要介護2ですから。
「敬子さーん、今日はとてもいいお天気ですね。朝ごはんはたくさん食べましたか」
白い丸餅のような肌とまあるい輪郭、人懐っこい垂れた目、少し高音の透き通った声、にこにこしながら私に問いかけるこの女性が息子の嫁だったらどんなに良かっただろうか。
敬子はケアマネージャーの直子さんと会うたびにそう思う。でも、現実の嫁はかなりかけ離れていた。
三十年前に息子が家に連れてきた娘は、汚いスニーカーに着古したトレーナーと膝が擦り切れたズボンを穿いていた。人の身なりをとやかく言うのは失礼なことだとはわかっている。が、しかし、この娘はこれから嫁ぐかもしれないという家に挨拶に来たのだ。それなのにその格好はおかしくないか。しかも、脱いだ靴を揃えるなんて芸当は知らないらしく、ドサっと汚い袋を廊下に置き家に上がり込んだ。敬子は目を疑った靴下に穴が空いていたからだ。今時、男の子でも靴下に穴が空いている子は珍しい。それなのに息子が連れて来た娘は、靴下からはみ出している親指を隠そうともせずに、「私なんで今日ここに来てしまったんやろう」とおかしな独り言をブツブツ唱えながら私の前に立ちはだかった。
小さい女だ。敬子は身長が百五十センチしかなく、もっとスラリとした体型に生まれたかったと思っていた。今、目の前にいるこの女とまったく目線が同じなのだ。
「あら、私と一緒くらい?小さいわね」
「一緒にしないでください。そんなちんちくりんと違いますわ。百五十センチ以上ありますから。まっ、いいか。こんにちは、雅子です」と、笑った。
出っ歯の隙間から唾が飛び出した。その唾液がまともに敬子の目に入り、敬子はうつむき顔を撫でた。目を洗浄したいが、その行動を吹き飛ばす息子の一言が飛んできた。
「あれ、お母さん泣いているの?僕がこんなにかわいい子を連れてきたから」
息子をバカに育ててしまったのか。いやそんなはずはないと信じたい。手塩にかけて優しい子に育つようにと大切に育てた息子だ。今のはただの軽口だ。照れ隠しに違いない。
が、息子が出っ歯の手を握り、「疲れているのに今日は、家に来てくれてありがとう」と言っている姿を見て、敬子は嫌な予感がした。気の使い方が気持ち悪いのだ。それにこの出っ歯は自己紹介の時に「一緒にしないでください。そんなちんちくりんと違いますわ」などと抜かしていたではないか。初対面でしかも彼氏の母親にそんな口をきくか。言葉の使い方を知らないのだ。
息子はこんなアホと結婚するとか言い出すのではないだろうね。敬子はモヤモヤした気持ちを消すことができなかった。嫌な予感がぐんぐんと身体中を駆け巡った。やがて予感は悪寒に変わり、敬子の苦い姑時代へと突入したのだ。
「あっ、お義母さん、洗い物をしてるんやったらついでにこの弁当箱と水筒もお願いします」
敬子は流しの後ろで出っ歯を見せながら作り笑いを見せる息子の嫁を見てうんざりした。作り笑いをすると出っ歯どころか歯茎も丸見えでとても怖い。しかも、歯茎はドス黒いのだ。まっ、顔のことは本人の責任でもないから仕方がないとしよう。しかし、姑が洗い物をしていたら、普通の嫁なら嫌でもとりあえずは「洗い物代わりましょうか」だろ。まったくこの出っ歯は何を食べてどう教育されてきたのか。怒りを通り越し呆れ顔でしばらく嫁の顔をみていると
「何をきょとんっとした顔をしてボーッとしているんですか。私ってそんなに美しい?水、水、出っ放し。水道代がもったいないじゃないですか。まったく、もう」
なにが「まったく、もう」だ。それはこっちのセリフだ。夕飯の片付けもせずにテレビを観ながらゲラゲラ笑っていたと思ったら、お次はこの態度だ。
今日はふたりでツーリングに行って、帰りに寄ったんですよ。この弁当箱は私があんたの息子のために作ってあげた弁当が入っていたわけ。洗うぐらいはお義母さんの役目、仕事を残しておいてあげたんよ。だってかわいい、かわいい一人息子だし。うれしいでしょ」
今、この出っ歯は私のことをあんたと呼んだね。敬子は洗剤まみれのスポンジをそのどす黒い歯茎に擦り付けて洗いたい衝動を抑えた。
「作ってあげたって、ふたりで食べたんでしょ」
「そらそうですよ。私だけ指でもしゃぶれってか。お義母さんってほんまに意地が悪い人やわ」
流しに弁当箱と水筒を放り投げるように置き、さっさとリビングにいく出っ歯の後ろ姿に、弁当箱を放り投げた後、空中飛び膝蹴りを一発くらわしたらどんなに爽快だろう。
しかし、お体裁重視の敬子にはそんなことはできるはずもなく、仕方なく弁当箱を開けた。
その瞬間、敬子は吐気がした。弁当箱の蓋にカビのようなものが付着していたからだ。水筒の中もどす黒い。歯茎と同じだ。きっと腹の中はもっとどす黒く淀んでいるのだろう。想像しただけでゾッとする。本当に何もかも汚らしい嫁だ。まともにきちんと漂白や洗浄をしたことがないヌメヌメの弁当箱とカビのようなものが付着している弁当箱の蓋。変色したのか劣化したのか何がなんだかわからぬ水筒に入れられたものを息子は飲んだり、食べたりしてきたのだ。身体は大丈夫だろうか。
慌ててリビングにいくと息子はお夕飯の鍋の雑炊を美味しそうに食べている。
「お母さん、この雑炊おいしいわ。まっ、雅子の弁当には、ほんの少し負けるけどね。それに雅子がさっき言ってたよ。お義母さんにお弁当箱を洗わせてって言われたから申し訳ないけどお願いしました、だって。あいつ本当にかわいいよな」
やはりバカに育ててしまった。いや優しい子だ。だけど物事を表面的にしか捉えられない子になってしまった。このままでは、救いようがないバカ夫になり、あの出っ歯の言いなりになるだろう。どうすればいいのだろう。思いきって本当のことを言ってしまおう。
「聡、あの子ちょっと二重人格と思うわ。お弁当箱を私に洗ってくれって押し付けてきたし、今の話と全然違うし」
「お母さん、嫁と姑ってどこの家も仲が悪いって雅子が言っていたけど、お母さんまで雅子のこと意地悪く言うなんてがっかりやわ。仲良くやってよ。せっかくいいお嫁さんもらってんから」
頭がクラクラしてきた天才バカボンの歌が頭の中をリフレインする。「バァーカボンボン」優しい子に育てたはずなのに、バカに育ててしまったことがどんどん現実化していく。もう、誰にも止められない。どうにも止まらない。バカは死ぬまで治らないだろう。
「出っ、じゃない、雅子さんは?」
「今、お風呂だよ。さすがに今日は疲れたんだろ」
「疲れたって、ずっとバイクの後ろに乗ってるだけでしょ」
「そう、きゅっとしがみついて乗ってるから身体中が緊張してるんだよ。気が弱いから雅子は俺がいないとダメやねー」
息子よ、母は今、あんたを哀れに思うよ。もっとたくさんの女と付き合い、女の本質を知るべきだった。いっそキャバクラ嬢にでも翻弄されていたら今みたいな一番タチの悪い女を嫁には選ばなかっただろう。
「お父さんは?」
「銭湯に行ったよ。やっぱり広い風呂がいいらしいよ」
また逃げた。敬子は自分の夫が初対面の頃から雅子を毛嫌いしていることを知っている。しかし、夫は事なかれ主義で臭いものには徹底的に蓋をしてその上からコンクリートを流し込むような性格だ。すでに夫の頭の中では雅子はコンクリート詰めにあっているのだろう。
それに夫は鬱陶しいくらいの潔癖症だ。雅子が初めて家に来た日、玄関のたたきにある汚いスニーカーを見たときに夫はその靴に向かってコックローチを噴射していた。そう、まるで巨大なゴキブリを退治するかのように。雅子の服装を見た瞬間、夫は「あの子、寝巻きのままで来たんか」とつぶやいた。「いや寝巻きの方がもう少しマシやな」とブツブツ言いながら銭湯に行った。
一番風呂で長い入浴を済ませた雅子がどす黒い歯茎を見せてバスタオルを首から下げてリビングに入ってきた。小柄のくせに偉そうだ。嫁ぎ先の実家というよりは生まれ育った実家にいるような振る舞いだ。
「ごめん、ごめん。私が先に入って、でも、汗でベタベタだったからどうしてもさっぱりしたくて、ほら、私きれい好きやから。聡さんも入ってきて」
「おおっ、さっぱりした雅子はさらにかわいいわ」
息子が出っ歯の頬にチュッとした。
気持ち悪い。敬子は親の前でいちゃつく息子にもコックローチを噴射したい気分になった。
「そろそろ帰ったら、明日は仕事でしょ」
早く消えて欲しい。どうせツーリングのあと、お夕飯の支度は面倒だし、かといって外食したらお金が掛かる。そんな理由できた二人だ。もちろん、手土産などない。
「お母さん、ただいま。まーちゃんがお義母さんの顔を見たいっていうから寄ったよ。今晩は、寄せ鍋にしてよ」ときたもんだ。
「やっぱり冬は鍋だなぁ。お母さんの料理の中で俺鍋が一番好きだわ」
息子よ、鍋を手料理と言って褒めるのは、他には旨いものは作れないといってるようなものだ。それを聞いていた雅子がニヤリと歯茎を出して笑いながら勝ち誇った顔で敬子を見た。その後で「こんな美味しいお鍋をいつも食べていたんやから聡さんは日本一の幸せ者」と言いながら、聡の頭をこねくり回していた。
敬子は深いため息をついた。でも、このため息はこれから先も続くのだ。
敬子は二年前のバレンタインデーに突然、我が家に訪れたおかっぱ頭の娘さんのことを思い出していた。
「いきなりすみません。これ聡さんに渡していただけますか」
「あら、チョコレート。まぁ、ありがとうね」
「こっちはご家族で召し上がってください」
紺のワンピースに薄いピンクのコートを着た彼女はとてもお洒落で敬子は素敵な女の子だなと思って、この子が聡の恋人かしら。と期待していた。聡が帰宅したのでチョコレートを渡すと「あぁ、あの子タバコ吸うからなぁ」とだけ言っていた。その時はタバコを吸うなら仕方ないかと思っていたけど、今から思えば禁煙させれば済むことではないか。彼女なら素直に努力してくれそうだったではないか。それに何より清潔感もあったし、ちゃんとした言葉遣いだし、身なりもきちんとしていた。あの子なら私も嫁ではなく娘ができたと喜んでいたはずだ。
「お姉ちゃん、もう放っておきなよ。嫁は嫁、息子は息子。同居している訳じゃないんだし」
同じ路線の二駅先に住む妹の恭子がシュークリームを持って遊びにきていた。嫁の悪口は他人には家の恥で言えないが、妹になら言える。敬子は週に一度甘い物を持って遊びに来る恭子に出っ歯のことを愚痴っていた。
「でも、最近のお嫁さんってみんなそうちゃう」
「みんなそうならこの国は、バイキンマンだらけで滅びるよ」
「でも、出っ歯の母親が相当汚い人なんだよ」
「そうみたい、聡が挨拶に行った時、出っ歯の弟がちょうど帰ってきて、家がきれいすぎてびっくりしていたらしいわ。何十年ぶりに大掃除したらしいよ」
「まっ、近づかないことだよ。同居なんてしたら最後だよ」
「でも、老後のこともあるし、一人息子だし」
「だからってそんなお嫁さんと同居したらストレスで禿げちゃうよ」
敬子は最近急激に薄くなった頭頂部の髪に指を入れてボリュームアップするように持ち上げた。
「お母さん、花火大会があるから一緒に行こうよ」
息子から電話が掛かってきた。離婚でもしない限りこれからもつきあっていくのだから気持ちを切り替えて付き合うしかない。敬子は、もともと外面がいいのだ。言い換えれば見栄っ張りで世間体重視なのだ。
「浴衣出しておくわ」
「うん、ついでに雅子のもお願いな」
何がついでじゃ。
「雅子さん浴衣ぐらい持っているでしょ」
「いや、お義母さんセンスがいいから、選んで欲しいってさ。いいやつだろ。ちゃんとお母さんのこと立てているんだよ」
オエッ。またまた遠回しのおねだりだ。結婚してから洋服にソファ、家電製品など、なんだかんだとすべて親頼みだ。夫も最初はひとり息子だからあたり前みたいなことを言っていたが、「そろそろ車を買わないと孫ができたら電車で遊びに来れないじゃん」と聡の言葉を聞いてうんざりしていた。
あの頃に距離をおくべきだった。晩ご飯を食べに来ても、家電を買っても、車を買っても、出っ歯は一言も「ありがとう」と言わなかった。そればかりか「息子にいろいろやってあげられて幸せな親ですね」とにやりと笑った。歯茎のドス黒さが増したようだ。その歯茎にキッチンハイターをぶちまけたい。なぜ、私はあの時、(自立しろ、このバカ夫婦が) と言い返さなかったんだろう。
久しぶりに浴衣を着た息子は、本当に天才バカボンのように見えた。出っ歯は馬子にも衣装にはならず、チンドン屋さんみたいだった。
打ち上げ花火を見ながら出っ歯が楽しそうにはしゃいだ。
「お義母さんも花火と一緒に打ち上げられたらいいのに。ほんでもうパッと散って死んで」
一瞬耳を疑った。早く死ねと言っているようなものだろう。聡の顔を見ると何も気にしていないようで、りんご飴を舐めていた。タチの悪い嫁とバカな息子。夫は他人のようなふりをしてさっさと前を歩いている。もう息子夫婦に関わるのはやめよう。大切に育てたひとり息子でも嫁をもらうとその娘のいいなりだ。せめて「ありがとう」と一言いわれたらどんなに救われただろう。
敬子は打ち上げ花火を見ながら涙がこみ上げてきた自分に驚いた。涙が出るほど悔しいのだ。でも、こんな顔を出っ歯に見られたら何を言われるのかわからない。足早に夫の隣に行き「先に帰ろう」だけ告げた。
「聡、お父さんたち疲れたから帰るわ」
「えっ、晩ご飯どうするんですか?」
出っ歯が不貞腐れている。
「ほら、雅子も寂しそうだし一緒にその辺で食べようよ」
聡が困った顔をしている。
(バカタレが、ふたりで勝手に毒りんご飴でも、ソース焼きそばの青海苔を出っ歯にたくさん付けながら食べやがれ)
敬子はそう叫びたかった。が、やはりいつもの調子で
「ごめんね。お先に、これで好きなもん食べて」
財布から取り出した一万円札を出っ歯がひったくるようにして受け取った。
打ち上げ花火がより一層大きな音を立ててドーンっと鳴り響いた。
妹の言う通りもう息子夫婦には関わらない。所詮、他人だ。息子を婿に出したと思えばいい。幸い夫も嫁のことを毛嫌いしているようだし、家に寄り付かなくても大丈夫そうだ。
敬子は嫁との嫌な記憶を忘れるために、友達とカラオケや太極拳に没頭した。
好きなことに集中できるこんな幸せが近くにあったのだ。
グッバイバカ息子夫婦。グッバイバカ息子夫婦。グッバイバカ息子夫婦。舌を噛まずに三回言えた。とてもすっきりした。
しかし神様は出っ歯同様に意地悪だった。
夫が他界したのだ。それもあっさりと。朝起きてこないので、寝室に様子を見に行くとそのまま息を引き取っていた。逃げることにかけて大得意の夫の引き際があまりにも美しい逃げ方だったので敬子は泣きながら腹を立てていた。
妹が心配して週に二回は家を訪ねてくれた。が、敬子は一人暮らしの経験がないまま結婚したので、孤独に弱いことを初めて知った。
そこで待っていました!の如く出っ歯が再登場。
「お母さん、このマンションの上の階に空きが出ましたよ。私たち越して来ましょか」
出っ歯がほくほくした顔で続ける。
「今の市営住宅2DKで狭いし、もうすぐ子供できるし、聡さんの給料安いし、お義母さんひとりだし、孫の顔もすぐに見に来られるし、ご飯も一緒に食べられるし、いいこと尽くめですやん」
敬子は混乱していた。本当にいいことなのか、判断できずにいた。毎晩、ひとりごはんは寂しいし、そればかりが頭の中に浮かんだ。
気づいたら「ありがとう」と出っ歯の手を握っていた。
その当時のことを敬子は今、思い出すと自分自身にコックローチを噴射して舌を噛み切って死にたい気持ちになる。なぜ、あんな行動に出たのか。私のばかばかばか。悔しすぎる、思えばあの時から出っ歯に何もかも主導権を握られるようになったのだ。
「お義母さん、今日の晩御飯は?」
もう、タメ口にも慣れた。
「ハンバーグ」
こちらもそれなりの返し方になる。
「またか、週一ハンバーグやし、もっとレパートリー増やさな。だから聡さんから鍋が一番美味いとか言われるんよ。気の毒だわ」
こんなときだけ丁寧な語り口かい。
「みっちゃん好きやしね」
出っ歯よ。お前に作っているのではない、孫のみっちゃんに作っているのだ。
思えば、このマンションの頭金も引越しの費用もすべて逃げ上手だった夫の預金から出ているのだ。妊娠中は出っ歯のつわりがひどくすべての家事を引き受けた。出っ歯はリビングでテレビを観ながらたこ焼きを旨そうに頬張っていた。洗濯機の終わりのブザーが鳴ると必ず電話をしてきて「お義母さん、洗濯物干しに来てよ」と電話をよこした。聡から掛かってくることもあった「お母さん、洗濯干す時間やで」出っ歯のパンツやバカ息子のパンツを干すときに、カラオケ友達の声が記憶の片隅から聞こえた
「敬子さん、寂しいのは一年くらいで後は一人暮らしの楽しさが待ってるから、大丈夫よ」
「敬子さん、太極拳友達で旅行に行こう。気分転換になるよ」
みんな励ましてくれていた。
「嫁に人生を左右されるなんて、そんな生き方を選んだらあかんよ」
着付け教室の先生で敬子よりも一回り上の、一人暮らしの達人である真知子先生にはそんなことまではっきり言われた。
だけど敬子はバカ息子夫婦と同じく、誰かに依存することから卒業できなかった。
遊び仲間たちは自然に離れていった。お誘いのたびに孫の子守や息子夫婦の家事を理由に断る敬子を不憫に思ったのか、幸せに思ったのかはわからない。おそらく前者だろう。
出っ歯はといえば家事を敬子に任せて新興宗教にのめり込んでいた。男性を立てることで女性は幸せになれる。そういう教えをモットーとしている宗教らしいが、雅子はなにひとつ感じ取っていないだろう。早朝に会合があるその宗教に敬子も連れて行かれたことがあった。まだ日が昇らない街を箒を持ったおばさんたちが一生懸命に掃除している。一体何のために?自分の家の掃除もまともにできない出っ歯が無心に宗教団体の施設の前の道を掃く姿はとても奇妙で悲しい光景だった。その団体に幸せな顔をしている女性はひとりもいないと敬子は思った。
出っ歯はなぜこんな宗教に入っているのだろうか。それは会場に入ってからわかった。
その日は、出っ歯の作文を発表する日だった。
雅子は自信満々で鼻の穴を大きく膨らまし顔を真っ赤にし、出っ歯の隙間から唾を飛ばしながら作文を読み上げた。その姿はスポットライトを浴びている女優のように高揚していた。雅子の意味不明な自信のようなものが敬子をゾッとさせた。
内容は「幸せな私であるために」という話だった。夫に尽くし、義母を敬う。一人息子の幹雄を褒め、時には厳しく叱りつけ育てている。聴きながら全部嘘だなと敬子は思った。現に家のことはすべて敬子がしている。孫の幹雄と向き合っている時間も敬子の方が長い。孫の幹雄は学校から帰ると必ず敬子のマンションに帰ってくる。おいしいお菓子に釣られてかと思っていたが、どうやら違うらしい。出っ歯の雅子はずっと携帯をいじって、息子に「おかえりなさい」の一言もないらしい。
嘘で固めた作文を聴きながら敬子は、幸せは主張するものではない感じるものだ。と強く思った。それにしてもどうして息子の聡はこの出っ歯を好きになったのだろう。そう思うと切なくてやりきれない。
「雅子さん、なんで私をこんな所に連れてきたの」
「ほら、お義母さん、最近家にばかりいるから社会勉強やと思って。ここで主張したらみんなから褒められるし、拍手もらえるし、自分の存在のすごさに気付くから」
そうかこの娘は自分の存在を誰かに認めてもらいたい。そんな思いで生きているのか。聡が結婚当初言っていた言葉を思い出した「雅子には、腹違いの姉が二人もいるんよ。子供の頃ものすごくその姉たちにいじめられたらしいわ」雅子も雅子なりにつらい思いをしてきたのか、でも、この宗教では雅子の幸福感は埋めることができないだろう。雅子は自分を肯定するために何かをがんばるということに欠けているような気がするからだ。
(あんまりのめり込まんといて、なんか怖いわ)そうはっきり言えたらよかったのに敬子は何も言い返さず家に着いた。
孫が小学校の高学年になるまでの十年間。敬子は本当に息子夫婦の家政婦だった。それなのに、ご近所からは親に尽くしているしっかり者のお嫁さんに頼っているお義母さんという風に捉えられていた。もちろん、雅子がそう演出していたからだ。
何もせずに宗教にのめり込んでいた雅子がある日パートに出たいと言い出した。
「聡さん、私も働くわ。だからもうお義母さんの世話はできません。施設に入ってもらお」
「お母さん、どこも悪くないし、今まで通りでいいやん」
「あんたは、仕事してくれているから何も知らんのよ。最近、物忘れ激しいし、とんちんかんなこと言うやん。今より悪くなったらちゃんとした施設に入れないらしいよ」
「えっ、そうなん、じゃ、ちょっと考えようか。お母さんのことは、普段から面倒みてくれている雅子に任せるわ」
敬子はふたりの会話を廊下で聞いて呆然とした。息子宅のお夕飯の片付けを済ませた
敬子がもうてっきり、自分のマンションへ帰ったと思っていた息子夫婦の会話だ。私がいつ出っ歯に世話をしてもらったことがあっただろうか。世話をしていたのは私で、経済的援助をしていたのは、亡くなった夫だ。
敬子は怒りに身を任せてリビングに怒鳴り込んでいきたい衝動に駆られた。でも、音を
立てずにその場から逃げるようにして自分のマンションへと帰った。
「お義母さん、病院に行こう」
「なんで?私は健康よ」
「体が健康でも頭が健康じゃなさそうやし」
出っ歯が舌を出して意地悪く笑った。歯茎はさらに黒さを増していた。
敬子は自分が大丈夫であることを証明するために病院につきあった。
だけど結果は軽度の認知症と判断された。物忘れがひどくなったと思っていたけど、
まさか認知症とは。でも、敬子は自分で考えることもできるし、意志もある。昔からよく天然ボケと夫から言われていたことを思い出した。本当に認知症なのだろうか。
ケアマネジャーの直子さんが家を訪れたのはそれからすぐだった。
「敬子さん、今日は好きな洋裁のお話を聞かせてくださいね」
敬子は直子さんの顔を見るとホッとした。心根の優しさが伝わってくるのだ。人の良し悪しは顔に出るものと敬子は常々思っているが、本当に顔と言動からその人が見えてくると敬子は直子にいろんなことを相談したい思いに駆られた。
「息子夫婦の言う通りにした方がいいかな」
「敬子さんがまだ家に居たいなら、デイサービスに通う方法もありますよ」
「私から息子さん夫婦に話してみます」
結果的に出っ歯から猛反対されたらしい。理由は簡単だ。夫や息子の世話で手一杯なのに姑をデイサービスまで連れていけるかと言われたらしい。しかし、デイサービスは送迎車が自宅まで来てくれる。それを説明すると出っ歯は息子の前でほろほろと泣き崩れ、頼むから老人ホームに入れてくれと土下座までした。
直子は仕事柄いろんな家庭を見てきた。自らホームに入る老人もいるし、自宅で介護をしたがもう限界で家族が不眠症になり仕方なくホームに入れる場合がほとんどだった。
雅子が土下座をした瞬間、息子は雅子を抱き寄せ
「ごめんな、ごめんな、お母さんを今までよく面倒みてくれた」と一緒になって泣いていた。泣きたいのはきっと敬子さんの方だろう。直子は敬子と面会するたびに敬子の忍耐力や底抜けの明るさを感じていた。でも、それと同時にこの女性が孤独に強い人で、自立して生きるという思いがあれば、幸せな老後をおくれただろうにと思うと残念でならなかった。
グループホーム子鹿に敬子は入所した。
グループ九人でご飯を食べ、おしゃべりをしてゲームをする。時にはカラオケもしたり、お散歩もできる。
敬子は当初、私はなんでここにいるのだろう。と思ったが、あの出っ歯の顔を見ないで毎日を過ごせることがこんなにも快適なことになるとは夢にも思わなかった。
息子は週に一度おやつを持って会いに来る。面倒臭そうな顔をしている時もあるが、敬子の顔を見ると幸せそうな顔をして笑う。小学生の頃、学校から戻ると必ず敬子の顔を見て「お母さん、今日の晩御飯なにぃ」と満面の笑みで問いかける聡の顔を思い出していた。
息子は変なお嫁さんをもらったが、私が優しい子に育てたおかげであの出っ歯は聡の嫁になり息子まで授かった。おそらく聡と出会っていなければ、出っ歯は誰とも結婚できなかっただろう。ひとりの女性の人生を救ったのだ。そう思うことで敬子は自分を慰めていた。でも、気になることがある。聡は本当に幸せに過ごしているのだろうか。孫の幹雄が面会にきた時に言っていた言葉を思い出していた。
「おばあちゃんがいなくなって、僕、ご飯おいしいもん食べてないわ。いつもスーパーのお弁当かコンビニやで。部屋も汚いし、お父さんが日曜日に掃除して洗濯してるわ。僕も時々、手伝ってる」
「お母さんは、何してるの」
「お母さんは、朝早く起きて仕事にいってるで。昼もランチ会とか言うてほとんど家におらん。夜は夜で集会用のもんを用意するとかでずっとパソコンとにらめっこや」
敬子は嫌な予感がした。出っ歯はどうやら完全に宗教にのめり込んでいるようだ。
「僕さ、実はあんまりお母さん好きちゃうねん。だって、いつもおばあちゃんといたし、ご飯もおばあちゃんの手作りやし、僕の友達もみんなおばあちゃんのことしか覚えてないよ」
「でも、お母さんは世界に一人しかおらんから大切にしてあげて」
そう言うのがやっとだった。心にもないことではなく、本心だった。でも、そんな気持ちは出っ歯にはおそらく伝わらないだろう。
二年の月日が流れ、敬子は要介護2と認定された。
二月には珍しく染井吉野が蕾を膨らませて咲いた。
「敬子さん、お散歩しましょう。桜がきれいですよ。今年は春がせっかちになったみたい」
「直子さん、寒いから私のカーディガンを羽織って」
「車にコートがあるから大丈夫です。敬子さんこそダウンコート着てくださいね。杖も忘れずにですよ」
敬子は最近、転倒を防ぐために杖を使っている。駐車場に行くと、聡の車が停まっていた。降りてきたのは出っ歯だった。久しぶりに見たその顔は以前よりも迫力があり、潤いとか優しさとかそんな言葉とは無縁でカラカラに乾いた木の枝のようだった。
「お義母さん、どこ行くのん?」
「直子さんと散歩」
「あのちょっと勝手なことやめてもらいます」
「散歩もですが、眼科医に行きます。少し目が見づらいようで、本当ならご家族にお願いすることなんですが、息子さんも最近来られないし」
「それって嫌味ですか。だいたいケアマネがそこまでするんですか」
「施設長と相談して私が連れて行くことになりました」
「ふーん、あんまりお金使わんといてくださいね」
敬子は耳だけはしっかりしている。今の会話はすべて心の中に届いた。出っ歯が宗教にお布施としてつぎ込んでいる金額が気になるところだが、私の財産も亡き夫の財産もすべて聡に託した。それは出っ歯が仕切っているということだ。聡は最近来ないが元気にしているのだろうか。
眼科からの帰り道、敬子は隣で運転する直子にすがる思いで伝えた。
「もし、よかったら息子の聡に電話をしてもらえませんか。さっき、嫁がきた時に実印や登記書などと私に詰め寄ったことが気になって」
数日経って、直子さんから話を聞いた。
出っ歯は敬子が住んでいたマンションを売るために不動産屋を手配したらしい。が、聡がまだ母親が生きているうちは手放さないと言い張ったらしい。
聡が直子さんに家の事情を細かく伝えたことに敬子はびっくりした。聡は相当、出っ歯に対して手を焼いているのではないだろうか。同じマンションに住んでいた頃は、聡も我が嫁の見たくない部分には蓋をしていたのだろう。でも、敬子が老人ホームに入所した途端、雅子は本性を現し、聡が閉じた蓋をバーンっと開けて居直ったのだ。
次の日の夕方、聡が会社の帰りに顔を見せてくれた。
「お母さん、これ、鏡台の引き出しに入れておくわ。家に置いておいたら雅子が何をするかわからんから。貸金庫借りたらそこに入れるからそれまで見張っていてよ」
「聡、大丈夫か。あの子、ほんまにおかしくなってるんちゃう」
「いや、大丈夫、大丈夫。それにケアマネの直子さんも最近心配して、よく電話をくれるからいろいろ相談に乗ってもらってるねん」
「お母さんは、あんたが幸せやったらいいねん」
「大丈夫、大丈夫、また来るからね」
聡は少し痩せたようだ。直子さんに相談に乗ってもらっている。その言葉が救いだった。でも、トイレから戻ってくると聡が持ってきた茶封筒のことなど敬子は忘れてしまっ
ていた。
施設の正面玄関のホールで直子はひな祭りの飾り付けをしていた。ふと視線を感じたので顔を上げると二階に登って行く雅子の後ろ姿が見えた。受付もせずにどうしたのだろう。後をついていくと敬子さんの部屋に消えた。
「やっぱりここに隠してあったわ」
雅子の声が聞こえた。
敬子は階段横のトイレに行ってるようだ。
「雅子さん、お部屋で何をされているんですか。敬子さんなら今トイレですよ」
直子は部屋に入りながら雅子に向かって話しかけた。
「何って、あんたには関係ないことです。忘れ物を取りに来ただけです」
雅子のバッグから茶封筒がはみ出していた。
「はいはい、用事すみましたから出て行きますよ。まったく偉そうにケアマネが」
ブツブツ言いながら部屋から飛び出し、足早に階段に向かった。
「ちょっと待ってください、それは泥棒ですよ」
直子は雅子に向かって叫んでいた。
「だまれ、ババア」
雅子が階段を降りようとした瞬間、飾り付け用の白い手袋をしているその手で直子は、雅子の背中を思い切り押そうとした。だが、それよりも早く細い棒が雅子の膝裏を突いた。
直子が後ろを振り返るとちょうど階段横のトイレから出て来たばかりの敬子が杖を持って立っていた。
よろけて重心が崩れた雅子が頭から一階へ落ちて行く。その先には飾り付け途中の雛人形のガラスケースが置かれている。頭から突っ込んだ雅子はぐったりしている。おそらく息は絶えているだろう。
「私、要介護2ですから、ふらっとよろけてしまったら、あの人が階段から落ちはったわ。えらい事故やわ」
直子の手を握る敬子の顔は晴れ晴れとしていた。
おわり