第弐章 婚約 一 焦燥
軍議の後、日は疾うに沈み宵闇の帳が深く降りた刻限。
裏庭の縁先に腰掛け、樰永はその心を大きく乱していた。
その理由はもちろん知れたことだ。
カルドゥーレが提案してきた殯束家との同盟。
どうやら、宦官との話を付けたその足でカルドゥーレはそのまま淦狗国へと赴き、彼らとも盟約の交渉を持ち出したらしい。
当主の光昶は気のない返事だったのだが、意外なことに嫡男の尊昶が乗り気でセフィロトの件を話しても、それは鷹叢のみならず倭蜃国全体の国難だと助力を惜しまぬと明言してくれたそうだ。
あの実直な若武者の人柄ならさもありなんと樰永も納得した。
それはいい。ただでさえ数も戦力も劣る状況下なのだ。友軍は多いに越したことはない。
だが、そのための条件は樰永にとって断じて受け入れ難いものだった。
『殯束家嫡男・尊昶殿と当家の姫・朧様との婚儀を申し込みたいとの由にございます』
カルドゥーレの口から放たれた知らせに対して、鷹叢家中の反応は困惑しながらもおおむね好意的とすら言えた。
あの啓益なぞ「それはまさしく吉報。是非にも今すぐ進めるべきお話かと存じまする」と進言したほどだ。
無理もない。絶望的な戦力差に途方に暮れる中でもたらされたこの申し出は、まさに烏羽玉の闇に差し込んだ一筋の光明に他ならないのだから。
北桓東を支配する殯束家は、初代筆頭管領を務めた識束家から枝分かれした桓東管領を務める名門武家だ。
また鬼神の血を引く鷹叢家に対し、殯束家は鬼神と同等の力を持つ妖魔『大天狗』の末裔でありその力は凄まじい。
本拠地にして桓東の入り口である淦狗国は、扶桑の都や鬼灯国などに次いで龍脈が活発な山国で天然の結界そのものであり、大天狗の力が最も強大になる土地だ。ついで岩塩と碧玉や黒曜石などの希少資源にも恵まれ、殯束最大の財源といっていい。
また、その隣国にして同じく領国である鵡叉国は、肥沃な穀倉地帯であり良質な米や麦といった穀物に恵まれ、海と面しているため海の幸も豊富など倭蜃でも五本の指に入る豊かさを誇り兵糧にも事欠くことはない。
肝心の軍備も、淦狗の山国で鍛えられた強健を持ち、致命傷を得ようとも生命力が尽きるまで再生し、決して倒れず敵目掛けて駆け続ける『黒駒』の名の通り黒い体躯の妖馬による騎兵隊はその質と練度も半端ではない。
鵡叉の海には、妖鯨を使役した水軍が守護し、過去には彼の上條水軍を破ったこともあるなど名門の名に恥じず国力や財力のみならず兵力も強大無比かつ充実している。
さらに止めとばかり、殯束最強にして最速と謡われる妖鳥・大鵬による航空騎兵が北桓東の空を押さえている。その機動力と制空力はホドの飛竜による航空騎兵に対抗し得るものとなるだろう。
ましてや、そこに同じく神座王である尊昶が加われば、まさに鬼に金棒もいいところだ。
さらに言えば、桓東管領の名門にして北桓東五ヵ国を支配する大大名でもある彼らと婚姻関係を結ぶことは、より鷹叢を天下へと近づける一助となろう。
殊に、殯束の領国は天畿の入り口たる蓮杖国と隣接している。つまりこの婚姻は、都の喉元を労せず取るに等しい妙手なのだ。
はっきり言って、ほとんど利益しかない。
だが――
「冗談じゃないッ!!」
樰永はひとり、横の木柱に拳を打ちつけて激情を吐き捨てる。
だが、すぐに気を落ち着けるように努める。
――感情的になるな。今こそ冷静になれ。皆が言うように同盟自体は悪い話ではない。むしろ、俺とて願ったり叶ったりだ。今回はそれだけやばい。
そう。樰永とて馬鹿ではないどころか並外れて聡明だ。
敵はこちらの二十倍以上もの戦力を保有する軍だ。加えて航空騎兵であるセフィロト軍に対し、こちらの主力たる騎兵十七万騎は樰永の愛馬にして天馬である赤羅を除いて飛空能力がないときてる。
このままでは、遥か高みから嬲り殺しにされるのが目に見えている。
そこへ将にして神座王であるアイアコスが加わるとなれば、なおのことだろう。
――そんな窮状で、殯束の申し出がどれほどの僥倖かわからないわけじゃない。家臣たちも、領民たちも安堵するだろう。
だが――と、樰永は拳を爪がめり込み血が流れることも厭わず握りしめる。
――そのために提示された対価だけは断じて受け入れられない!
樰永の目的は、天下を一統し新たな武家政権を創建するだけではない。何物にも代え難い最愛の妹と誰憚ることなく結ばれることだ。
しかし、殯束からの申し出はそれを根底から瓦解させるものに他ならない。
――無論。それは俺と朧だけの問題だ。殯束は言うに及ばず、鷹叢の家中にとってもそんなものは関係ない。お互いに利益しかないのだから当然だ! ちくしょうめ!
いくら冷静にと自省しても、湧き上がる焦燥と怒りは込み上げてくるばかりだった。
――考えろ。考えるんだ! 朧との婚姻以外で俺たちと殯束が盟を結ぶに足る理由を! 應州も、天下も、そして、朧も決して諦めない!!
「ふむ。思った以上に懊悩していますなぁ若君」
決死で巡らせる思考へ水を差すように、その原因をもたらした張本人が、朗らかな面持ちと声で縁側から樰永のちょうど右横に立つ形で現れた。
「……カルドゥーレか」
こんな時によりにもよって一番会いたくない顔だった。
それ故に樰永の声も自然と剣呑さが宿る。
「何の用だ」
「はてさて、何の用も何も。おそらくは十中八九荒れていらっしゃるだろうと愚考しましたので、こうしてご機嫌をうかがいに参ったのですが、案の定だったようですね」
一方のカルドゥーレは、その刺すような声を意に介すことなく歩み寄りながら、見下ろす形でいつもの余裕に満ちた微笑を浮かべるばかりだった。
その態度に樰永はますます神経を逆撫でさせられた。
だが、そこで不意に首を傾げた。
――おそらく? 十中八九だと?
その言い方は、まるで自分がこの同盟に自分が不服を感じていると、決めてかかられているようではないか。
だが、樰永はそんな疑問をおくびにも出さず、極めて平然とした態度と面持ちを装い問い返した。
「おかしな物言いだな。何故、俺が荒れていると? 確かに敵の数と戦力は圧倒的だが、頼もしい友軍を他ならぬおまえが紹介してくれたばかりだろうが。それがなんで悲観する理由になる。第一、戦う前から俺は何ひとつも諦めるつもりはない」
だが、商人こそその張りついた笑みを微塵も崩すことはなく、ワザとらしい仕草で首を横に振る。
「いえ、いえ、そちらこそ回りくどいことは、この際無しにしましょう。あなたが荒れている理由はそんなことではないでしょう」
「おまえが言うか、その台詞? というか、俺が荒れている前提で勝手に話を進めるな。そもそもそれが事実だとして俺が何に怒っていると――」
樰永は顔色ひとつ変えず、商人の追及を一蹴しようと平淡な言葉をつらつらと吐き出すが、それを終える前に、容赦のない鋭い一突きを商人は繰り出した。
「御身がまことにお怒りになっておられるのは、妹御の婚姻という条項でしょう」
一瞬、思考が停止して相貌が蒼白に染まりそうになるのを懸命に堪えた。それから先は頭の芯を瞬時に冷やして「馬鹿らしい」と一蹴しようとするも、商人の剣の方が遥かに速かった。
「あ、別に言い訳は結構ですよ。淦狗国の温泉におけるお二人のやり取りは、使い魔を通してすべて拝見して拝聴させて頂いたので」
ご丁寧に挙手をしてあっからかんと言い放たれ、今度こそ樰永は愕然と顔を歪めることを禁じ得なかった。その上――
『事実なのですよ。この男、遠見の魔術で常にこちらを監視してやがりました』
と、腰の相棒からもとんでもない一言がぶち込まれ思わず声を荒げそうになったが、その前にアフリマンがいつになく神妙な声で詫びた。
『申し訳ないのです。主には折を見て話すつもりでしたが、この男の真意がいまだに判然としないところがあったのでしばらく様子見をしていたのですよ。それに少なくとも、この男にユキナガとオボロを強請ろうとか、まして周囲に暴露しようなどという考えはないとも判断しましたので……」
相棒の言葉に「本当かよ……」と疑わし気な視線を眼前の商人に注ぐが、当の本人も「ええ。その通りですよ」と鷹揚にうなずいて流れるように謝罪の言葉を述べる。
「失礼。気を悪くなされたのなら幾重にもお詫びします。ただ私としても、商談相手のことは一通り把握しておきたかったので。他意はありません」
のうのうと吐くにやけ面を今すぐぶん殴りたい衝動に駆られるも、樰永は懸命におさえた。
――落ち着け。落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け。もうすべてをこいつに知られてしまっている。あのやり取りを見聞きされたのなら、今更どのような取り繕いも通用しない!
樰永は、混乱と焦燥に思考を絡め取られるのを懸命にせき止め、打開策を捻りだそうと頭を回す。
だがそれを知ってか知らずか、当のカルドゥーレはいかにも無害そうな微笑でとりなすがごとくのたまう。
「まあまあ、そう警戒なさらないでください。アフリマン神もおっしゃられましたが、別に脅迫しようなんて話じゃありません」
「まるで信用できねぇな」
「親子揃って容赦ありませんなぁ」
にべもない即答に苦笑する商人。それが一層樰永のいらだちを煽った。
「それで――今回の朧の婚姻は牽制のつもりか?」
「牽制とは?」
そこで惚けてみせる商人。憎たらしさが数倍は増した。
「~~~っ! 取引相手がよりにもよってこんな醜聞を抱えてるなんて問題外もいいところだろう。だから――」
ぶっきら棒に推論を吐き捨てる若武者に、商人は――
「おや、おや、実の妹君に手を出そうという割にはずいぶんと生真面目なことですね。生憎と別にそういう話がしたいわけじゃないんですよ」
「っ! それ以外に何がある」
さっさと本題に入れとばかりに噛み付く樰永だが、対するカルドゥーレは眉ひとつ動かす様子もなく、泰然自若とした態度や微笑に些かの瑕瑾もない。
そして、笑みを形作る口唇から典雅な声を出す。
「いえ、別に構いませんよ」
「なに?」
「商談は商談。色恋は色恋。ソレはソレ。コレはコレ。私も私生活にまで物申すような野暮ではありませんよ」
あっさりと事もなげに言う商人に、樰永はさすがに戸惑いを隠せぬ声を出した。
「おい、自分が何を言ってるかわかってるのか? はっきり言って俺が言うことじゃないが、おまえ自身の命運すら賭けた商談に、こんな不安要素どころか致命傷になりかねない引火すれすれの火薬庫をわざわざぶち込むと言ってるんだぞ」
それは、もはや危機管理以前の問題だ。今、自分と朧の関係が表沙汰にでもなれば、すべてが破綻する。それを理由に芦藏へと寝返る国人とて出るだろう。
いや、それどころか芦藏と結託した四条院によって世を乱す朝敵として断罪されかねない。
そうなれば、カルドゥーレが言うところの"新天地"という名の商談とてご破算ではないか。
「ええ。まさしく御身が言える台詞ではありませんね」
不意に鋭い返しを喰らい、途端に樰永はバツが悪い顔になってうつむいてしまった。
そんな若殿の様子を、商人は微笑ましいものでも見るように視線を鋭いものから一転して柔らかいものへと切り換える。
「何はともあれ若君。これからのことを話しましょう。何より、あなたは他にもっと聞きたいことがあるはずだ。例えばそう。あなたと姫君の気持ちを知りながら、何故に此度の縁談を持ち込んだのか? とね」
樰永は、貌に怒気による朱を差しながらも拳を強く握ることで感情の激発をおさえた。
「そこで激昂しないところはさすがと申し上げましょう。さて、肝心の疑問にお答えしますが、まずひとつ。これは私なりにあなた方へと出す課題です」
「課題だとっ?」
樰永が気色ばんだ声音で反芻する。
「ええ。古今東西、恋に障害は付き物というでしょう。障害が至難であればあるほど、その芳しくも狂おしい焔もまた鮮烈に燃え上がる。言わば、これは私からの餞と思ってくだされば――」
いけしゃあしゃあと鳴らされる言の葉は、突然の抜刀音と刺突音に掻き消された。
反射的に口を閉じた商人は慌てることもなく平然とした視線を、己の首スレスレでアフリマンの刃を後ろの漆喰に突き刺す若殿の姿へと注いだ挙句に苦笑すら浮かべてみせた。
「やはり、妹御のことになるとまだまだ沸点は低いようですね」
「うるせぇ……。俺たちは、てめえのための見世物じゃねぇ」
溶岩のように轟く憤怒を滾らせた声で威嚇する樰永に、カルドゥーレは軽く肩をすくめて話を続けた。
「まあ、お望み通り冗談はさて置きまして。そして何より二つ目の理由ですが、率直に申し上げて今のままでは鷹叢家は滅びます」
先刻とは打って変わってまともかつ率直すぎる理由に、樰永は面食らった顔で目を見開き、刃を引いて鞘に納めた。
「ぶっちゃけて言ってくれるな……。その理由は兵力や戦力差に加えて、俺と朧が刻鎧神威の力を使いこなせていないからか」
樰永の答えに、カルドゥーレはいつになく厳粛な面持ちで首肯した。
「然り。対するアイアコス卿は帝国でも指折りの神座王として数えらている上、一軍を率いる将としても破格。十代の若さで"セフィロト随一の戦上手"と謡われるほどの名将でございますれば」
「ああ、それは俺も都で共闘した折に嫌というほど思い知らされたさ。あれほどの戦巧者は倭蜃でも片手で数えられるかどうか……ん? 十代?」
そこで樰永は不意に先刻のカルドゥーレの言葉を耳聡く聞き付け、思わず反芻した。
「ああ。申し上げ忘れましたが、アイアコス卿はああ見えられて御身と同年の十七歳にございます」
「なっ! 俺と同年だとっ!? あの図体でか!?」
何でもないことのようにのたまわれた意外な新事実に仰天する若殿へ、カルドゥーレはクツクツと笑いながらうなずく。
「ええ。下手をすれば、私と同年かそれ以上に見られることもありますな」
樰永は開いた口が塞がらぬと呆気に取られた。
――まさか、あれほどの男が同い年とはな。西界とはまったく恐れ入る国だ。
「まあ、それはそれとして本題に戻りましょう。それに加え、此度の戦には芦藏と新摂権殿も何らかの形で介入してきましょう」
「だろうな。あれほどの奸物どもがこの機会を逃すはずがない」
樰永も忌々し気に同意せざるを得なかった。
「だからこそ、切れる手札は多いに越したことはないでしょう」
それは樰永自身も思っていたことだ。それはそうして指摘されずとも、もちろんわかっている。わかっているが!
そんな若殿の激情を諭すように、商人は冷ややかさすら含んだ声音を容赦なく鳴らす。
「断っておきますが、私がこの件を持ち帰らずともこういう話は遅かれ早かれ出ていたでしょう。いや、たとえこの件をやり過ごすことができたとしても、これから先も同様の話はいくらでも黙っていても出てくる。古今東西、貴人の姫君とはそういうものです」
「わかっている!!」
遂に感情を暴発させる若殿を前にしても、商人はなんら臆することなく静かに見つめ返して淡々とした声で諭すように述べる。
「これは必然の試練ですよ。若君。あなたがその恋を押し通そうとすればするほど、世界は容赦なく牙を剥く。異端を決して赦さぬとね。あなた方が行こうとしているのは、そういう道です。芦藏やセフィロトばかりではない。父母や家臣、鷹叢の領民たちさえもが、あなたたちの敵だ」
改めて容赦なく突き付けられる現実を前にして、樰永は顔を歪め歯噛みする。
だが、燻ぶる激情を抑え込むように握り拳を作ると、それで己の右頬を殴り抜いた。




