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彩先輩と約束の通学路

作者: コバヤシ0729

 四月六日、水曜日。今日から僕も高校生だ。

 少し大きめのブレザーに袖を通すと、なんだかコスプレでもしているかのような、ちょっと気恥ずかしい気持ちになる。

 ハンカチとティッシュも、昨日のうちからポケットに入れてある。

 やっぱり、初日が肝心だ。

 遅刻とかして目立つと恥ずかしいし。でも、あまり早く行きすぎても……と、家を出たところで僕は驚きのあまり、慌ててドアを閉じて玄関に戻ってしまった。

 え? なんで……?

 そっとドアを開けて、隙間から覗き見る。

 いる。

 制服姿の彼女が、そこに立っていた。

 黒髪ロングで、透き通るような白い肌。整った顔立ちは、僕は見慣れているけれど、大抵の人はすれ違いざまに振り返るレベルだと思う。

 直立不動でまっすぐに背筋を伸ばし、手には赤い斑点模様の付いた淡い青色のカバーがかかった文庫本を手にしていた。これを読みながら、僕を待っていたようだ。

 でも、なぜ? どうして?

 頭のなかを、ぐるぐるとそんな疑問がめぐる。

 けれど、答えなんて出るわけもなく、登校の時間は迫っていく。

 僕は意を決して扉を開いた。

「おはよう、海翔君」

 いたって普通の、なんでもないことのような、しかしその涼やかな声に、僕は息を飲む。

「……お、おはよう。彩姉」

「今日から彩先輩、よ」

 そっと本を閉じた彩姉が、じっと見つめている。

 その黒く大きな瞳に、僕は昔から逆らえたことがない。

「彩、先輩」

「よろしい」

 溝呂木彩みぞろぎ あや。僕の隣の家に住む、ふたつ上のお姉さんだ。

 最初に会ったのはいつだっただろう。

 僕の家がここに引っ越してきてすぐだから、もう十年ぐらい経つだろうか。

「待っててくれたの?」

「海翔君が遅刻しないようにね。一緒に行くって、約束したでしょ」

「そういえば……でも、もう子供じゃないんだから」

「高校の門をくぐるまでは、まだ高校生ではないでしょう? 入学式もまだなんだから」

「んー、書類上はもう高校生じゃないかな」

 なんでもないやりとりだけれど、僕は昔から、彩姉と話すのが好きだった。

 お姉さんぶってちょっとめんどくさいな、と思うこともなかったわけじゃない。

 でも、それも僕を心配してというのはわかっているし、そこまで押しつけてくるわけでもない。

 何より僕は、彩姉の声が好きだ。

 だから、少しでも会話を延ばそう、この時間を楽しもうとしてしまう。

 そして真面目な彩姉は、いつも僕につきあってくれるのだった。

 学校に向かって並んで歩き出した僕たちは、そんないつもの距離感で話し続けた。

「いつからが本当の高校生か。確かに難しい問題ね」

「でしょ。入学式を終えても、今日は授業もないし。高校の勉強を何もしてないのに高校生って名乗るのは、なんだかね」

「でも……その制服を着ている人を見たら、大抵の人はああ、第3高校の生徒だな、と認識する。例えば昨日海翔君が浮かれてその制服を着て出歩いていたとして、それを見かけたキミを知らない人は普通に高校生だと思い込む」

「なんだか難しい話になってきたけど、僕はそんなことしてないし、この制服姿を見られたのは父さんと母さん以外では、彩姉が初めてだよ」

「彩先輩」

「あ、はい。彩先輩」

「それでご両親は、何も言わなかったの?」

 急に、彩姉が歩みを止めたので僕もそれにならう。

 すると僕の視界がその整った顔で塞がれて、ふわりといい香りがした。

「な……」

「ネクタイ、曲がってる」

「……っ」

 首元に伸びてきたその白い指先よりも、見下ろすような形になってしまったことで、僕は彩姉のうなじや胸元から目を逸らそうと必死だった。

 見たくないわけじゃない。いや、むしろ見たい。

 でも、彩姉はそれもわかっていて、あとで絶対そこを突いてくる。

 だから彩姉に弱みを見せるわけにはいかないのだ。

「制服を着てから鏡を見るくせをつけた方がいいわ。いつも言っているでしょ、何かを始めるときは、初日が肝心だって」

「……ありがとう」

「一応聞いておくけど、忘れ物はない?」

「大丈夫。ハンカチもティッシュも、昨日のうちからポケットに入れてある」

「明日も明後日も、同じハンカチが入れっぱなしなのはやめておきなさいね」

「使ってなくても?」

「使ってなくても、よ」

 彩姉はいつだって僕に厳しい。

 きっと、出来の悪い弟ぐらいに思ってるに違いない。

「わかったよ。彩姉がそう言うなら」

「彩先輩」

「はいはい。彩先輩」

「『はい』は一度。それ以上は納得していない、もしくは相手を馬鹿にしているととられかねないわ」

「……はい。あのさ、ひとつ聞いていい?」

「ひとつでも、ふたつでも」

「彩姉――彩先輩は、学校、楽しかった?」

 僕の問いかけに、彩姉はその細い人差し指をあごにあてるようにして少し考えて言った。

「楽しいか、楽しくないか。それで言うなら、楽しもうとしていた、かしら。どうしたの、学校、不安?」

「そうじゃない、って言ったら嘘になるかな。ほら、僕、結構人見知りだからさ」

「本当の人見知りの人間は、あまり自分ではそう言わないことおもうけど」

「彩先輩以外には、こんなこと言わないよ」

「……同じ中学から通う友達もいるでしょう?」

「それはそうなんだけど……高校でも、こうして何かあったら彩先輩と話せたらいいのになってさ」

 言葉にし過ぎたかな、と思った。

 僕は彩姉のことはよくわかっているつもりだし、その逆もまたそうだ。

 お互いにあまり深く踏み込みすぎないのが、僕らの関係を続けるコツだった。

「私が前に約束したのは……海翔君と一緒に学校に行く、までよ」

「そうか。そうだったね」

「ええ。そこまで」


 しばらく無言で僕らは歩き続けた。

 そしてさびれた商店街を抜けて、あと学校まで5分のほどのところで、僕は一度足を止めた。

「彩先輩、こっちから行こう」

「……どうして」

「近道だから。google mapもそう言ってる」

「二年通った私より、アプリを信じるのね」

「僕は初めてだからね。明日は彩先輩の言う道で行ってみるよ」

「わかったわ」

 意外と素直に、彩姉は僕の言葉に従ってくれた。

「気付いてた?」

「何に?」

「僕ら、家を出てから誰にもすれ違ってない。こんな商店街のなかを歩いているのに。それに、通学路なんだから他にも同じ学校の生徒がいるはずなんだ」

「信号が全部青の確率みたいなものね」

「それで済ませるには、ちょっと無理がある」

「そうかしら」

「そうだよ。でも、何がきっかけだったのか、何でこうなったのかはわからないけど……僕は感謝してるよ」

 また言い過ぎた。

 そんな僕の言葉に、彩姉は困ったような、でも喜んでいるような、そんな表情を浮かべつつ顔を逸らした。

「…………」

「学校に着かなければいいのに」

「ダメよ。言ったでしょ、私は海翔君が遅刻しないように来たんだから」

「そっか。でも……なら、遅刻しないギリギリで行こうかな」

「5分前行動」

「厳しすぎるよ、彩先輩は。他人にも、自分にも」

「ルールでなくても、社会のマナーを守ることでみんなが生きやすくなると思う」

「いきなり正論で殴らないで」

「正しいことを正しく言って拒絶されるなら、それは私が悪いのかしら」

「彩先輩……学校で浮いてなかった? 風紀委員だっけ? 他の人からめんどくさいとか思われたり……」

「…………」

「ごめん」

「いい。その通りだったと思うから。海翔君は気をつけてね」

「……いや、僕も風紀委員やろうと思って」

「え」

「ダメかな」

「ダメってことはないけど……でも、それは」

「うん。彩先輩――彩姉のこと、忘れたくないから」

 かなり困った顔をして、彩姉は絞り出すように言った。

「…………じゃあ、ダメ」

「どうして」

「それは呪いになってしまう」

「ならないよ。ただ、僕が彩姉を覚えていたいってだけなんだから」

「…………」

「彩姉だって、覚えていてくれたじゃないか僕との約束」

「そう……そうだね」

「どうせなら、もっと違う約束をしておけばよかったよ」

「……例えば?」

「月並みだけど、ずっと一緒にいよう、とか」

「バカね、それじゃプロポーズじゃない」

「僕はそのつもりだったよ」

「…………」

 今日は彩姉を困らせてばかりだ。でも、仕方ない。

 僕にだって、そんな日もある。

「なんかごめん」

「大丈夫……嬉しい。でも、私こそごめんね」

「ほら、困らせた」

「…………」

 本当は、こんな話をしている場合じゃない気もする。

 それもわかっているけれど、僕には他の手段が思いつかなかった。

「ああ、もうその門をくぐったら学校に着いてしまう」

「ほら、行って。遅刻しちゃう」

 彩姉は、門の前で立ち止まっていた。

 その笑顔は作り物だ。

 そのぐらい、僕にはお見通しだ。もちろん、それも彩姉自身もわかっているだろう。

 だから、ずるいんだ。彩姉は

「私はここから先には行けないから」

「……また、会えるかな」

「…………」

 肝心な所は黙ってしまうんだから。ずるい。

 だから、仕方ない。

「いってきます、彩姉」

「いってらっしゃい、海翔君」


 校門をくぐると、突然、辺りが喧噪に包まれた。

 初めての登校に、少し緊張しつつ、目を輝かせている人たち。

 そして、そんな新入生を面白そうに見ている先輩たち。

 けれどそのなかに、彩姉の姿はない。

 今からちょうど一年前、彩姉は通学途中の事故で亡くなってしまった。

 車線をはみ出して飛び出してきた車から、目の前を歩いていた小学生を庇った結果だったらしい。

 来年からまた同じ学校だね、と笑っていたのに。

 遅刻しないように、一緒に通おうねと約束していたのに。

 僕に残されたのは、そう言って笑っていた彼女の記憶。

そして、事故の時に手にしていたという淡い青色のカバーのかけられた文庫本だけだった。

 

 まずは、彩姉との約束を僕が守ろう。

忘れ物をしないこと。ネクタイはまっすぐにして、鏡で確認すること。

 そして、遅刻しないこと。

 彩姉は約束はひとつだなんて言ってたけど、そんなことはない。

 教えなかったけれど、僕もずるいんだ。

僕と彩姉は、本当はもっとたくさんの約束をしていた。

 だから、きっとまた――。



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