0.藍川六花の厄日
家族が朝から何やらそわそわとしていたのには気付いていた。
藍川家の大黒柱で一応は売れっ子の作家でもある明彦は、何時にも増してテンションが高かった。人妻でしかも二人の子持ちとは思えないほど童顔の早依は、誰かの誕生日というわけでもないのに豪勢な料理を食卓一杯に並べていた。次男坊の洸太郎に至っては、剣道着のまま篭ったトイレの中で機嫌良く鼻歌を歌っていたように思うし、長男の慧太郎は母を手伝いながら始終こちらの方に気の毒そうな目を向けて、何やら言いたそうにしていた気がする。
締め切り死守祝い…にしてはこの料理は豪華すぎないか?
いやいや所詮、また一年通して頭の中身が常夏の父上殿が、碌でもないことを考えついたのだろう、どうせわたしには無関係。何が何でも無関係。無視だ、無視、無視、無視。
そう決め込んだのがまずかったのだろう、やはり。
こちらがどれほど無視をしたところで、あちらに放って置いてくる気がなければ、逃げ果せられるはずもなかったのだということをすっかり失念していた。
だからこそ現に今、このどうしようもない状況がある。
嗚呼。
どうして、あの時長男坊の視線の意味をもっと深刻に受け止めなかったのか。
今はひたすら恨めしい、食卓に並べられている鯵のてんぷらに気を取られてさえいなければ、もう少しまともな判断も働いただろう。そうすれば、慧太郎を問い詰めてとんでもない計画が立てられていることを察知することもできたはずだ。しかし、過去に対していくら仮定を立ててみたところで、現実は変わらない。実際今から思えば、あの献立も早依の策略の一端だったのかもしれないが、今ごろ気付いたところでもう手遅れなのだ。
せめて、と思う。
せめて蛇やトカゲのような細い体であったなら、この檻状のキャリーケースから脱出することなど容易なことだったのに、と。
もしくは。人やサルほどに器用な指先を持ってさえ居たならば、出入り口の鍵を開けることも可能だったかもしれない。けれども、残念なことに自分の体には蛇独特の鱗はないし、人のように爪のない貧弱なも持っては居ないのだ。
仲間内でも対して大柄とは言えないこの体を覆うのは、自慢の真っ白な毛並みだけ。不満はないが、今この状況では何の役にも立たないことだけは確かであった。
キャリーケースを覗き込むように、合わせて五対の瞳がそれぞれの感情を浮べて、自分を見つめているのを感じつつ、彼女はそうと気付かれないように小さく深呼吸する。
今、プチ切れても状況は好転しない。
大事なのは、適当なタイミングに適当な行動を迅速に行うこと。
そう、例えばいい歳こいた酔いどれ中年親父が、「黒瀬君、どうだうちの娘は綺麗だろう、良い相手は見つかりそうかな?」親バカ的発言をしつつ、聞き捨てならない台詞を口にしようとも。
やんちゃ坊主を絵に書いたような悪戯小僧が目を輝かせながら、「ねー、お母さん。六花は、いつになったら赤ちゃん生むの?」こちらの意思どころか、物事の順序と言うものさえ無視した暴言を吐こうとも。
そうして、人の良さそうな笑顔の母親が、「そうね、早ければ来年の初めくらいかしら……?」無責任この上ない返答を次男坊に与えようとも。
全ては忍の一文字で我慢する。
先ほどから、心配そうな、というよりもあきらかに怯えたような長男坊の視線にも気付いていたが、とりあえずこれも無視した。
(あとで覚えてなさい)
気配に出したつもりはなかったのだが、どうも抑えきれていなかったらしい。無言の怒気に、最近特に勘のよろしい少年があとずさったので、あえて彼女は無意識に放ったそれを収めた。むろん、それは彼を見逃してやる気になったからではなく。
ただ単に、今現在至急に撃退すべき相手が視界の端で怯える少年ではなくて、目の前の自分と目線を合わせるように腰を落とした、この青年であったからというだけの話だ。
そうとは知らない顔で、件の青年は彼女と目が合うと眼鏡の奥の細目を更に細めて破顔する。
「こんなに近くで会うのははじめまして、ですね。僕は黒瀬十夜と申します」
上背は、日本人男性の平均とぴったり同じの明彦より軽く十cmは高く、体つきはよくよく観察してみれば鍛えられている印象を受ける。顔も冷静に観察すれば、整っているように見えなくもないだろう。
それにも関わらず、この青年の頭から足の爪先まで、どこをどう探しても威厳という文字の一欠けらも見当たらないのは、全てのプラス要素をその顔に貼り付けた薄っぺらい微笑みが台無しにしているからだ。
昼行灯。
これほど、この言葉が似合いそうな印象を与える人間はそうそういるものではないだろうと思う。
そんな評価を彼女から下されているとも露知らず、「ああ、本当だ」親父殿の親馬鹿発言を受けて、敵はケースの扉の鍵に無造作に手を掛けながら感心したように言う。へらへらとした笑みは貼り付けたままだ。
「毛並は真っ白でとても綺麗ですし」
カションと音を立て、鍵が外れる。
「紫の瞳なんてとても珍しい」
金属が擦れる音がして、憎々しい扉が開かれた。
「十夜くん。この子、ちょっと、ふくよかさんなんだけど大丈夫かしら?」
……そりゃあ野良と比べりゃ、もちろんそうでしょうとも、お母さん。衣食住、満ち足りたわたしと、毎日がサバイバルなあの方たちとを同じ基準で見ないで下さいな。のんびりとした言い方だろうとも、こんな状況下であろうとも。やはり仮にも女性の性を持つものとしては、その手の話題は聞き捨てならない。
だが内心の突っ込みは、残念ながら誰にも届くことは無かった。
「ふくよかさん…そうですか? けど、これくらいなら大丈夫ですよ。むしろ、健康的な証拠ですから」
男にしては、白くて細長い指が彼女を捕まえようと伸びてきた。
キラリとパープルアイが妖しく輝いたのを、唯一状況を正しく理解していた長男坊だけが見咎める。口を開こうとするのを一睨みで黙らせて「これだけの器量良しなら、大丈夫」彼女は信じてもいない神に感謝の祈りを捧げるために一瞬だけ天を仰いだ。
ああ神様。
どうせ生まれてくるならどうして蛇かトカゲもしくは人とか猿にしてくれなかったんだ馬鹿野郎、なんて罰当たりなことを考えてごめんなさい。あれはホンの八つ当たりみたいなものだったのです、貴方には本当に心から感謝しています。
わたしはわたしに生まれて本当に幸せですとも、ええ。
だって、ほら。
「すぐに見つかりますよ、とても素敵な雄猫が」
(猫はこんなに綺麗で素晴らしい爪を持っているんですもの)
直後、青年の悲鳴が藍川家のリビングに響き渡り。
唯一この場でこの展開を予想していた少年が、ああやっちまったとばかりに頭を抱えた。