第弐章 大蜘蛛の巣中 一 芦藏氏
南應州、『羽蝉国』
西界に繋がる海を持つ北應州の秋羅国と三つほど国を挟んで、国境を接する国土のほとんどが極めて峻厳な山国であり、南應州八ヵ国の覇者『芦藏氏』の本拠地。
元来、彼の国は豊富な岩塩と翡翠の鉱脈を持ち、黄金や銀を産出する秋羅国とともに貴重な資源国として重宝されていた。
そもそもこの二国を含む應州十六州は、他の武家と比べてもより濃く妖と人が交わる未開の天地であり、中央からは彼らのことを蔑みを込めて『蝦夷』もしくは『俘囚』と今に至るまで呼んでいる。
初期王朝時代までは彼らの自治に任せることで、それなりに慎重な統治が為されていた。
しかし、王と王家が滅び、王制から上級臣下であった公家たち。殊に王亡き後の事実上の君主『摂権』を中心とした合議制――『公家摂権時代』に移行すると、支配と搾取は一層苛烈となった。
そもそもが広大にして肥沃な土地、そこからとれる黄金に銀、岩塩、翡翠、名馬、特殊な龍脈、その龍脈によって変容した妖鉄など、欲深い魑魅魍魎どもが着目しない道理はなかった。
無論、これに抵抗しない應州の民たちではなかったが、流石に中央との軍事力の差は大きく永きに渡る服属を余儀なくされていた……。
やがて公家の力が衰え、その番犬に過ぎなかった武家がその武力を背景に政治へと介入する時代が到来すると、同様に力をつけはじめた豪族のひとりであった芦藏嵩邦という武将が羽蝉国で台頭し、彼の国を実質的に支配した。
まず嵩邦は、国全体が天然の要害であることを利用して、国そのものを巨大な山城そのものへと作り変え『羽蝉城』と称した。
この空前絶後の巨城は、舘・堀・土塁・曲輪などの位置が緻密かつ高度な守護結界の陣を形作っているため、物理的な防御力のみならず魔術的な防御力も高く、先の大君家も攻め落とし切れなかった倭蜃最大にして難攻不落の城国である。
特に、中枢たる本丸が存在する芦藏の都ともいえる城下町『厨子』は当然ながら羽蝉城の中でもさらに守りが堅い。
また、軍事要衝としてのみならず、初代・嵩邦の代から岩塩と翡翠による交易により栄えて来た應州最古の商業都市でもある。
ここを拠点に芦藏は、国力と兵力を蓄え應州全土(ただし貴重な神森を持ち、古来より中立性の高い鬼灯国は除く)を支配圏に置くほどの勢力を誇ったが、先の大君家との戦に敗れたことで、その広大な版図も羽蝉一国を除いてすべて召し上げられ凋落する。
が、やがてその大君家が失墜の兆しを見せると、隠し研ぎ続けていた牙を剥き出しにして反旗を翻し、瞬く間にかつての領国を次々と回復せしめた。
しかし、乱世となった今日……力を蓄え牙を研いでいたのは彼らだけであるはずもなかった。
北應州に属する秋羅国で太守として台頭した鷹叢家もまた彼の地で覇を唱え、北應州七ヵ国を掌中に収めた。
以来、南應州の芦藏と北應州の鷹叢は、不俱戴天の仇ともいうべき間柄となって、二十年に渡って今に至るまで、應州の覇権を巡り争い続けている……。
そして現在、その二大勢力の一雄、芦藏氏はというと………。
芦藏氏十七代当主、芦藏頼嵩が逝去したことで南應州は喪に服していた。
今は嫡子の嵩斎が名代として政務を執行しているが、そもそもここ五年程前から大抵の政務はこの若殿がこなしており、ほぼ実質的な当主は既に嵩斎であったと言える。
そして、喪が明ければ改めて名実共に十八代当主として君臨するだろうことは、家中も領民たちも暗黙の了解事項であった。
現在厨子は、事実上の現当主・嵩斎が、若殿時代から着目していた南方地方『久州』が一国、刑部国の特産工芸品である切子硝子細工『刑部切子』を独自研究して編み出した『羽蝉切子』の興業によりその財源はさらに潤っており、品質も羽蝉独自の発展を遂げ、生産も本場の刑部国に数年で追いつき並ぶほどとなった結果、『海と黄金の都』と称される最新の近代都市『黄泉』に対し、『塩と硝子の都』と讃えられ並び称されるほどの豊かな都市となっている。
前当主の喪に入っている羽蝉城の本丸に、明らかに倭蜃の楽器とは異なる音色が城郭そのものを揺らすがごとく響いていた。
それは、まるで大地そのものが厳かな歌声を咆哮しているようであり、あるいは静寂に悼み哭いているようですらあった。
この音の正体は、倭蜃国でも知る者はいまだ少ないが、これは西界の国々の楽器の一種で、鍵盤と呼ばれる鍵で多数の管に空気を送り込むことで音を奏でる管風琴と呼ばれるものだ。
嵩斎は、西界の珍品に目がない好事家でもあり、幼少時から西界の品々にまつわる書物を収集して研究しては、あらゆる職人に作らせていた。
この管風琴もそのひとつだ。
音色の根源は、嵩斎が自ら設計し、本舘と渡り廊下で繋がる形で新たに増築させた八角円堂だ。
一見すると外観は、倭蜃古来の扶桑京で見られる寺院の伽藍洞を倣ったものなのだが、その内観はそれとは似ても似つかぬ一風変わった一線を画す様式をしている。
まず特徴的なのは、羽蝉切子によって造形された夜空と星々が描かれたステンドグラスが張られた天井で内部も西界風の様式で聖堂のような造りとなっており、数百冊程度の書が収められた書棚と、中央に先刻から城郭を震えあがらせている管風琴が設置されている。
これを奏でているのは、薄衣の着物の上に西界の外套を羽織った出で立ちで、白に近い紫の総髪をなびかせた線の細い華奢な印象の青年だ。
その面立ちは中性的で男性とも女性ともつかぬ妖しい美貌を誇り、その昏い翠の双眸はどこか浮世離れした恐ろしさが宿っている。
細い指が奏でる曲調はひたすらに荘厳で冒し難い畏怖を湛え、その妖しい魅力を彩っていた。
しかし、その音は突如決壊するがごとく途絶える。
それを傍に控えていた、ひとりの少年武士が怪訝な顔で尋ねた。
「どうなされましたか殿?」
すると、管風琴の奏者は顔だけ振り向いた。その昏翠の瞳は、十字架の刻印を発現させて発光している。
「殿!? それは――」
それを見てとった少年武士は、俄かに立ち上がりかける。それを制すように奏者は極めて典雅な声音でつぶいた。
「……………泰政。今、北で大きな何かが目覚めたよ」
「北で? と申しますと、鷹叢の者どもの地でございまするか」
少年武士――信井泰政の声に否応なく剣呑な鋭さが宿る。
だが、対する主はというと子供っぽい、それでいて残忍さすらともなった微笑を浮かべる。
「……なかなか面白いことになりそうだ。少しちょっかいをかけようかな?」
「殿。恐れながら今は亡き大殿の喪中にございますれば……!」
主の言葉に泰政は慌てて諫める。
「別に戦なんて仕掛けないよ。そもそも僕自身が表立って動きゃしないさ。ただ手持ちの玩具で、ちょっとしたほんのお遊びをしようってだけ……」
「残酷なことを………」
泰政は呆れたようなそれでいて悲しげな声で嘆息をつくが、当の主はまるで小揺るぎもしない。
「ありがとう。それは僕にとって最大の誉め言葉だ」
管風琴を奏でていた右手の指で鍵盤を叩くような動作をすると、その先から見えぬほどに細い無数の糸が放出され、円堂の外からどこまでもかぎりなく伸びていき、やがてピンと張りつめた。
「さて……。鷹叢の奴原は、どんな悲鳴を奏でてくれるのかな? 実に愉しみだ。そう思わないかい? ねぇ、泰政」
「嵩斎様……」
嫣然とした笑みすら浮かべる主――芦藏嵩斎を、泰政はこの上もなく複雑な眼で見るしかできなかった。