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第弐章 婚約 三 誓い

 御簾におおわれた寝所で、夜着に身を包んだ(おぼろ)はその美貌を枕に埋めて突っ伏していた。その傍らには、樰永から贈られたばかりの牡丹の花簪(はなかんざし)があった。



「どうすればいいんだろう……」


 思わずそんなことを呟いてしまう自分に朧は自嘲した。


 ――どうすればいい、なんてわかり切っている。私ひとりが我慢して武家の娘としての義務を果たせばいいだけ。迷う余地なんてない。今にもセフィロトの軍勢が迫りつつあるのよ。


 そう自分に言い聞かせるように拳を強く握りしめるが、それでも自分が兄以外の男に抱かれるという現実が脳裏を掠めた瞬間に激しい拒絶感が湧きあがる。



 ――いや。いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや! 絶対にいやッ!!



 駄目だと朧は目尻に雫を浮かべて絶望した。


 理性と理屈で捻じ伏せ納得させようとしても、いざ覚悟を決めた途端に感情がそれらを押し流して吼え立て拒む。


 ――けれど、ここで私が我が儘を通せば、殯束(もがりづか)との同盟が壊れる。そんなことこそあってはならない! けれど……!



『言ったはずだ。おまえは俺の唯一無二の最愛だと。俺の隣に立つ女はおまえしかいない。今の世では俺とおまえが結ばれる土台もまたない。だが、だからこそ決して赦されぬというなら赦される世に俺は、いや俺たちで創り変えるんだ。俺たちが添い遂げるのは、冥府でも来世でもなく今世なんだからな』


『はい、はい! 私も兄様と同じ夢を目指したいです! 一緒に叶えたいです!!』


『ああ。その時は、誰にも天にも憚る事もなくおまえと俺は夫婦(めおと)だ』



 都で交わした約束でさえ今は遥か遠くに感じる。たった一月前のことだというのに。


 だが、心が折れかけようとした時、樰永(ゆきなが)の花簪が目に入った。


 最愛の(おとこ)から贈られた求婚の契り(あかし)


 それを見た瞬間、朧の中で再び闘志の火が(おこ)った。


「でも、このまますべてに流されて諦めるのはもっといや。それに――」


 朧は枕から顔を上げ目元の涙を二の腕で拭いて夜具から立ち上がった。


 ――泣く前にすべきことがあるでしょう朧! 婚姻がどうのという以前に、セフィロトが秋羅国(しゅらのくに)に目と鼻の先まで迫ってるのよ。鷹叢の姫としてそれに備えなくてどうするというの!!



「おう。邪魔するぞ」


 唐突に御簾を捲る音と共にそんな無遠慮な声が響き、朧はギョッとなって身を竦めて振り向くと、夜着姿の永久(とわ)がドヤっとした面持ちで入ってくる姿を認めた。


「お、叔母様!?」


「おう。やっぱまだ起きてたか。大方眠れねぇだろうと思ってきてやったぜ」


 ニッと口元を悪戯っぽく綻ばせた叔母に、朧も思わず微苦笑を返した。


 永久はドカッと胡坐をかいて姪の隣に座り込むと、億劫そうに息をついた。


「しっかし、カルドゥーレの野郎もこの上とんだ厄介事を持ち込んでくれたもんだぜ」


「え? 叔母様は、殯束家との盟に反対なのですか?」


 朧が怪訝に思い訊ねると、永久はあっからかんな声で答える。


「そりゃ俺だって友軍が増えることに異議なんざねぇさ。けど、そのためにおまえが身売りするってえのには正直賛成できねぇな」


 朧はドキッとするが、貌には出さず努めて平静な声音で叔母をなだめるように口を開いた。


「身売りだなんて……。私だって武家の娘です。覚悟はできていまふぅっ!?」


 しかし、最後まで言いきる前に両頬を引っ張られ噛んだ。


「おー! おまえのほっぺ本当に柔らけぇなあ。羨ましいこった」


 ニヤニヤしつつ姪の頬を私物化する永久。


「もうー! やめてください! いきなり何するんですか!?」


 頬を引っ張る手をどうにか振り払い素っ頓狂な声を出す朧に、永久は優し気な笑みを浮かべて、その頭をポンポンと撫でた。


「? 叔母様……」


「あんま突っ張んな。いやならいやだって言やぁいい。なんせ、おまえの一生に係わる問題だ。周りに流される形で決める必要なんざねぇ」


「っ!」


 思わず再び涙が込みあげそうになるのを寸前で堪えた。


 ――本当に、このヒトは普段はちゃらんぽらんな癖して。肝心なところでどうしてこう唐突に染み入るような言葉をかけてくれるんだろう……。


 そんな姪の心境を知ってか知らずか、永久はその背をポンポンと叩きながら、普段に似合わぬ穏やかな声音でこう続けた。


「まったく、おまえにしても樰永の莫迦にしてもだ。もう少し俺や兄者に義姉者たちに頼ってくれたっていいんだぞ。跡取りだ、武家の姫だと格好つけんのもいいけどな。その前におまえらは、俺のかわいい甥と姪で、兄者たちのかわいい子供(ガキ)だってことだけは忘れんな。啓益(よします)のようにうるさく言ってくる奴もいるけどな。俺らの前でくらい弱音を吐いたっていいんだ。おまえらの好きにしたっていいんだ」


 そう続けられた言葉でもう限界だった。朧の大きな瞳から雫が湧き出てたまっては、止めどなくこぼれ落ちた。


 ――私と兄様には、こんなにも優しい人たちがいる。なのに私たちはそんな人々を裏切ろうとしている……! それだけがこんなにも心苦しい。


「おい、おい、泣くほどいやだったのかよ。それなら最初からそう言え。そんなだから啓益のハゲを付け上がらせんだぜ」


 突然、自分の胸で泣き出した姪を呆れた声であやす叔母に、朧は首を横に振った。


「違うんです。ごめんなさい……。これはそうじゃなくて」


 ――けれど、やっぱりこれだけは譲れない。


「叔母様、ありがとうございます。もう大丈夫です」


 叔母の腕からすり抜けるとおもむろに立ち上がる。


 ――ありがとうございます、叔母様。そして、ごめんなさい。改めて心は決まりました。いつかこの優しい人たちを傷つけることになるとしても、兄様と結ばれる夢を諦めない!!


「叔母様、明日父様に返事をします。そして、聞いて欲しいことも」


 ――そして、この秋羅国にも決して手出しはさせない! 戦わずして何ひとつ諦めて堪るものですか!!

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