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黄色い家

作者: 冴木凜子

 あの黄色い家、見えるかい? あれがうちなんだよ。


 眺めの良い二階の掃出(はきだ)し窓から指を差して、ハルさんは言う。

 白みがかった黄色い家は、ハルさんでなくても帰りたくなる、美しい家だ。


「帰らなくっちゃ」と言い出すハルさんを、私は引き留める。


「お伴しますから、私が準備するまで待って下さい」

「外は寒いですから、やめときましょう」

「もう遅いですから暗くて危ないですよ。明日にしましょう」


 掛ける言葉は、その時々で使い分ける。


◇ ◇ ◇


 私の働くグループホームは入居者に自分の事は自分でしてもらう決まりで運営する。だが、ほとんど期待できない。昼は2人、夜は1人の職員が勤める。職員は9人分の家事に追われている。

 

 ハルさんはいつも白い前掛けをしている。

 マッシュルームカットの白髪頭で、背筋がぴんと伸びている。


 ハルさんは魚を(さば)くのや、野菜の皮を()くのや、洗濯物を干すのを手伝ってくれる。でも、人参1本の皮を剥いたところで「こんなにやらして」と、ハルさんは包丁をまな板に放って自室に行ってしまう。すぐにハルさんは戻ってきて「何したらいい?」と、私に詰め寄ってくる。私は2本目の人参を渡して皮剥きを頼む。

 そんなやりとりを繰り返すのが日常。

 正直、私はハルさんが椅子に座って大人しくしていてくれる方が、有難い。他の入居者の対応に追われているなど忙しいときは特にだ。


 きっと、ハルさんは認知症になる前、休みなく家の事をこなす働き者だったのだろう。


◇ ◇ ◇


 ハルさんが困った顔で頬に手を当てて、窓の外を見ている。


「父ちゃんが帰ってくるから、夕飯の支度をしないといけないんだよ」

 父ちゃんが時に息子だったりする。


「雨が降りそうですから、ここにいてください」


 私の声掛けを、ハルさんは聞き入れてくれる。だが、たまに、ハルさんが風呂敷で包んだ荷物を持って、派手な黄色の帽子を被って部屋から出てくるときがある。そうなると、私は階段の手前にある扉に立って、ハルさんが出て行くのを阻む。

 鍵を締めないのが、施設の規則だ。施設は万が一、入居者が脱走して事故に遭っても、責任を問わないと、家族から了承を得ている。

 調理に気を取られていて気付いたら、ハルさんが風呂敷包みを持って階段前の扉に手を掛けていた。私は駆け寄る。


「ハルさん、どこに行くんですか?」

「父ちゃんが待っているから、帰るんだよ」


 私とハルさんが押し問答をしているところを、入居者のトメさんが上半身を左右に揺らしながら通り過ぎた。トメさんはにたにた笑いながらハルさんの頭を指差す。


「なんだい、その派手な帽子は、おかしいね。全然、似合っていないよ」

「なんだい、あの婆さんは。白髪頭で、腰が曲がって」

 

 応戦するハルさんの白髪も負けていない。


「由紀子もそう思うだろ?」

「そんな事言ったら、聞こえてしまうわ」


 女学生に戻るハルさんに合わせて、私は瞬時に妹役を演じる。

 ハルさんの帰るモードは消えていた。


「夕飯が出来たようよ。食べましょう」


 ハルさんを、私はダイニングテーブルに促した。

 きっと、トメさんは助け舟を出してくれたのだろう。


◇ ◇ ◇


 ハルさんは、共にグループホームに暮らす入居者の家族が見舞いに来ると、率先して茶を用意して盆に乗せて運んでくれる。

 けれども、時々、茶を出して、ハルさんは自室に引きこもる。

 自分は3年前に入居して以来、1度も誰も訪ねて来てくれないからだろう。

 職員が30分に1度、ハルさんの部屋の扉をノックして、会いに来ない家族の代わりに気に掛けてやらないと、ハルさんのへそはどんどん曲がってしまう。ハルさんを食事や入浴に促すのに、職員はてこずってしまう。


「夕飯、鯖の味噌煮なので、捌くの、お願いしていいですか?」

「仕方ないね。いつか嫁にいくんだろう? 魚くらい捌けないといけないよ」


 2、3回目の声掛けで、ハルさんは扉から出てくる。

 漁師町で生まれ育ったハルさん、魚捌きはお手のもの。なにしろ包丁の持ち方が違う。鱗を取るのも、三枚に下ろすのも、手早い。

 私は台所に並んで立って、ハルさんの包丁捌きを見守る。

 ハルさんは故郷である伊豆の稲取(いなとり)の話をよくする。

 若い頃の記憶の方が鮮明なのだろう。


「魚がたくさん獲れてね。都のは比べると腐っている。あんたに食べさせてやりたいよ」

「いいですね」

「学校帰りに海潜って、カニ獲って。海水場でないから人がいなくて綺麗だよ。あんたを連れて行ってやりたいよ」

「今度、行きましょう」

「でも、遠いから、無理なんだ」


 本当は家に帰れないことを、ハルさんはわかっているのか。


◇ ◇ ◇


 険しい顔で、ハルさんが真っ暗な窓辺に立っていた。


「だから、こんな日は海に出ちゃだめだって言ったんだよ。時化(しけ)ているだろ? 嵐の前触れだ。風が生温かくて、鳥だって飛んでない。あの人は馬鹿だから船を出すってきかなくて、それっきり、帰って来なかったんだ」

「こんな日は、早く寝ましょう」


 私はハルさんに合わせて不穏な声を出し、ハルさんを部屋に促した。

 ハルさんの夫は漁師だったと、所長から聞いている。

 歯磨きを促し、寝支度を手伝うと、殊勝(しゅしょう)なハルさんがお目見えする。


「すまないね。偉いね。良い嫁さんになるよ」


 ハルさんは私を褒め続けてくれる。


◇ ◇ ◇


「あんたに頼みがあるんだよ」


 廊下の死角になったところで、ハルさんが私に近寄ってきた。私の耳に唇を近付けくる。


「これを、洗って欲しいんだ」


 ハルさんは背中に隠したものを差し出した。ベージュ色の下着。

 ハルさんは辺りに誰もいないのを(うかが)う。


「今朝ね、失敗しちゃったんだよ」

「いいですよ。一緒に洗いましょう」


 洗い場まで、私はハルさんの手を引いた。

 私は桶に水を入れて、ハルさんの汚れた下着を浸した。塩素系漂白剤と洗濯洗剤を注ぎ入れる。

 ハルさんは腕まくりして、ゴム手袋をつける。


「歳は取りたくないね。いやだね」


 ハルさんはぶつぶつと嘆きながら、下着を揉み洗いする。


「私も手伝おうか」

 

 背中越しに、トメさんが声を掛けてきた。こんなときに限って、トメさんは目敏い。意地悪を言いかねないと思って、私は手伝いを断った。洗い場から離すため、私はトメさんに別の用事を頼んだ。


「気にすることないよ。息子のもこうしてよく洗ってやったよ」


 ハルさんの中で、私がお漏らしをした子供になっていた。

 私はハルさんの横でしょんぼりしてみせた。

 私はしばらく実家のある青森に帰れていなかった。職員は9人の高齢者と生活を共にしているといっていい。長期の休みを取るのは難しい。美容院を営む両親も忙しくて、こっちに来られない。

 私はハルさんに甘えることにした。まるで母と娘のような気分だった。


◇ ◇ ◇


 きいさんが風呂に入っている間に、私は部屋に入り箪笥の整理をしていた。戻って来る前に済ましたかったが、早くに戻って来たきいさんに見つかってしまった。


「あんた、私の財布、盗っていたんでしょ」

「洗濯物を届けに入っただけです」

「なら、なんで箪笥を開けているんだ。畳の上に置いておけばいいだろ?」

「しまっていたんです」


 他の入居者たちがきいさんの部屋に集まり出した。

 皆が不穏な様子で見守っている。


「この子は、やっていないよ!」


 ハルさんが、きいさんに詰め寄られる私の前に立ちはだかった。

 ハルさんはいつも根拠がないのに、私の味方をしてくれて(かば)ってくれる。ややこしくなるから引っ込んでいて欲しいのが本音だが、心強いのは確かだ。


「嘘、おっしゃい!」

箪笥(たんす)の中の、汚れた下着を片付けようとしたんです」


 良いとこのご婦人のきいさんは風呂を1人で入る程、羞恥心が強い。彼女は尿を漏らすと汚れた下着を箪笥に隠してしまう。そのことを彼女の耳元で(ささや)くと、彼女が引き下がってくれるのを私は知っていた。


「もういいから! 部屋から皆、出て行っておくれ!」

「大丈夫かい? ひどいばばあだね」


 部屋を出ようとしたところで、ハルさんが慰めてくれる。


「しー!」


 穏便に済ませ時なんだから。私は一早く、ハルさんをきいさんの部屋から遠ざけた。


◇ ◇ ◇


 私は勤務を終えて帰ろうとしていた。

 階段の扉前で、私はハルさんに見つかった。


「自分だけ、帰るのかい? あの黄色い家かい?」 

「いえ」

「すぐに戻って来るのかい?」

「食材の買い出しに行くだけですから」

「私も連れて行っておくれよ」

「大したものでないですから、待っていて下さい」

「そうかい」


 寂しそうに、ハルさんは俯く。

 信じてくれたようで、ハルさんは顔を上げた。


「待っているからね」


 ハルさんは私の目をまっすぐ見つめる。

 明日、また来ます。

 私は心の声で、そう言い返して施設を後にする。

 夜空を見上げると、曇っているのか、星が見えない。

 ごめんね、ハルさん。

 家族が会いに来たら、ハルさんはどんなにか喜ぶだろうと思う。

 私も、ハルさんの家族が会いに来てくれることを待ち望んでいる。


◇ ◇ ◇


「和夫が来るのよ、今日」

 

 ハルさんはリビングルームに集う皆にうきうきとした調子で言った。和夫は息子のようだ。


「良かったですね」


 私は同意する。そんな連絡は受けていない。

 

 昼過ぎに、トメさんの息子が訪ねて来た。トメさんは毎週末、家族が会いに来る。

 息子は「おやつに皆で食べてください」と手土産の紙袋を、私に手渡した。

 ハルさんが茶を入れて、トメさんと息子に出した。


「うちの子、早く帰って来なさいって言ったのに、まだなのよ」


 トメさんの息子に、ハルさんが話し掛ける。


「これはうちの息子だよ」


 トメさんがハルさんを「しっしっ」と追い払う。

 ハルさんはかっとなって、湯呑みの茶を盆に乗せ戻した。流しの台に盆ごと放る。

 ハルさんは自分の部屋に行ってしまった。

 私は少ししてから様子を見に行こうと思っていた。


 1階で高齢者を預かるディサービスの職員が、階段を上がって来て、扉を開けた。


「ハルさんが、出て行っちゃう気よ」


 聞けば、ハルさんは既に階段を下りて、玄関を出て行ってしまったようだ。トメさんに追い払われたのが余程、悔しかったのだろう。

 私は慌てて階段を下りて、玄関を出た。門扉の前で、ハルさんを呼び止める。


「こんな所にいられないよ。父ちゃんが待っているからね。帰らせてもらうよ」

「息子さんからお電話ですよ。戻りましょう」

「そんなのいいんだ。直接、会いに行くから」

「黄色い帽子、お忘れですよ」

「いいんだ、そんなの」


 使い古された台詞が通用しない。

 ハルさんが黄色い家を懐かしそうに指差すときと、勢いが違う。


「待って下さい。お父さんに、今日は泊まるように言われているんです」

「え? 本当かい?」

「本当ですよ。さっき、電話で、よろしくお願いしますと言われたんです」

「電話が掛かって来たのかい? なんで、出してくれなかったんだよ」

「すぐに切れてしまったから」


 ハルさんがスライド式の門扉を開けようと、引っ張る。

 私は言ってはいけないと思ったが、口にしていた。


「こんな日は、行ってはいけないんですよね? 帰って来られなくなりますよ」

「そうだ。父ちゃんが帰って来なかった日とおんなじだ。喧嘩してでも止めたのに、父ちゃんはきかなかったんだ」


 はっとした顔付きのハルさん。

 私はハルさんの肩を抱いた。


「今度、お送りしますから」


 ハルさんの肩は、がっくりと落ちていた。


 ハルさんを引き留めるのにハルさんが家族に会いたいのを知っているから、私は家族のことをネタに使うことが多い。ハルさんが会いたいのに会いえないことがわかっていて、嘘を吐くのは心苦しい。

 でも、事故に遭うよりましだ。それに、ハルさんはすぐに忘れてしまうからいい。

 私は自分にそう言い聞かせている。


◇ ◇ ◇


 きいさんの具合が悪くて、職員たちはかかりきりだった。

 彼女は家族に無理矢理、入居させられたと思っている。食事をあまり食べなくて、部屋に閉じこもっていることが多い。きいさんの熱を測ると、38度。脱水症状で、熱中症のような状態なのだろう。

 私はきいさんに水分を摂るように促したり、栄養ゼリーを食べるように介助したりした。

 私は救急車を呼んで入院させた方がいいと、所長と話し合う。


「何したらいい?」

「座っていて下さい」

 

 私が言って、ハルさんを椅子に座らせても、1分ももたない。


「私を馬鹿にして。なんにもさせてくれないなんて。こんなところにいられないよ」

 

 ハルさんが眉間と瞼に皺を寄せた、いじけた顔で睨んでくる。

 トメさんが、テーブルを指で小突いた。


「あんたに帰る家なんてないよ。ここが、あんたの家なの。一生、ここにいるの」

「ひどい婆さんだよ」


 トメさんとハルさんが睨み合う。

 このときばかりはトメさんの言う通りと、私は言いたくなった。いい加減にしてほしい。私たち職員が家族みたいなものじゃないですかと、言いたかった。


「あんたはここに住んでいるの。行くとこなんかないんだよ」


 苛立ったように言い放つトメさんを、私は止めなかった。

 ベテランの職員が、ハルさんを引き離した。

 ベテラン職員が私を手招いた。


「ハルさん、苦労人なのよ。妹に連れられて、ここに来たのよ。その妹さんが言っていたの。姉さんは、漁師をしていた夫を海で亡くして、1人で息子を育て上げたんだって。その息子も今でいう過労死で亡くして、それからずっと1人で生きてきたんだって。妹さんはそれっきり、1回も来てないのよ。自分の家族の介護で忙しいようなことを言っていたわ。ハルさん、アルバムを見せてよ」

 ベテラン職員はハルさんを構うことにしたのだろう。ハルさんを促して、彼女は部屋まで付いて行く。私も追った。

 ハルさんは部屋に入り、張り切って、押入れから大型のアルバムを取り出した。

 何枚かめくると、ハルさんと息子らしき青年のツーショット写真が貼られていた。

 入社時だろうか、新調のスーツを着て緊張した面持ちの青年の後ろで、50代だろうハルさんが胸を張り誇らし気に立っていた。

 

 青年が被るヘルメットは目に鮮やかな黄色。

 ハルさんの帽子と同じ色。

 

 ハルさんがアルバムを押入れに戻した。ハルさんの部屋はいつも綺麗に整っている。

 満足した顔付きで、ハルさんは部屋を出て行った。

 

 夫と息子を思って、彼らのために生きて、それが2人ともに先立たれてしまった気持ちは、どんなだろう。

 

 すっかり機嫌が直ったハルさんが、窓辺に立って首を伸ばして黄色い家を眺めている。

 

 私たち職員が最期まで看取らせて下さい。

 

 私は心の声でハルさんの背中に、語り掛けた。


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