第弐章 婚約 断章 毒蜘蛛の微笑
その頃、悠々自適にまんまと朝廷の実権を掌握した毒蜘蛛はというと……。
南應州・羽蝉国、羽蝉城・本丸。
「つくづく退屈させないねぇ、あの若様は」
白梅の香が漂う居室で、西界製の玉座に腰掛け、白に近い紫の滑らかな長髪を青白い細腕で梳きながら、女とも見紛う妖しい美貌の青年がカラカラと嗤う。
その艶やかな美貌と嬌笑に反して、昏翠の瞳だけがおぞましいまでの獰猛な光と熱情を滾らせていた。
この男の名を、芦藏左近大夫嵩斎という。この南應州八ヵ国の若き太守である。
「また呑気なことを……! 西界の軍勢が倭蜃に、それもこの應州に迫るなど。下手をすれば、我らにとっても対岸の火事では済まぬやも……」
傍に控える少年武士の名は、信井泰政。筆頭家老の息子で嵩斎の小姓を務めている。齢は十四歳。
「いいじゃない。それはそれできっと面白いよ?」
首を傾げてそんなたわけをのたまう主に、泰政の堪忍袋の緒が切れた。
「全然面白くありません!!」
万が一にもそうなれば、まるで洒落にならない。
「真面目だね。一厘くらいはほんの冗談じゃないか」
「九分九厘は本気ということではございませんか……」
もはや突っ込む気力もないとばかりげんなりとした声で吐き捨てる小姓に、嵩斎は相も変わらず艶然とした笑みを浮かべるだけだ。
「揶揄うのはもうそれくらいにしてやれ、嵩斎」
そこへ不意に、この城の主であるはずの男を呼び捨てにする声が呆れまじりにたしなめた。
しかし嵩斎と泰政も別段それを咎めることはなく、むしろ、前者はいつになく弾んだ笑顔で、後者はどこか安堵した面持ちを浮かべた後、意を決した表情に切り替えて、声の主を迎え入れた。
「やあ、リカルド! もう帰ってきてくれたのかい?」
「天元殿! いい加減にこの莫迦殿になんとか言ってやってください!」
対照的な二つの挨拶に応えるように、ひとりの男が姿を見せる。
その男は、ともすれば嵩斎以上に線が細く華奢な体躯を青白い着物と袴で包み、その上に黒い羽織を軽くなびかせた出で立ちで音もなく影が這うように歩み寄った。
首元には、小枝を重ねて紐でくくることで作った十字架をかけているが、わずかな擦り切れ音すらしない。
その右腰には、華奢な身体には不釣り合いに思える白鞘へ納められた3尺2寸以上に及ぶ特大の大太刀が差され妙な存在感を放っていた。
右袖はだらりと垂れ下がって、天窓から入ってくるわずかな風になびくがままとなっており、この男が隻腕であることを静かに物語っている。
だが、さらに異相なのはその相貌であった。右肩にかかる形で軽くまとめて結った総髪は半分が白髪と化し、白と黒の異様なコントラストが渦を巻いている。両瞼に至っては横一文字の大きな刀傷によって塞がれており、誰がどう見ても盲目であることは明々白々だった。
にも拘わらず、この全盲隻腕の侍は何の支障もないとばかり真っすぐ過つことなく莫迦殿と近習の元へと歩んで、大きな溜息を返した。
「ああ、思いの外おまえの用事は早くに終わった。それから泰政よ。諦めよ。こいつは誰が何を言おうが何も変わらぬ。よって今更、我が忠言をしたところでそなたの負担が軽くなることなどない」
「身も蓋もなさすぎる!?」
悲鳴まじりに突っ込む近習を余所に、当の莫迦殿は「さすが、リカルド! よくわかってるじゃないか!」と何故か得意気に胸を張る。それに対し全盲の剣客は「変わらぬにしろ、少しは反省した方がよいのではないか、おまえは」と手厳しく指摘する。
この全盲隻腕の剣客を玖生・リカルド・天元といい、芦藏の客将兼嵩斎の随身を務めている。
無論、真ん中の通称に当たる名前は生来のものではない。西界の国々から伝わった異教・夷餌朱丹に帰依したことで得た洗礼名である。
客将の身でこそあるが、その信任は厚く時折こうして嵩斎からの依頼で遠方で仕事をすることもしばしばだ。
その仕事とはぶっちゃけた話が人斬り稼業である。
芦藏にとって障害となり得る人物。もしくは裏切り者や謀反人の粛清をここ数年請け負っている。
さらには暗殺のみならず、戦においても先陣を切るなど、その武力と剣椀は全盲隻腕ながら芦藏最強の鬼宍戸と並んでも遜色はない実力者であることを、嵩斎と泰政をはじめとした芦藏家中のみならず、全国の諸侯の誰もがよく知っている。
それ故に"人斬り天元"の異名をもって、鬼宍戸と並んで芦藏の二枚看板として恐れられている随一の剣客だ。
加えて客将故か嵩斎とも対等に接し、気まぐれ極まりない莫迦殿に唯一の諫言ができる男でもあり、泰政をはじめとした家臣郎党からも尊敬と信頼を受けている。
「それはそうと泰政。蔵馬は何か言ってきてる? まあ、正確には新・摂権殿下がだけれども」
嵩斎は先の諫言を誤魔化すように、顔を泰政の方に戻して先の報告を促す。
「……丹囓様の書状では、殿下がまたせっついてこられていると。いつになったら、殿ご自身が上洛なされるのかとの由にございます」
すると、嵩斎の口から吐き出されたのは、あからさまな嘆息だった。
「って言われてもねぇ。今、僕が出張ったって大した意味はないよ。僕たちの御所を造るための資金や職人に工夫はもうそっちに送ったし。都を新たに守る兵だって四万も奮発した。それに何より蔵人の奴を貸してやった。これ以上どうしろってえのさ」
主の気怠げな声にも怯まず、泰政は諭すように都の情勢を語る。
「しかし、此度の我らと摂権殿下による枢軸政権を快くは思っていない勢力も多うございます。特に、獅束・上総・斎藤の三管領家がその筆頭。一応、彼らをはじめとした天畿の大名たちは、形式上こそ朝廷の顔を立てる形で臣従の礼をとったとはいえ、内心ではまるで認めていないことは明々白々」
扶桑の都が存在する天畿十一ヵ国は、初代大君から仕えてきた譜代の君臣たちが支配する領域だ。大君府の開府以来、大君の直臣中の直臣として王城の地を守護してきたという自負と矜持が彼らにはあろう。
それが今回の政変を快く思ってなどいるわけがない。
「その上、桓東の大名たち、播州の蘇芳、西国地真の媛司など、いまだ挨拶にも来ぬ有様にござる。鷹叢の奴原は言わずもなが、上條をはじめ、胤宗寺に宗柳、魅恚といった汲州や肆海の大名たちも朝廷に貢物を贈って表立った反発は今のところ示してはござらぬが、腹の内は窺い知れませぬ」
桓東の大名たちは、おおむね朝廷を半ば見限っている。まして、俘囚者の自分たちが参画した政権になぞ頭を垂れる義理はあるまい。
播州の蘇芳は、元より戦国の世を代表する国盗り大名だ。朝廷の権威なぞ端から眼中にはない。それは一代で西国をまるごと切り取った媛司も同じことだろう。
鷹叢は元より宿敵同士なのだから論外。その他の諸侯も今は様子見といった段階だろうが、隙あらば食らい付く腹積もりであることは想像に難くはない。
「けど、そんなことは、はじめからわかっていたことだしねぇ。そもそも、万人総てが納得する形なんてないわけだし? 水面下の不満にいちいち目くじら立ててたら切りがないよ」
「なればこそ、諸侯の反発や不穏な動きを抑えるためにも、殿ご自身の威光を見せつける必要があると私も思いまする」
しかし、その熱弁もこの気紛れな君主の気持ちを動かすことはなかった。
「それこそ蔵馬がいれば充分だと思うけどねぇ。まず奴がいるかぎり都は落ちない。なんせ、あいつは僕と同じく神々の寵愛に選ばれし神座王のひとり。たとえ、十万や百万の軍勢を揃えたって歯など立ちはしない。神の後光の前には、いかなる益荒男とて等しく唯の凡夫に過ぎないからね。と言うより、こちらは正真正銘正当な政権だ。少なくとも表立った反抗に出ることはできないさ。どんなに本心では気に喰わないと思っていてもね」
嵩斎の言い分にも理はあるだけに、泰政もこれ以上何も言えなかった。
確かに、こちらは四条院忠遠からの正式な勅令を以て上洛した。
そして、忠遠が新たな摂権となったことで明確な正当性を得ている。これに異を唱えることは朝敵に他ならない。その愚を諸侯が自ら犯すことはないだろう。
何より、丹囓は"鬼蔵馬"とも称される芦藏最強の兵にして猛将。
嵩斎から、かつては初代・嵩邦公に与えられた称号たる『北国無双』を名乗ることを赦された武勇は伊達ではない。
泰政自身、あれほどの武士が倒されるなど想像もできない。しかし――
「まあ、安心しなよ。上洛はまだしないけれど、僕だって何もしないとは言ってないよ」
その杞憂を嘲笑うかのように主が気まぐれに笑んだ。泰政はたちまち寒気が走った。
「……今度は何をなされるおつもりですか?」
「おや? 珍しくおまえの殿がやる気になってるのに。いかにも嫌そうな貌じゃないか」
「殿が自らそう言われる時は、大抵ロクなことにならぬとわかっているからですよ」
「理不尽な風評被害だねぇ……」
心外とばかりに肩をすくめる主に、泰政は青筋を立てて歯軋りした。
――どの口がのたまいますか!!
この猫のように気紛れな理不尽で、自分も含めどれだけの家臣が振り回されてきたことか! 十本の指ではとても数え切れない!
「遠い都での丹囓様の苦労が、今更ながらに偲ばれますよ……」
「え? そういう方向に持ってちゃうの? まあ、いいけどね。それはそれとして命令だ、泰政」
つれない小姓の態度に首を傾げながらも瞬時に声音の質を変える嵩斎に、泰政も顔を引き締め居住まいを正す。
嵩斎は懐から数枚の書状を出して、泰政の前にばら撒いた。
「殯束淦狗守や宗叵伊鎖守をはじめとした桓東の大名たちへの書状だ。朝廷の印璽付きのね。これらを速やかに届けよ」
「桓東の諸侯たちへ朝廷の印璽付きの書状!? それもこんな時機にでございますか!?」
泰政が仰天する中、嵩斎は顔色ひとつ変えずに言い放った。
「だからこそだよ。今、倭蜃の戦国乱世はひとつの転換期を迎えようとしている。あの若様が悪神の杯を呑み干した時からね。何もかもが、誰も彼もが、大きく動く。大きく変わる。そして、もう二度と元には戻れない。今はまさにそういう時期なのさ」
それは泰政自身も主に及ばずながら察していたことだ。
もはや、半世紀近く小競り合いに終始していた戦乱が、大きな鳴動を蠢かせているのを否が応でも肌で感じている。
思わずゴクリと生唾を呑み込みながらも、ひとつ疑問を口にした。
「それで書状には何と書かれているのですか? 先刻申し上げました通り、桓東の大名たちは我らの政権を実質無視しております。それが今更朝廷の威光を盾にしたとて――」
小姓の疑問に、嵩斎はくすりと笑い。
「なに大したことじゃないさ。加えて勅命なんて大層なもんでもない。言ってみれば、忠言みたいなものだから」
「忠言? でございますか」
「うん。ああ、そうそう。書状は芦藏からではなく、あくまでも朝廷から――忠遠殿からという体裁でお願い。今回も僕たちは、あくまでも高みの見物でなきゃならないからね」
いけしゃあしゃあと言う主に、泰政はまた眉根を寄せながらも気を取り直して首肯する。
「……かしこまりましてございまする」
「いい子だね。うん。下がっていいよ」
嵩斎から促され、泰政は一礼して拝領した書状を携えて退出した。
そして、次に先刻から影のように佇み巌のように黙している全盲隻腕の侍へと視線を向ける。
「リカルド。帰って早々悪いけれど、君にももうひと働きしてもらわなければいけないよ。鬼灯国までお遣いをお願い」
「大樹家の膝元へか? 確かに彼の国は鷹叢家の盟友だが、あそこは古より暗黙の不可侵が定められた永世中立地帯……そんな場所で今度は何を企んでいる」
懲りない子供を叱るような声音で嘆息する天元に、嵩斎はいかにも傷ついたとばかりに芝居がかった仕草でなよなよする。
「ひどい! リカルドまで僕をそんな目で見るんだね! まるで、ひとがいつもロクでもないことしてるみたいに!」
「そういう茶番はもういい。さっさと用件を言え。第一、ロクでもないことをしているのは正真正銘事実であろう」
女人のように頽れてよよと嘘泣く莫迦殿に対し、全盲隻腕の侍は終始辛辣だった。
「つれないねぇ……。まあ、そうだね。些か急ぎの用件でもあることだし。お遊びはこのくらいにしとこう。ただ大したことじゃないさ。既に仕込みは済んでるんだ。君に頼むのはほんの仕上げだよ。で、具体的に何をしてもらいたいかっていうと――」
それを聞いた瞬間、天元はどこか釈然としない表情を浮かべる。
「委細は承知した。だが、それは本来なら久兵衛殿の領分では?」
久兵衛とは、芦藏忍軍・蜘蛛曼珠の頭領・鵜飼久兵衛冥纂のことだ。丹囓が表における嵩斎の片腕とするなら、彼はまさに裏の片腕ともいうべき側近で諜報・暗殺をはじめとした情報工作を担う忍びだ。
天元の言うように、裏方仕事は大抵ならこの男こそが適任であるのだが、挙げられた名に対して嵩斎は首を横に振った。
「生憎と久兵衛たちには別件を頼んでるから動かせない。それで現時点で手が空いてる適任者と言えば――」
「我のみ……ということか。ならば致し方あるまいな。改めて承知した」
そう静かに嘆息して首肯するや、全盲隻腕の侍は陰に溶け込むように足音ひとつ残さず居室を後にした。
居室にひとり残った嵩斎は艶然とした美貌を凄絶な笑みで彩っていた。
「さて。僕も少しは仕事をしようかな。怠けてばかりじゃ、泰政や新・摂権殿に怒られそうだしね……」
くすりと独り言ちり、親指を誰かを招くように引く。
すると、親指から視認することすら困難なほどに極細の糸が複数本射出される。
糸は複雑に絡み合い人型を形成していく。
「さて若様。ここからは僕も少し本気で遊んであげる。君は久々に活きのいい玩具なんだ。くれぐれも途中で壊れないでおくれよ」
昏い熱情を轟かせた声で陶然とする。
そして、そのおぞましい陶酔に呼応するがごとく昏翠の虹彩が十字架の刻印を浮かばせて、輝く。
「我が訴えに応えよ、――『大禍津日神』」
親指に黒ずんだ指輪がまとわりつくように具現化する。
「死糸転生――」
囁きと同時、指輪からどす黒い神気が放出され親指の糸を伝って、その先にある糸人形が染み入るように黒く変色していく。
その様を見ていた嵩斎の艶然とした笑みに獰猛なまでの鬼気が加わり、嗜虐的な形相へと変貌していく。
「さあ、待ちに待った饗宴の時間だ。盛大に催そうじゃないか」
毒蜘蛛が酷薄に嗤う。すべてを嘲弄するかのように……。
遂に動き始めた南應州の太守! 次週、婚約編・完!




