には気付かずにトラは律儀に善処しやすと頷いて立ち上がる。
《では、呼び止めてすみやせん。テツの兄貴に呼ばれてるんで、あっしはこれで。姉御にもどうぞよろしく》
「うん、わかった。伝えとく。ああ、最近はこの辺も物騒だから気をつけなよ」
この猫のこういうところはよくしつけが行き届いているよな、と慧太郎はいつもながら感心する。誰かさんに爪の垢を煎じて飲ませてやりたいくらいだ。
けれど、彼がそんなことを思ったことが件の対象にばれたら、ただではすまないに違いない。賢明な彼は、なのでそんなことは表情にはおくびにも出さなかった。出さなかったはずなのに、虎猫は慧太郎の顔を凝視したまま動く様子がなかった。
「…何? 僕の顔に何かついてる?」
《いえいえ、やっぱり言葉が通じるって便利なもんだと思っただけでやんすよ。うちの主人も人間にしちゃあ、猫に理解が有る方っすけども、やっぱ会話ができるのとできないのとじゃあ大違いっすからねぇ》
感慨深げに言うだけ言うと、トラはさっさと塀を飛び降り行ってしまう。
残された慧太郎は虎猫と会話する以前とは違った理由で、天を仰いだ。
「……別に好きで言葉が分るんじゃないだけどね」
はぁ、と大きな溜息をついて肩を落とす。
むしろこれが白昼夢であってくれた方が、自分はどこか(主に頭が)おかしいのではないかと怯えずにすむだけ有難い。
しかし、まあこれはいいことにしておこう。そんなことを今、問題にしてもどうしようもない。己の正気に対する嫌疑は横へ置いておくことにして、それよりも目下の問題を片付けねばなるまい。一つ頭を横に振って意識を切り替え、彼はそれきり思考の淵に潜り込んでいった。
中学へ入学して約二ヶ月弱ではあるがそこは慣れたもので、思考に耽りながら地面を見つめていても足は自然に家の方へと歩いていく。我ながら器用なことだと、頭の隅でそんなことも思った。
だが。やがて、自宅の屋根が遠目にもはっきりとしてきたころ、心なしか慧太郎の歩む速度が落ちていく。表札の苗字がはっきりと見える位置でついに慧太郎は足を止め、恐る恐る右手にある、いつの間にか握りつぶしていたプリント――正確に表現するならば、先日行われた抜き打ちテストを恐る恐る広げてみた。
答案用紙は多少しわくちゃにはなっていたが、帰り際教科担当に渡されたときに目にした点数に変化はない。夢や幻でもない限り、変化するはずがないことくらい彼とて理解していたが、それでもこれが夢であってくれるなら、これからは何時間だって師匠の娘自慢につきあってもいいなどと思ってしまうくらいには、慧太郎は追い詰められていた。
(…絶対、こんなの見せられないって。どう考えても見せたらただじゃすまないよ。でもなぁテストがあったこと、ついぺろっと喋っちゃったからいつかは聞かれるのは目に見えてるし、けどこんなの見せたらどうなることか…。やっぱ無理。…いや、でも見せなかったら見せなかったで、それはそれで何というか、ああでもこの点数は――)
「うーん。この点数はご家族にばれたら厄介じゃないですか?」
今度も斜め上から降って湧いた暢気な声に、慧太郎は反射的に頷いた。
「そうなんです、そうなんですよ。というか厄介なんてもんじゃなくてですね! ああ、父さんは爆笑するだろうし、六花も鼻で笑うだろうし、洸太郎はまあ首傾げるだけだろうけど、何より母さんに知られたらどうなることか!!」
「早依さんなら、無言のプレッシャーで責めてきそうですよね。しかも、室温が零下まで下がりそうなオーラを纏って」
「……うわぁ。めちゃくちゃ有り得そうで嫌過ぎる」
本気で頭を抱え込み、そこでようやく慧太郎は気付いて動きを止める。
今、自分は誰と会話しているのだ。
恐る恐ると言った態で横を振り返り、ピキリと音を立て固まった慧太郎に構わず、ぽえぽえとした雰囲気の声の主が、まったくその通りの表情で続けた。
「それにしても珍しいですねぇ。僕、本物見たの初めてですよ、零点。慧太郎くん、そんなに数学は苦手なんですか?」
「と、十夜さん!?」
「はい。僕は黒瀬十夜ですが、どうかしましたか? 慧太郎くん」
にっこりと、頭二つ分は優に高い位置にある青年の顔が優しげに微笑む。
周囲から保育園児を相手に喧嘩しても負けそうだと形容されるその笑みは、普段ただでさえ細まりがちな目を、更に細くさせている。
が、道場に通って早六年。曲りなりにも、武道を学ぶ者の端くれである慧太郎の勘が、彼は只者でもないと告げていた。
人畜無害どころか、地球環境にすらよさそうな雰囲気の、この青年の具体的に何処が。もしそう聞かれれば、慧太郎としても返答に困るのだが、何故かこの青年のとる行動はどこかしら、そう。ひっかかるのだ。
けれどまぁ、今この際はその話題は一旦置いておくことにして。
「ど」
「ど?」
『どうして貴方がここに!』
と叫びかけて、慧太郎は何とか思いとどまる。
尋ねるまでもない。ここは彼が下宿している家の真ん前なのだ。自分が生活している家の玄関に居て何がおかしい。そんなこともわからなくなっているところを思うと、テストの点を見られたことはどうやら自分に相当の混乱を与えたようだ。
ぐしゃりと右手の元凶を握りつぶして、落ち着けと慧太郎は自分に言い聞かせる。
そう例え、さっきまで周囲には人の気配すらなかったはずなのに、とか。
気配もなかったけど何で足音すら聞こえなかったんだ、とか思ってもどうしようもないだろう、自分。
だって、この青年が神出鬼没なのは今に決まったことではないじゃないか。
首を傾げる青年の前で、一つ深呼吸。これだけは確認しなければ。
「あの…」
「大丈夫、誰にもテストのことは言いませんから」
慧太郎の言葉の先を予測していたのか、十夜は返答を返した。
ほぉ、と息を吐いた彼に「でも」と茶目っ気のある笑顔を向けて青年は首を傾げた。
「やっぱり、そういうのはその時その時にちゃんと見せておいた方が良いと思いますよ? 隠して、後でばれた時の方が怖いですから」
「うっ。…確かにそれはそうなんですけどね」
それでも、やはり言い難いものは言い難いのだ。
だって母が怒ると冗談でなく本当に、間違いなく室温が下がる。
真夏であれば多少冷房効果が期待できるかもしれないが、しかし例え今が八月のど真ん中であってもそれは大変有り難くない。全くもって、有り難くない。
無意識に渋面を作っていたようで、そんな彼を見下ろして十夜が苦笑した。
「仕方ないですね、ではどうしても言えないのなら、その時は僕が一緒についていましょうか。それでも怒られてしまったら、今度からは僕が責任を持って数学を教えてあげましょう。もちろん慧太郎くんがよければ、ですが」
「ホントですか!」
十夜は近所の某理系大学に通っている。もし本当に教えてもらえるなら、道場通いのせいで塾に行く時間もない慧太郎にとってこれ以上に嬉しいことはない。
「じゃあ行きましょう行きましょう!」
「ええっ? い、今からですか?」
今すぐに、と柵越しに身を乗り出した慧太郎に押された十夜は仰け反りながら、少し困ったような顔をした。
と、そこでようやく思い当たる。
「どこかに出掛けるところだったんですか、十夜さん」
ジーンズに黒のTシャツと、至ってラフな格好だが、左肩に引っ掛けた小さめのリュックが目に入る。ぎりぎりまで詰め込んだのか、かなりの重さがありそうだ。
慧太郎の視線に気付いて彼は苦笑する。
「ええ、ちょっと出稼ぎに。急な依頼でしたから、商売道具を選んでる余裕もなくて。適当に詰め込んだらこの有様です」
言いながら、糸目の青年は肩を竦める。
十夜は大学に籍を置いており、一応真面目に単位も取得しているようなのだが、隣りの家に住む慧太郎としては大学に行くよりも、こうして仕事に出掛ける時の方が多いように思う。
どんな仕事なのかは彼自身説明しにくいものらしく、『あえて言うなら人助けをするお仕事、ですかね』というその曖昧な表現から、藍川家では、
「大変なんですね、何でも屋さんっていうのも」
という感じで解釈している。
「まあ、こうゆうご時世ですからね。でも元締めはもとより社内のほとんどの人間が身内ですから、良いように使われてるって気もしないでもないですよ。他に使える人間はいないのかって突っ込みたくなるくらい、こうも人使いが荒いと」
そう苦笑しながらでも、彼が彼自身の仕事について語るのは珍しいことだった。
「へえ。そんなに酷いんですか?」
「そりゃあもう。有能な上に、僕はお偉方には嫌われまくってますからね。扱いが酷いの何のって。一度に二つの仕事をさせられることなんてざらですし、内容によっては住み込みまでさせられるんですよ。気の長い僕としても、いい加減我慢の限界です。慧太郎くんも働き先は慎重に選んだ方が身のためですよー?」
冗談のように軽い調子で、しかし極当然のようにさらりと自分で自分を有能などと言うあたりこの青年は掴み所が無い。それに何より慧太郎は、十夜が一瞬だけ我慢云々のくだりで真剣な眼をしたのが物凄く気になった。
一体、この人と雇い主の間にはどんな諍いがあったというのだろうか。
普段はそのぽえぽえした笑顔同様、えらくのんびりした人だなあと呆れているのだが、こういったふとした拍子に何故か彼に対する得体の知れなさを感じてしまう慧太郎である。
「まあ、そういうわけなので。申し訳ないけれど戻ってからでも良いですか?」
こういう申し訳なさそうな苦笑は、本当に人畜無害そうに見えるのだが。
頭の片隅でそんなことを思いながら、慧太郎は首を横に振った。
「全然、いいですよ。こちらこそすみません、変なこと頼んで」
「構いませんよ、困ったときはお互い様です。それに、ちょうど今日は早依さんたちに、夕飯のお誘いをいただいていますからね」
その言葉を聞いて、慧太郎は複雑な、何とも言えない気分になった。
十夜が家に来ることに、慧太郎自身に否はない。彼のことは好ましく思っているし――多少は得体の知れないところもあるが、それはそれ――むしろ、テストの件があるから大歓迎である。しかし、だ。彼が良くても、家族の全員がそうとは限らない。
(そっか、それもあったんだった)
目先の問題に捕われて、その問題があったことをしっかり失念していた。
玄関の門を開いて、慧太郎と同じアスファルトの上に立った十夜は、先程の真剣な眼差しのことなど忘れたかのような風情で、それにしても、と続ける。
「今日は早かったんですね、慧太郎くん。いつも平日は暗くならないと帰ってこないのに」
「はぁ、ちょっと。……師匠が今日は休みだって突然言い出したもんですから」
目を泳がせた慧太郎に、十夜は納得したように頷く。
「成る程、あの龍之介さんが」
何やら含みのある言い方だった。
ことあの師匠に関しては、こういう反応はさほど珍しいものではない。
師匠基、城生龍之介氏を知る人間は大抵、その名が出るだけで震え上がるか、またぞろ何をやらかしやがったんだとでも言いたげな渋面になるかのどちらかなのだ。
今の十夜の場合は後者で、またどうせつまらない理由だろうという思いを隠すそぶりもなくその瞳が語っている。めったなことでは人に対する感情を表に出さないこの青年にしては、恐ろしく珍しいことだ。
(……僕の知らないところで十夜さんに何したんだよ、師匠)
つい先日までは慧太郎越しでしか知らなかったせいもあって、「またですか」的な苦笑を浮かべるだけだったのに。どういう心境の変化があったのだろう。そう言えば先日、師匠から十夜のことを聞かれたような気もするが、しかしまさか。
「慧太郎くん?」
「えっ、あ。はい!」
「大丈夫ですか、ぼーっとして。めまいでもしましたか?」
そう問われ、我に返った慧太郎は嫌な想像を振り払うかのように両手と頭をぶんぶんと振って否定した。
「大丈夫です! 何でもありません。それより、ほら! 十夜さん、お仕事なんでしょう? 急がなくてもいいんですか?」
「ああ、そうでした。それじゃあ夜にまた。でも体調が悪いなら早めに横になった方がいいですよ?」
尚も心配そうに言い募る青年の背を、慧太郎は大丈夫の一点張りで押しやる。
「平気です、ただちょっと考え事してただけですから。それより夜は本当に頼りにしてますから、お願いしますね!」
それでようやく十夜も納得したのか、一つ会釈を返して駅への道を歩き出した。
慧太郎はその背を、笑顔で手を振りながら見送って。
しかし、十夜の姿がすっかり見えなくなったとたん、一転困ったような顔になった。
「参ったな」
この際百歩譲って、あの馬鹿師匠があの青年に何をやらかしたかは一先ず置いておくとしても、彼が家に足を踏み入れることによって引き起こされるであろう騒動を思うと、今から大変気が重い。出来るのならば、このまま裸足で逃げ出してしまいたい気分だ。
いっそのこと、どこかにテストの件とこの問題を一挙に片付けてしまえる、とびきりの良案が落ちていないものだろうか。
再び家へと足を動かしながら思考に耽るが、考えてみるまでもなく、そんな都合のよろしいモノがあるはずもない。
(仕方ない。朝から覚悟はしてたんだし、あっちの件は諦めよう)
どっちにしろ避けられなかった事態なのだ。ならばテストの件は避けられる可能性が有るということだけでも、有り難いと思うしかあるまい。
心の中を整理するように一つ深呼吸した慧太郎は、『AIKAWA』という横文字の表札がかかった門をくぐる。カントリー調に飾り付けのされた玄関扉を開けて「た」だいまと続けようとした彼の脇を、何の前触れもなく疾風が駆け抜けていった。
余波を食らって前髪が揺れる。
「いってきまーす!!」
そのまま駆けて行こうとしたその小さな風は、慧太郎に気付いたのかすぐさまブレーキをかけた。
「あ、お兄ちゃん。おかえり!」
元気良く言った幼い少年は、兄の苦笑に近所のお姉さまやおばさま方に評判の笑顔でもって返す。明るい色素をした茶色い髪は、兄弟揃いに母から譲られたものだ。
「…ただいま。こうたは遊びに行くところ?」
うんと、『こうた』こと藍川家の次男坊、小学四年生の洸太郎は嬉しげに頷く。
「マコトくんと、あそぶ約束してるんだ!」
「まことくん?」
洸太郎の友達はかなり多い方だがマコト、という名は初耳だった。幼稚園時代のクラス名簿にもそんな名前の子は載っていなかったはずだし、先月もらってきた小学校の連絡網にもそんな名前の児童は居なかったように思う。
「うん。きょう、友だちになった子」
「…なるほど」
知らないはずだ。
「一応確認しておくけど、それは知らないおじさんだったり、飴玉くれたおばあさんだったり、派手な格好をしたお姉さんだったりはしないよね」
「んー? 東小の子だっていってたよ」
因みに洸太郎が通っているのは橋杜南小学校。橋杜東小学校はお隣さんだ。
「ならいいけど」
ほっと胸を撫で下ろした兄を、弟が不思議そうに見つめているが慧太郎は気にしない。
心配性というなかれ。
洸太郎の過去の実績を知れば誰だって自分のようになる。
菓子を貰えると聞けば他人にほこほこと付いて行き、一言二言話した相手は皆友だちという人間をこのご時世に心配するなという方が無茶だ。
嘆息する慧太郎の脇に、今度は白い塊りが飛び出してきた。
「ん?」
声を上げた慧太郎にちらりと目をやったが、何かを咥えているせいなのだろう口を開かない。
「六花、どーかしたの」
疑問を投げかけた洸太郎に、藍川家の一員、白猫六花は口に咥えた何かを彼目掛けて放る。それを拾って只でさえ傾げられていた首が、更に横になった。
「時計?」
デジタル式の黒の腕時計。確か先月、父親がゲームセンターのUFОキャッチャーで取った景品ではなかったか。たった一コインで取れたことを、子供のように自慢していた姿が記憶に新しい。
洸太郎はじっと六花の顔を見つめ、暫くして思い当たったように、ぽん、と小さな手を打つ。
「そっか。今日は剣道の日だもんね」
ほぼ毎日、学校のある日はその放課後、練習付けの日々を送る慧太郎と違って、洸太郎が通っている剣道教室は週に三日。
今日の火曜と、木曜土曜の夕方五時から二時間程度ある。つまり。
「わかったー。ちゃんと四時にはもどってくるよ」
こちらに手を振りながら、器用な姿勢で走り行く洸太郎の背を見送りつつ、よし、と言うように白猫は「なー」と鳴く。
因みに慧太郎にはそれは《今日こそ忘れないでよ》と聴こえた。
恐らくは先日、件の弟が腕時計をしていたにもかかわらず、遊び呆けていたことを言っているのだろう。そのまま暫し元気な弟の背中を見送っていると、白猫が彼の方を見上げ一声鳴いた。
《お帰り》
見下ろすと、アメジストの瞳とかち合った。
視界の端では、尾に結ばれたピンクのリボンが揺れている。
「…ただいま。珍しいね、六花がこんな時間に家に居るなんて」
《そっちこそ今日は早いじゃない。まあ、どうせあの変態師匠がくだらない理由で道場を閉めたんだろうけど》
大当たり。
ぐぅの音も出ないが、一応諌めておく。確かにあの師匠は、その、アレではあるがしかし、かといっていいところが全く無いわけではないのだ、と信じたい。
「……六花。お願いだから、変態は止めてほしいんだけど。あれでも本人は常識ある社会人だと思ってるみたいだし」
そんな彼に呆れたように白猫は鳴く。
《突然、曇りの日に星が綺麗だとか言って木に登り始めて、その上酒飲んで酔った挙句に半裸になって大声で歌いだすど阿呆を、常識ある社会人だって認めろと? そんなことをしたら、それこそ常識って言葉がやめてくれって号泣するわよ。第一、あれと同類にされたら本当に常識のある社会人たちが気の毒じゃない》
「…………頼むから、そのど阿呆の弟子の身にもなってよ」
心底疲れたように呟くと、白猫は困ったように瞬いた。
ふむ。と考え込んで。
《善処するわ》
彼女は彼が先程出会ったばかりの彼女の舎弟と、奇しくも同じ言葉を口にする。
こういう生真面目なところは、トラと彼女の数少ない共通点だろう。
ただし、この白猫の言う『善処』とトラの言う『善処』は少しばかりニュアンスが違う。トラの場合は『出来うる限り努力しやす』と聞こえた『善処』という言葉は、彼女が口にしたとたん『まぁ無理だと思うけど、とりあえず努力はしてあげる』に格下されてしまうのだ。
しかも厄介なことに、物心ついた頃からこの猫はいつだっておかしなところで変に頑固で、慧太郎が覚えている限り、彼女は自分が口にしたことを違えたことは一度も無いはずだった。
逆に言えば、それは出来もしないことは軽々しく口にしないということで。
つまりは、ヘタに『絶対にやめてくれ』などと言おうものなら、それこそ真剣な声音で持って、『それは無理』と断言されてもおかしくはないということである。そんなことになれば、この白猫は本気で『変態』をあの馬鹿師匠の代名詞に使用しかねない。いくら本人には聞かれることがないとしても、さすがにその弟子として、師匠が猫に『変態』扱いされている事実を逐一認識させられるのは、精神的にきついものがある。 だから、彼としてはこう答えるのが精一杯だった。
「……出来るだけそうして、お願いだから」
もうそれ以上何かを言う気にもなれず、思考を切り替えるために軽く頭を振ってから、慧太郎は話題を変えることにした。
「で、父さんと母さんは?」
何気なく聞いてから、重たい沈黙にどうやら話題の選択を間違ったことに気付いたが、後の祭りだった。
《母さんは買い物。父さんは……知りたい? 本当に?》
「いや、その言い方で何となく想像がついたからもういい」
《そう》
賢明だわ、と六花は頷く。
意識を向けてみれば、やはりと言っていいものか、背後の先程開けたばかりのドアからは賑やかな声。
一つは聞き慣れた父の声。
そうしてもう一つは、父が世話になっている出版社の担当氏の声だ。
あの陽気さ加減からすると。
(珍しく締め切りに間に合ったわけだ)
でなければ、今ごろこの家はおどろおどろしい修羅場となっていたことだろう。
それは何度体験してもあまり嬉しい状況とは言えないので、締め切りに間に合ったこと事態は手放しで喜びたいところなのだが。もはや恒例となっているとは言っても、やはり昼間から宴会もどきを繰り広げられると、鬱陶しいことこの上ない。
もともとお祭り好きな熱血漢であるだけに、尚更だ。
中の酔っ払いどもに絡まれることを思うと、このまま回れ右したくなったが、
「あら、慧太郎。お帰りなさい」
そう言う訳にも行かなくなってしまったようだと苦笑する。
「ただいま。母さんもお帰り」
その隣りで六花も《お帰り》と鳴いた。
振り返ると門の前には案の定、買い物袋を両手に提げた藍川早依の姿がある。ビニールの袋からは夕飯の材料と思しき食材と、パン、牛乳などが覗いていた。
一見すると温厚そうな女性にしか見えないが、侮ってはいけないことは藍川家の暗黙の規律にも示されている。鞄にしまった件のテストを思うと、思わず冷や汗が滲む慧太郎だった。
「はい、ただいま。六花、お留守番ご苦労さま。ごめんなさいね、散歩に行く途中だったのに引き止めちゃって」
門扉を後ろ手に閉めつつ、早依。一度下に置いた買い物袋を持ち上げようと屈んだ彼女は、その前に、よしよしと白い小さな頭を撫でた。六花は照れと苦々しさの入り混じった様子で喉を鳴らした。
《別に。というか、あの連中だけ家に置いとくくらいなら、留守番くらいいくらでもするわ……締め切りに間に合うのは結構だけど、その度に酔って家の中で暴れられたら堪ったもんじゃないもの》
「ふふ、ホントに。まったく、お父さんにも困ったものよね。ちょっと目を離したら、ガラスを割ったり、ふらふらのままで車を運転しようとしたりするんですもの」
今年で四十になるはずの、しかしどこから見ても二児の母とは思えない女性は、いつものようにぽやぽやと微笑みながら、困った程度ではすまない問題をさらっと語る。
因みに早依は六花の言葉を理解しているというわけではない。
あまりに彼女らの間に会話が成り立つので、もしやと尋ねてみたのだが『あら、だって何となく言いたいことはわかるわよ。なんて言っても、家族なんだもの』と微笑まれてしまった。
げに恐ろしきは天然なり、であるが、実を言うと頻度の差はあれこれは藍川家の人間全てに言えることだったりする。
「夕飯はご馳走だから、出掛けるなら早く帰っていらっしゃいね」
今日は六花の好きな鯵の天ぷらもあるからね。
言うだけ言うと、アイスを買い込んでいたことを思い出した彼女はいそいそと家に入っていった。
《……天ぷら》
何だか語尾にハートマークがつきそうな調子で六花が呟く。
思わず慧太郎が見つめると、白猫は白々しく《さて》と腰を上げた。
「散歩?」
《そんなところ。今からだと、そんなに回れないけどね》
「ふうん。じゃ、いつも通り暗くなる頃には戻ってくるんだろう?」
《そのつもり》
そう答える六花の脳裏には、恐らく『天ぷら』が浮んでいたに違いない。歩き出そうとした白猫は、しかしふと気付いた様に再び慧太郎を見上げた。くん、と鼻を鳴らす。
もし彼女が人間の姿をしていたら、きっと盛大に眉を潜めていただろう。
《慧太郎。あんた、もしかしてあいつに会った?》
内心ギクリとしながらも、彼は平静を保つ。六花がこんな反応を示すアイツとは、一人しか居ない。が、今はまだ彼の話題はまずい。いや、まずいどころではないのだ。
「あいつ? 誰のこと?」
白を切った彼の様子には気付かず、
《あいつって言ったらあいつしかいないでしょうが》
声はかなり不機嫌で、心持ちいつもより若干毛が逆立ってきているが、それでも六花は平常心を保ちつつ、その名を口にする。明らかに物凄く嫌そうではあったが。
《黒瀬十夜》
「十夜さん? 確かに、さっきすれ違ったけど…」
紙一重の嘘を言いさした慧太郎を遮るように、六花が口を挟む。
《別にね、けーたが誰とすれ違おうが、会話しようが別にいいのよ。それは》
あまり良さそうではない様子だったが、一応慧太郎は口を噤んでおくことにした。
《ただ、何があっても、絶対に。それにわたしを巻き込まないでよ》
きっぱりとした言動に、慧太郎は困ったような呆れたような、どちらともつかない感情を胸に抱く。もともとこの猫は、家族以外の人間と触れ合うことを嫌うが、十夜に対してはそれがかなり顕著だ。
「巻き込むって、そんな大げさな」
《い・い・か・ら。前からずっと言ってたことけど、わたしは基本的に他人と関わりあいたくないし、これもあいつが越してきた当初から散々言ってるけど、その中でもアイツは飛び切り関わりたくない相手なの! もっと言うなら、顔なんて見たくもないし、すれちがうのも問題外、何があっても絶対に半径五十メートル以内には近寄りたくないわ》
小さい体に似合わぬその迫力に、慧太郎は思わず後ずさる。
「いやでもさ、いい人だよ、十夜さん。それに猫好きだって前に――」
《だまりなさい慧太郎。アイツが犬好きだか、猫好きだか、鳥好きだか鼠好きだかは生憎関係ないのよ。何故ならわたしが、アイツを、大っ嫌いなのよ》
すっぱり彼の言葉を切り捨てて、ろくな助走もつけずに軽々と塀の上に乗った白猫は、
《もしも巻き込んだら……わかってるわよね》
という一声と、蛇のソレより恐ろしい一睨みを遺し、行ってしまう。
どうやら、嘘偽りなく本気で彼女はお隣りの青年が嫌いなようだった。
「……」
だから、彼女は知らない。
慧太郎が、この日何度目ともわからなくなった溜息を洩らし、呟いたことを。
「僕は反対したんだって言っても、聞いてくれないんだろうなぁ」
今度、ほんとにトラの爪の垢もらってこようかな。
隣人と飼い猫の間で板ばさみになった少年はちらりと思う。
そうして、彼の呟きは全く持って正しかったのだ。