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第参章 決壊 八 あふれる恋慕

 それからいろいろと落ち着き、今はともに背中合わせで湯に浸かっていた。


 正直気まずいことこの上なかったが、このままでは二人とも湯冷めで風邪を引きかねないと判断してのことだ。


「なんか……すまん」


 背中越しに心底申し訳なさをにじませた声で詫びる樰永(ゆきなが)咲夜(さくや)も消え入りそうな声音で「いえ。私の方こそとんだはしたない真似を……」と顔を俯かせて吐露した。挙句に今や羞恥で真っ赤となった美貌を両手で覆い涙声で嘆く。


「私……もうお嫁になどいけません…………」


「いやいや! そこまで思いつめるなって! てかあれは事故だろう!?」


 樰永も茹蛸(ゆでだこ)のようになった(かぶり)を大きくブンブンと横に振って取り成すが、そういう自身の声音も上ずったものとなっていた。


 ――いや! ってかそもそもなんで咲夜がここにいるんだ!? やっぱそれを聞くのが先だろ!


「そもそもさ……。どうして咲夜がここにいるんだ? ここは男湯だぞ。まさか間違えたってわけじゃないだろ」


 すると、背後で咲夜が身を竦める気配を感じた。しかし覚悟を決めたのか、おずおずと口を開く。


「母上から樰永様のお背中を流すように言い付けられました……。戦に臨まれる殿方を慰労するのも女子としての務めだと……それで――」


 最後は涙まじりの声だった。


 樰永は頭を抱えて菊乃(きくの)に毒づく。


 ――菊乃様……自分の娘に何やらせてんですか! 


 お節介が過ぎるにもほどがある。というより愛娘の貞操を何だと思っているのか!


 とは言え、樰永にも菊乃の心胆はわかってはいた。


 愛娘を想えばこそ、その恋心をどうにか叶えてやりたいという親心から発破をかけたのだろう。


 無論。そういう私情だけでなく公事の算段も入ってはいることだろう。


 古来より神の森と共生してきた鬼灯国(ほおずきのくに)は暗黙の永世中立地帯とされているが、それ故に隙あらば食い物にしようとする敵また多い。朝廷や芦藏(あしくら)などがその筆頭だ。


 そんな中で應州(おうしゅう)の有力大名である鷹叢(たかむら)との盟約は重要。大樹(たいじゅ)の姫である咲夜と鷹叢の総領息子である自分が結び付くことは、その盟約をより強固とすることに疑いはない。


 すなわち娘の幸福と武家の姫としての義務が両立できるのだ。応援こそすれ反対する道理がない。


 それは義圀(よしくに)義正(よしまさ)とて同意見であろうし、父母とて賛同するだろう。


 殊に母は咲夜を実の娘同然に可愛がっているのだからなおのことだ。


 ――だが、それでも俺にこの想いを譲る気は毛頭ない。たとえそうすることが正しいのだとしても、俺は(おぼろ)を決して諦めない。


 ともかく今は落ち込んでいる咲夜を慰めながらも諭さねばと口を開きかけるが、それより前に口火を切ったのは当の咲夜だった。


「けれど――私自身の意志でもあります」


 静かだが凛とした決意がにじんだ声に樰永は戸惑う。


「咲夜?」


「覚えていますか、樰永様……。五年ほど前、我が領地で夷餌朱丹(イェシュタン)に入信した民や宣教師の方々を神官や一部の扇動された民が袋叩きにしようとしたことを……」


「ん……ああ」


 鷹叢をはじめとした一部の大名家では夷餌朱丹の布教を認めているが、やはり現在の倭蜃(わしん)国においては異教徒にして邪教という観念が根強い。


 ましてや、鬼灯国のように土着の神官たちの勢力が強い地は特にだ。守旧の宗教勢力が新興の宗教勢力の台頭を嫌い警戒し排斥しようとするのは世の常である。


 五年前の事件はまさにその典型例と言えたろう。


 葉華(ようか)の片隅に建てた小さな教会で礼拝(ミサ)をしていた夷餌朱丹たちを、神官たちに煽られた民衆が鍬と棒や石を手に襲撃し私刑(リンチ)にかけようとしたのだ。


 確かに良く覚えている。なにせ、その醜悪な様に激昂して蹴散らしたのは他ならぬ自分だからだ。


 その当時を思い出したのか咲夜ははにかんだ笑みを漏らす。


「その寸前で樰永様が樽いっぱいの水を赤羅(せきら)の上からぶっかけたんでしたよね。それも真冬の最中に」


「そ、そうだっけか?」


 思わず気恥ずかしさを覚えて空惚けた。


「はい。そうして寒さに震えて(うずくま)る彼らに樰永様は――」




『徒党を組んでピーチクパーチクと……胸糞悪りぃんだよ! 文句があるんなら正義って人混みの中から吼えるんじゃなくて、一対一でテメエの面と名前で堂々と名乗り出てからやりやがれ! それが正義を名乗る覚悟だろうが!!』




「――と、おっしゃられた後に態勢を崩して赤羅から落ちられましたよね」


 クスクスと忍び笑いする咲夜に樰永は呻くように俯いた。


 事実である。威勢よく啖呵を切ったはいいものの、勢いをつきすぎたのか赤羅からずり落ちて、そのまま冷水を浴びて凍えた連中の頭上へと真っ逆さまに落ちたのだ。


 そして、そのまま乱闘へ突入という絵に描いたような顛末へと至り……。


 その後、事情を聞いた義圀は神官たちと夷餌朱丹たちの間を調停した。


 結果として、神官たちには民の扇動を咎めた上で本分たる神事に努めるよう叱責し、夷餌朱丹たちに対しても余程の度を越えたり無理強いしないかぎりは一定の布教を認めるということで、本件は落着したのだった。


 因みに自分は友好国で無用の騒ぎを起こしたことを父・悠永(はるなが)に咎められ、一か月の蟄居(ちっきょ)と千巻にも及ぶ反省文を書かされるという憂き目となったのだった。


 まあ、そりゃ自分でも猪突猛進で軽率だったと思わないでもなかったが、正直に言って理不尽だと泣きたくなった。


 だが、そんな苦々しい過去(黒歴史)に悶絶している樰永に咲夜は優しい微笑を浮かべて言う。


「けれど、私はそんな貴方様を素敵だと思いました」


 手放しで褒められるも、よりバツが悪くなって溜息をつく。


「いや、そう言ってくれるのは嬉しいけどさぁ……。今になって思うと内政干渉と謗られてもおかしくない行為だったわけで……」


 いかに同盟国と言えど、守るべき一線はある。父が激怒したのもそういう配慮からだ。だが、当の大樹の姫君は首を横に振る。


「いいえ。あの時、樰永様がおっしゃられたことは私も賛成です。状況にもよりけりですが、多勢で正義を気取り無勢を悪と決めつけ弾劾するような行為など好きにはなれませんし。尊敬などとてもできません。けれど、それを実際に口に出せる者など片手で数えるほどもいないでしょう」


 それなのにと咲夜は愛おしさを惜しみなく注いだ声で続ける。


「なのに貴方様は、そんな現実に屈することなく誰(はばか)ることすらせず、心を偽ることもなく思ったことをそのまま叫ばれる。そして何より、何物にも縛られずにどこまでも――私たちには途方もない場所まで翔けていかれる」


「……大げさだな。俺は、ただそれこそ思ったことや感じたことを衝動的に行動へ移してるだけだぞ。考え無しだとも言える」


 どこか面映ゆいとばかりに頬を掻く若武者に、それでも咲夜は「いいえ」と己の真心を紡ぐ。


「それができるというだけで稀有なことなのです。普通は立場や責任といったいろいろな枷で雁字搦(がんじがら)めになって望むと望まざるとに拘らず、宿命(さだめ)という場所から動けなくなってしまうものなのに……。貴方様は、曇りのない(まなこ)であらゆることをありのままに見つめられる。そのような枷など最初からないとばかりに微塵もお気になされない。貴方様はそんな大きなお方……」


「……そんなことはない」


 ――そうだ。俺だって――俺たちだってそう変わらない。俺も(おぼろ)宿命(さだめ)という場所から一歩も動けずにいることに一切の変わりなんてない。


 どう足掻いても兄妹という(くびき)から自由になる日なんて来ない。当然だ。血の繋がりはこれから先それこそ死ぬまで続くのだから。


 その覆しようもない現実を踏まえた上で、自分たちは兄妹の身で夫婦として添い遂げることを決めたのだ。


 たとえ、その道がどれほど絶望的なまでに険しいのだとしても……!



「それに……それだけじゃありません。貴方様はその曇りなき(まなこ)で私のこともきちんと見てくれました」


「え?」


 不意にはにかんだ笑顔で告げられた言葉に目を丸くした。


 どういう意味かと問う前に麗しい口唇から喜色と羞恥に富んだ声音が弾むように紡ぐ。


「樰永様は覚えていないかも知れませんが、私たちが初めて出会った日のことを、私は昨日のように思い出せます。子供の頃、父上たちに連れられて清聡(きよさと)の伯父上の元を訪ねた時、私は兄上に連れられ扶桑の市へお忍びで遊びに行ったのですけれど、兄上とはぐれてしまった私は迷子になった挙句、町の男の子たちに絡まれて髪を引っ張られたり、その……身体の匂いを揶揄(からか)われたりしていました……。けれど――」


 そう。そこから先は樰永も知っているというより覚えている。


 その頃、扶桑京(ふそうきょう)に来ていたのは大樹一家だけではない。自身や朧も父と母に連れられて訪れていたからだ。


 自分が六歳、朧が五歳の頃であったと思う。


 当時、腕白小僧だった自分は朧を連れて同じくお忍びで市へと駆け出していたのだった。そこで悪童(ワルガキ)に虐められている咲夜を見かけたのだった。


 当然自分と朧は、その馬鹿野郎どもをぶちのめしてやったわけだが、それが自分たちと咲夜の初めての出逢いだった。


 それから間もなく騒ぎを聞きつけた父にしこたま絞られた後、義圀殿や義正まで現れ礼を言われた。その時に彼らが鷹叢の長年の盟友であると紹介されたのだ。


 義正ともそれ以来の付き合いで今に至る親友となった。この件で義正からは一層に感謝されたのも拍車をかけたことだろう。


 ただ、別に相手が咲夜でなくとも同じことをしたし、然程感謝されるようなことをしたつもりはないのだが……。


 しかし、困惑する樰永に反して咲夜はまるで白馬の若殿の到来を見たかのような焦がれる乙女の顔で語る。


「そこで樰永様と朧が助けてくれました。ですが、それよりも何よりも貴方様がおっしゃってくださった言葉が私を救ってくださいました」


「言葉?」


 ――何を言ったんだ、当時の俺……?


「はい。私は当時それ以前から自分の体質を好きになれませんでした。いつも甘い変な匂いを漂わせている自分が、あの頃はとても大嫌いでした。実際それが原因で同年代の子に揶揄われたのは、あの時が初めてじゃありませんでした……」


 正直意外だった。いつも毅然とした淑女と言う風情の咲夜がそんな劣等感を抱えていたなんて……。


 友人の知らぬ一面に面食らう樰永だったが、咲夜は次には花がほころぶような笑顔でこう結ぶ。


「でも……あの後樰永様はおっしゃってくださいました。私の匂いを『満開の花畑が咲いたみたいな優しい匂いだ』と」


「え?」


 ――お、俺、んな恥ずかしいこと言ったのかよ……!?


 新たな黒歴史が掘り返されようで少し血の気が引いた上、羞恥で貌に朱が奔った。


 しかし、そんな樰永の心情を知ってか知らずか咲夜は豊かな胸元に両手を添えて切なさを湛えた声で懇々(こんこん)と続けた。


「それから私はこの匂いを好きになりました。何より貴方様が真っ直ぐに見てくれた私自身を好きになれた。掛け替えのない宝物に変わったんです……」


「咲夜……」


 その言葉の隅々にまで込められた万斛(ばんこく)の情念がわからぬほどに樰永とて鈍感ではない。だからこそ、これ以上聞くわけにはいかぬと湯から立ち上がった。


 ――何も応えることができない俺が聞いていいような気持ち(こと)じゃない。


「……悪い。俺はそろそろ出る。おまえはゆっくり浸かっていてくれ」


 半ば無理矢理に会話を打ち切る。


 これ以上ここにいたら咲夜への罪悪感に圧し潰されそうだというのもあった。


 だが朧を選ぶと決めた以上、咲夜の想いを受け止めることはできない。それがわかっていながら、ここに居続けるのは不誠実でしかないと思った。


 故にこそ、彼女からの好意を断ち切る意味でも去るべきだと判断し、湯を後にせんと足を踏み出した。



 トスっ。



 そんな軽やかな音とともに背中に柔らかな重みがのしかかった。そして同時に鼻孔を優しくも蠱惑的なまでに甘い鈴蘭(ミュゲ)の芳香がくすぐる。


「っ! さ、咲夜……」


 その正体を悟った樰永は狼狽の声を上げるが、続けて何かを言う前に――


「私は――樰永様が好きです」


「――ッ!!」


 溢れんばかりの切なさと狂おしさが染み込んだ声だった。


「愛してます。初めてお逢いした時から今に至るまで……いいえ。これから先も未来永劫お慕い申し上げております……」


 耳元で囁かれる言の葉ひとつひとつに、今まで溜め込み醸成された愛慕が隅々まで流れていることがわかる。


 わかってしまう。


 背に当てられた手から咲夜の熱情そのものが注がれているようだった。


「私も……心のままに想ったことを伝えます。この想いを樰永様に受け止めて欲しい。樰永様とこれから先の生涯を死が分かつその時まで――いいえ。この世の終わりの(とき)まで夫婦として添い遂げたい。私のすべてを樰永様に捧げたい。そして――」


 背により柔らかな弾力と重みが加わり両腕を回され全身を密着される形で抱きすくめられる。


「ゆ、樰永様のお子が欲しい……!!」


「……っ!」


 なんと切なさと健気さを湛えた声だろうか。


 混じり気など微塵もない純真なまでの勇気を振り絞ったであろう正真正銘の愛の告白。


 自分ごときには身にあり余りすぎる真心(キモチ)……。



『俺は……おまえをひたすらに想う咲夜の姿がいじらしくて仕方ない。どうにかその想いを是が非でも叶えさせてやりたい。』

 

 

 脳裏に親友の言葉が反響する。


 ――すまない、義正。すまない、咲夜……! 俺は――


 


 ドゴッオンッ!!



 だが、口を開くより先に大量の火薬が爆ぜる轟音が響き渡る。


「なっ! こ、これは――!?」


 瞬間――樰永の双眸は武士(もののふ)のそれに切り替わる。


 咲夜も表情を引き締めるや樰永から離れ、状況を把握せんと眼下の城下町に目を向けるや口元を両手をおおって息を呑む。


「ゆ、樰永様!? あ、あれを――」


 悲痛ささえ伴なった声音に樰永も首をそちらに向けるや愕然と双眸を見開く。


「ば、馬鹿な……! この葉華(ようか)で―――」


 大樹家の中心都市『葉華』は鬼灯国の中でも最も霊気と神気が高い神の森で守られている。その上霊山でもある鬼灯山の水分を多量に含んでおり、火災どころかボヤでさえ起った例は一度もない。


 だと言うのに――


 その当の鬼灯山から――葉華の城下町の至るところから煙まじりの爆炎が噴火さながらに噴き上がる様がまざまざと視界に焼き付いていた。


「そ、なんな……! 葉華でこんなことが……!」


 特に咲夜自身の衝撃は大きく膝を突きそうになるが、すぐにキッと表情を引き締める。


「すぐに消火に向かいます」


 そう言って湯から飛び出すや脱兎のごとく脱衣場へと駆ける。


「ああ!」


 樰永もその後を追いつつ彼女の気丈さに感嘆していた。


 ――自分が一番狼狽してるだろうに……! つくづく骨の髄まで大樹の姫なんだな。義正。おまえの妹は俺になんざもったいなさすぎるよ……!

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