第弐章 大蜘蛛の巣中 二 断ち切れぬ愛慕
この気持ちに気づいたのは、いったいいつからなのだろう?
それはあの嵐の中で?
きっとそうだろう。
けれど、それをはっきりと自覚したのは、やっぱりあの時だと思う。
あの嵐の海から帰った私は、いっそう兄様にくっついて行動するようになった。
兄様が遠乗りに出かけるなら、私も馬を駆ってついていったし。
兄様が市に駆けだすなら、私も一緒に並んで駆けだした。
ただあの頃は、兄様が大好きで仕方がなかった。
父様は「兄離れができるかが不安になってきた」と苦言を漏らされたけれど、母様は「あらあら♪ ますます仲良しさんになったわねえ~~」と微笑ましく見守られた。
啓益や家臣たちは、あまりいい顔はしなかったけれど……。
無理もないだろう。兄様は次期当主として文武に励まねばならない身。私などと遊んでいる暇など本来ないのだから。
それでも兄様はそんな私の我が儘を嫌な顔ひとつせずに聞いてくれた。常に私のことを優先してくれた。
ただ、叔母様は叔母様で"ぶらこん"と事ある毎にからかわれたことは少し癪だけれど……。
私にとって兄様は、嵐の中でも必ず私を見つけてくれるヒト。
私の全部をいつでも包んで受け止めてくれるヒト。
私の願いと約束を何があろうと叶えてくれるヒト。
私と一緒にどこまでも翔けてくれるヒト。
そして、生涯をともにまっとうするヒト。
これまでもこれからも――それが当たり前に続いていくのだと、その頃の私は信じて疑わなかった。
「莫迦みたい。そんなことあるはずないのに」
早朝、朧は居室にて身支度を整えながら独りごちる。
それもこれも昨夜、あんな夢を見たからだろう。
幼い頃、兄様と一緒に海で戯れていた時の夢だ。
あの時の私は、兄様を押し倒した挙句に接吻して求婚なんて、今思うと恥ずかしさで死にかねない所業を成した。
母様や皆は、子供の頃のかわいい戯れと微笑ましく笑うだろうけれど、あの時の私は本気で兄様の花嫁になる気でいた。
なれると信じて疑わなかった。
救いようもないほど愚かしい私。そんなこと万にひとつもあり得ないことだったのに……。
そんな甘ったれた御伽噺がまかり通ったのは、私が十三の年になり初潮を迎える時までだった。
その頃には、もう私の願いは未来永劫叶えることすら赦されないものだと既に知っている。
兄妹同士が番うなど子供の戯れの中でのみ赦されることだ。
その"子供"の時代が終わった今、それは捨て去るべきものだと私も自然に理解していた。
そう。そのはずだったのに――
成人の儀の当日。母様は上機嫌で私に、藍から取り寄せた唐衣の打掛を着付け、髪を牡丹を模した簪で彩ってくれた。
母様だけじゃない。鷹叢の女中たちも華やいだ様子で大わらわだ。
けれど、その反面私はどこか他人事のような心持でされるがままにされていた。
武家の女は、初潮を迎えたその時から成人と見なされる。
それは即ち、子を産む適齢期に達したことで政略の駒としての義務が生じたことを意味する。
いかに皆から祝福の旨を告げられても、私の心は重く沈みこんでいくばかりだった。
もちろん、こんなことでは駄目だとわかっている。
私が有力な武家に嫁ぎ血を繋ぐことは、家を守り国を富ませることに繋がるのだから。それを喜びこそすれ、それを悲観するなど武家の姫としては論外もいいところだ。
だからこそ、私も懸命に笑顔を取り繕った。
皆が喜ばしい日に私だけが、いいえ、他ならぬ私が悲しい顔なんてしてはいけない。
そんな中で母様は、喜色に溢れた微笑みを私に注いで「綺麗だ」と褒めてくれている。それに水を差してどうすると言うの!
私は、そのように己に言い聞かせて笑顔で「あ、ありがとうございます……」と受け答えするだけで精一杯だった。
「朧ちゃんももう大人ね。これから縁談も引っ切り無しにくるんでしょうね……」
「か、母様……。私はまだそんな……」
母様からの暖かな言葉が無情な刃となって容赦なく私に突き刺ささった。けれど――
「けれどね朧ちゃん。政略結婚が常の武家の身でこんなことを言うのは失格かも知れないけれど、敢えて言うわ。素敵な恋をしなさい」
「母様?」
思わぬ言葉に、私は思わず鼻白んだ。よりにもよってこんな日に、何故そんなことを言うのだろうと。
「お母さんも、お父さん……悠兄様と恋をして結婚して、それで樰永くんやあなたが生まれて、お母さんはとっても幸せになった」
私はハッとなって息を呑んだ。
そうだった。母様だって必ずしも政略結婚で父様に嫁いだわけではない。元は鷹叢の分家に連なる家老の娘だったと聞く。
無論、家格という意味では申し分なかったという理由もあるだろうけれど、半ば母様が父様の元へ駆け込む形で添い遂げたと聞く。
まあ、後から聞いた話だと叔母様がせっついたらしいのだけれど。いかにも叔母様らしい……。
政略結婚が常である武家の中で、母様と父様の恋愛結婚は、應州の娘たちを湧かせるほどのちょっとした戀噺だ。
「だからね。あなたもいつか、そんな素敵で幸せな恋をして欲しいの。樰永くん、もちろんあなたもね」
それはたぶん母様の本心からの言葉だったのだろう。父様と結ばれて、兄様と私が生まれたことを何より幸せに感じてるひとだから。
私や兄様だってたくさんの幸せをもらった。本当に素敵な夫婦で素敵な両親だと今でも思う。
けれど――
私は兄様とそういう風になれる日は永遠に来ない。
いけない。それだけの幸せをもらってきたのに、それを裏切るような感情をぶつけるなんて……!
湧き上がりそうなる激情をおさえて自省した私は、また笑顔を取り繕って答えた。
「はい!」
そう。これでいいんだ。
こんな気持ちはきっと幼い甘えからくるもの。
年月を経れば、きっと跡形もなく消え去ってしまう程度のもの。
それなのに、いつまでも兄様に甘えてなんていられない!
大人になるのよ、朧!
けれど、最後に兄様から卒業する意味で、今日の私の晴姿を兄様に見て褒めて欲しいと思った。
そうすれば、私は喜んで武家の姫としての宿命を受け入れられる。
だから、最愛の兄へ唐衣に身を包んだ私を袖を広げて見せた。
「に、兄様。どうですか? この打掛……」
けれど、私が最後まで問いかける前に大好きな兄様の口から出たのは――
「知るか! そんな無駄に豪奢なもんがおまえなんぞに似合うもんか!」
生まれて初めて聞く乱暴な怒声に、私は眼を大きく見開いた。
え?
私は声すら出せず、ただただ呆気に取られていた。
いつだって優しくて私に笑いかけてくれた兄様から、こんな言葉を浴びせられるなんて夢にも思ってなかった。
しかも、言葉は一振りでは終わらなかった。
「もう成人したからって浮かれてんじぇねぇ!! 大体、縁談が引っ切り無しだと? おまえみたいな乳臭さが抜けきらない奴を、嫁に欲しがる奴なんて余程の物好きでもなきゃいるものか!!」
二振り、三振りと斬られ、その意味がようやく鈍い脳漿へと浸透していく。
ああ、兄様も本当は迷惑だったんだ。
そう思ったら、目尻から止めどなく雫があふれて頬を伝いこぼれ落ちた。
本当に莫迦な私。
わかりきっていたことじゃない。兄様にしてみれば私の我が儘に付き合うことなんて煩わしいだけでしかないって。
堪らなくなった私は逃げるように――いいえ、逃げた。
兄様の顔をロクに見ず、背を向けて逃げだした。
それからのことは、あまり覚えていない。
あの時は、とにかく泣きじゃくりながら走った結果、視界がにじみながらの疾走のために、ひとにぶつかりながら駆け回ったことくらいしか覚えていない。
ただ気づくと、幼い頃から兄様と待ち合わせをしていた鬼哭滝で、この日のために母様が誂えてくれた唐衣が雪まみれになるのも構わず、しっとりと冷たい積雪の中でうずくまっていた。
雪や風の冷たさも気にはならなかった。
兄様の言葉だけが頭に張りついて離れなった。
『おまえみたいな乳臭さが抜けきらない奴を、嫁に欲しがる奴なんて余程の物好きでもなきゃいるものか!!』
やっぱり、私にとっては掛け替えのない日々も兄様にとっては迷惑だったんだ! ただただ退屈でうっとうしいだけだったんだ!
今に至るまで、そんなことにも気づかないほど暗愚な子供だった私。
そう思ったら涙がますます目尻からこぼれて止めどなかった。
けれど――
「莫迦ッ! んなところで何やってる!?」
泣き腫らした私の耳朶を打ったのは、先刻拒絶された大好きなヒトの声だった。
涙でにじんだ眼を凝らすと、髪や直垂を雪まみれにした兄様が息咳切って佇んでいた。
よっぽど慌てていたのか草鞋すら履いていない。素足はすっかり霜焼けで赤くなっている。
私は、それを涙でにじみ腫れあがった眼で呆然と見ていた。
「にい、さま……どうして?」
思わずそう返す私に兄様は何も答えず、ただ――
「ほら、とっとと帰るぞ」
そうぶっきら棒に言って、呆気にとられる私の腕を乱暴にとって立たせた。
「あ……」
その勢いに私は何も言えず、ただ引きずられるようにして雪原をともに歩く。
どうして?
私のことを疎ましく思ってるのに、なんで今なお迎えになんて来てくれるの?
どうして、私の手を変わらずに引いてくれるの?
わからない。兄様の心が今に至るまで本当にわからない。
――そんな中途半端な気持ちのまま三年もの月日が経ってしまった。あの時の兄様の気持ちはいまだにわからない……。
朧はそこまで思ってからハッと我に返り、己の両頬を両手でパンと叩いた。
「さあ、感傷はここまでよ朧。兄様を起こしに行かなきゃ」
朧は言い聞かせるように口にして物思いを振り切り、居室を後にした。