ペット交歓
竹林の外へ出ても、景色はさして変わらなかった。
山の中である。松とか杉とか、ぶなとか笹とか、日本の山のイメージと変わらない植生だ。違うのは、前を歩くのが赤白パンダであること。
俺には首輪が付いている。ワイヤは荷物に括り付けることで合意した。
「ゴンゴン」
他のパンダの前で俺は喋れないことになっている。今はパンダっ子一人いない山の中。
「何?」
「次休憩するまでどのくらいかかる?」
「この斜面を上り切るまで、無理だな」
俺とゴンゴンは、道なき道を登っていた。
ハコ村を出る時、俺を連れているところを見られない方が良い、と母パンダの意見による。
慣れない皮靴で山登りをしていると、息子のためよりも、むしろ自分達を守るためのような気がしてくる。
「上まで登ったら、オサカがどっちかわかるよ」
「そうか?」
ゴンゴンは、カラパン王のいるオサカまで行って、自分の才能ででかいことをすれば、世界を変えられる、という実に大雑把な計画を立てていた。
こうして旅立てたのは、ハコに留まるよりも生き延びる確率が高い、という橙白パンダのランランの考えからだ。
本人以外、誰も彼の計画が成功すると思っていない。この先が不安だ。
「着いた」
「え、もう?」
確かに坂を登り切っていた。しかしそこは頂上ではなく、まだ先に上り斜面が続いていた。
「休む?」
「まだ歩ける」
「無理するなよ」
早くも座って、その辺の笹を引っ張り口へ入れる赤白パンダ。
休憩が多いせいで、ちっとも進まない。俺を気遣っているようでいて、自分が食べたいだけに見える。
その辺の笹でも食糧になるのは、食べない俺にも有り難かった。この調子で荷の食糧を消費されたら、明日には飢え死にする。
俺は、持参した人参を少し齧る。動物性タンパク質が欲しい。あと水も。
生水は避けたいと念じていたが、それ以前に川を見ていない。登っている以上、この先も当分出会えまい。
「じゃあ、行こう」
「うん」
やがて尾根伝いに頂上まで到達した。昔、誰かが綺麗に伐採したようで、今でも他の場所よりは拓けている。
ゴンゴンが、両手を使って二箇所指し示した。予想と違った形の海岸線と、青く霞んだなだらかな地形の中に、鉢を伏せた独特の形状をした隆起。
「オサカは、あっちの方。あの山より先だね」
「富士山」
「ああそうそう。フジって名前だった。王が名付けた」
腰が抜けた。
何故か、半分くらいの高さになっている。上半分だけでも、一目で分かった。強烈な郷愁と絶望。
ゴンゴンは、座って笹を食べている。放って置かれて有り難かった。しばらく富士山を眺めているうちに、どうにか落ち着きを取り戻した。
「全員、同じ世界から湧いてくるのか?」
「人間? 知らないなあ。お前が初めてだもの」
ゲップをしながら、なおも食べ続けるゴンゴン。
「王の支えは、俺と同じ世界から来たと思う」
あの山をフジと名付けた人間だ。日本人でなくとも、日本を知っている。
「へえ〜。そいつはいいな。コネで王と会えるかも」
相変わらず考えが甘い。言い換えればスーパーポジティヴ。本音を言えば俺も、王じゃなくて、王の支えの方に会ってみたい。
「さて、立てるかソウ」
腰が抜けたことには気付いていたようだ。意外だ。俺は足に力を入れてみた。立てた。
「出発だ」
「うん」
山を降りる途中で谷川を見つけ、水を補給できた。サワガニもゲットした。
ゴンゴンは火打ちセットも持っていて、焚き火もできた。母パンダが持たせてくれたのだ。
「よく、そんな気持ち悪い生き物を食べるね」
途中見かけた竹を齧りながら、ゴンゴンが言う。人が食べるのを見るのは、気にならないようで助かった。
食べることを禁じられたら、栄養不足で死ぬ。
「魚を獲れないから、仕方がないだろ」
今日見た限りでは、小魚しか住んでいない。目の詰まった網とか、道具があれば、とつくづく思う。
初めて食べたサワガニは、美味しすぎて一瞬で終わった。もっと食べたい。
俺の体は、タンパク質を欲している。炭水化物はゴンゴンがじゃがいもを焼いてくれて、補給できた。
塩も欲しいな。
「岩塩ないかな」
「ないな」
笹さえあれば腹が満たせるゴンゴンには、切迫感がない。別の生き物同士、何が命に関わるか、理解できないのは仕方ない。早く街へ降りたい。
「おお、見えてきたぞ。あれが街だな。凄いや」
「ゴンゴン、街へ出るの初めてか?」
「うん。楽しみ」
大丈夫か、この赤白パンダ? 俺の心に渦巻く不安。
緑の木々をすかして見えるそれは、確かに規模が大きく、統制された秩序のある居住地だった。ゴンゴンのいう通り、街、だろう。
足元を蛇がすり抜けようとしたので、踏み殺した。タンパク質、そして皮。前の日本にいたなら、絶対考えなかった選択肢。
街は、石と土でできていた。窓や戸口は木や竹だ。時代劇で見る江戸時代の城下町が、近いイメージだ。
道路は剥き出しの土を、平らにならしてある。通りに面した店が、時折水を打っている。十分な水があるのだ。
よく見れば、道の両脇に排水溝っぽい水路まである。意外と文明的。洞窟だったゴンゴンの住まいを、標準と思い込んでいた。
「はあ〜。凄いな」
お上りさんよろしく左右に首を振りながら、のろのろ歩くゴンゴン。俺としては、早くどこかの建物へ入りたい。
絶え間なく嫌悪の視線を浴び、距離が近いとあからさまに避けられる。
その上、今は喋れない。道を行き交うのは、人ならぬパンダばかりだ。目立つ。
「なあ、ソウ。どうせなら美味い飯、食いたいな」
設定を忘れているのか、俺に話しかける。無視するしかない。せめて目で訴える。
店には名前と絵がセットになった看板が掲げられ、字が読めなくとも、何となくわかる。
「あ、そうだ。まず金作るんだった。どこへ行けばいいんだっけ?」
この世界にも貨幣制度がある。厳しい母パンダは、息子に現金を持たせなかったのだ。家に余分な現金がなかったのかもしれないが。
「金を作ることもできないんじゃ、この先、生きていけないね」
仰る通り。ゴンゴンは貨幣を見たことがあると言う。使ったことないのか。
齢二十五にして、初めてのお使いとなるか。
「え〜と。ここかな?」
看板には、物と金を交換して喜ぶパンダの絵。買取屋、とある。字なしでは理解不能だった。
ゴンゴンが字を読めるか、まだ聞いていない。
「へい、いらっしゃい。あ、ペットは外に繋いでください。そこの壁から出ている輪っか。お客さん、その人間暴れませんよね?」
早速人間的扱いを受けた。人間をペットで飼うパンダが、他にもいるようだ。
「ちゃんと躾けてあるから大丈夫」
どの口が言っているんだお前的台詞を吐いて、店内へ消えるゴンゴン。もちろん訂正はできない。
店の中を覗くにはワイヤが短すぎて、諦めた。代わりに通りを眺める。
パンダには色々な色がある。ゴンゴンと同じ赤白もいた。お馴染みの黒白だけがいない。多少の大小はあっても、形は皆同じだ。色以外には、雌雄の区別もつかない。
「ゔゔっ! がうっ! ぐおっ!」
初めて聞く唸り声に目をやると、人間が、いた。
伸び放題の髪が、皮脂と汚れで塊となって、顔の周りに跳ねていた。アジア系の女だ。
前の世界にいた人間より毛深い。脇毛や股毛はともかく、腕毛やすね毛も産毛でなくしっかり生えている。
で、全裸だった。乳丸出し。ここには剛毛が生えていない。身につけているのは、鎖付きの首輪だけ。エロくも何ともない。
絶対お友達にはなれないタイプだ。一目で理解した。
「あっ。お友達だねえ」
じゃらじゃらと鎖を鳴らしながら近寄る紫白パンダ。
うわ、危ない近付くな、と思っても、喋る訳にいかない。目線を避けつつ、壁に張り付く。荷物を背負ったままで、ほとんど下がれない。
「ぐうあっ! ぐうあっ!」
「そうかそうか、仲良くなりたいんだね。オスかな? オスだったら、いいねえ」
俺は総毛だった。やばい。殺される。色んな意味で。
じゃらじゃらじゃら。ぐうあっ、ぐうあっ。噎せるような獣の臭い。
何てこった。体臭が、パンダより獣っぽい。
「ゴッ」
助けを求めて出かかる言葉を飲み込む。目前に迫るこいつが人間の標準なら、俺は絶対に喋ってはいけない。
ああ、俺の貞操が、危機に瀕している。
「がうっ! ぐうあっ!」
女は涎を垂らしながら叫ぶ。
こちらへ伸ばす手の先は、付け爪みたいに伸びて尖っている。
ナイフを両手に十本持ったようなものだ。ペットなら、責任を持って手入れして欲しい。この世界には、ペットサロンとか、動物病院とか、ないのか?
もう、蹴ってもいいか。殴れば、間合いの関係で俺も傷を負う。感染の危険は避けたい。
「あ、待って」
放った蹴りは、勢いを失って爪の先をかすった。しかし、それで十分だった。
「ふうううん、ふうううん」
爪から伝わった衝撃で、腕からバランスを崩した女は、倒れこそしないが、一気に戦意を失った。
いや、失ったのは性欲か。
くるりと向きを変え、紫白パンダへ擦り寄る。
「おっとっと。気が合わなかったか。残念だったねえ」
飼い主はさりげなく女から距離を取った。頭を撫でたりしないのか。相手が人間だからしないのか。
まだまだわからないことだらけである。
「オスですか?」
とここで、初めてゴンゴンへ話しかけた。俺が蹴ろうとした瞬間に、店から出てきて戦いを止めたのだった。