第壱章 鬼神戴冠 五 鬼神登極
だが、ようやくたどり着いたその先の答えを遮るようにして再び場面は反転する。
今度は自分たち兄妹にとって姉代わりであり師匠とも言えた女性の顔と言葉が甦る。
彼女は、西界の国から武者修行で秋羅国に流れ着いた女武芸者で。自分たち兄妹にも剣の修業を付けてくれたのみならず、色々なことを教えてくれた恩師であり姉のようなヒトだった。
俺が、あの騒ぎを起こしてふてくされていた時も、あの女は穏やかな声で諭してきたっけ。
『おまえがどれだけ妹を可愛く愛おしく想っていたとしても、ずっとおまえの手元に置いておけるわけじゃない。いつか巣立つ時は必ず来る』
――言われなくったって、わかってる。そんなことは……。あいつがこれから先取る手は俺じゃないってことくらい……!
『おまえだって、あの子を籠の鳥にしたいわけではあるまい』
――だから、わかってる! 俺だってそんなもの望まない!!
『樰永、おまえは百年……否、千年に一度と言ってもよい破格な王器の持ち主だ。それこそ我が国の王女にも見劣りすまいよ。おまえならば、この群雄がひしめき合う乱世を治め倭蜃の王となれるだろう。悠永公や月華様は言わずもがな、鷹叢の郎党たちもそれを期待している。それを裏切るような真似をするな』
――裏切るだって? ああ、わかってるよ! この気持ちが皆を裏切ることになることくらい! だから、言われるまでもなく押し殺してんだろうが!!
だけど――消えない! どれだけ駄目だと思っても、忘れようとしても、他の女に乗り換えようとしても、どうしたって消えてくれねぇんだよ!! こんなのどうしろって言うんだよ!? 塵も残さず消える方法があるって言うなら誰か教えてくれよ!!
『どんなに想っても叶わない――叶えてはならない想いもあるんだ。為政者となるならば割り切れ』
――叶わない? 叶えてはならない? 割り切れ?
何のために? 誰のために?
国のために? 民のために?
諦めて嘘を吐き続けて、自分も周りも騙し続けろっていうのかよ? ずっと?
ああ、それが正しいことだってことはわかっている!
俺は武士だ。武家の棟梁たる大君となって倭蜃の一統を目指す男だ。
その大義のためならば、あらゆる犠牲を払う覚悟がある。また、そうでなければならない。
そのはずだ……。
――ふざけるな……!
途端に炎熱のような怒りが湧きあがった。
叶わない? 誰が決めたそんなこと!
叶えてはならない? 知ったことか、んなもん!!
割り切れ? それができてりゃ、苦労なんざしてねぇよ!!
妹を女として愛して悪いか? ああ、悪いだろうさ!!
けど、しょうがねぇだろ! 生まれてこのかた心底惚れ抜いたのが、たまたま妹だったってだけなんだから!!
この想いに生涯蓋をして己を騙し続ける生き方が、俺の士道か?
否! 断じて否だ!!
己の想いを前に退かない! 曲がらない! ただ真っ直ぐに疾走りぬく!! たとえ、それが天に叛くことだとしても!!
それこそが鷹叢樰永の士道であるはずだ――!!
そう思い定めた瞬間に樰永の自我は過去の渦から抜け出し、再び"悪業大災"の御前へと舞い戻った。
だが、先刻とは比べ物にならぬ確固たる覚悟と存在をもって――
『貴様……!?』
"悪業大災"の声に若干の驚愕があった。樰永はそれを感じ取ってか嘲るように嗤った。
「この上もなく意外だという声だな? 悪神の王よ。そんなに俺が此処へ舞い戻ったのが不思議か? まあ、そうだろうな。正直に言うと、俺ももう駄目だとすら思った。だが、おまえのいう"魂から吠え立てる願望"を改めて自覚してしまった今、俺はなおのこと死ねない!!」
『では、その願望とやらを吠え立てて見せよ人間。だが、またつまらぬ虚偽であれば、その魂魄、二度と転生できぬように噛み砕いてくれよう……!!』
その声と言葉は決して脅しではなかった。
もしまた答えを間違えれば、この身を今度こそ跡形も、いや塵と芥すら残さず滅ぼすだろうと樰永は確信していた。
だが、恐怖などない。ただようやく気づいた当たり前にすぎた答えを告げるだけなのだから……。
「改めて答えよう悪業の神よ。俺が、この魂から欲する者は朧だ。俺は朧を"妹"としてじゃない、"女"として愛している! 俺は朧のすべてが、朧の何もかもが欲しい! これが俺の本気の願いだ!!」
その答えに"悪業大災"はしばし沈黙していたが、やがてその威厳そのままの声を発した。
『……それが何を意味してるか汝は理解しているのか?』
「無論だ。この想いが異端であり禁忌であることなど俺が誰よりも一番よく理解している。だがこれ以上は己を、我が魂魄を、ごまかすことなどできない。天に叛くことになろうとも、この想いだけは叛けない」
『余人は理解すまい』
「知ってる」
当たり前だ。そんなものは最初から承知している。
『世界のすべてから詰られよう』
「だから何だ。元より俺はすべての物から朧を守るつもりでいる。そんなものは今更だ」
元より、その覚悟なくして朧を女として愛する資格なぞあるものか!
『……汝の覚悟は解った。が、その願望をいかなる理でもって為すか?』
逃げ道を赦さぬ問い掛けに、若き武士は迷うことなく即答した。
「だからこそ俺はこの国を一統する。倭蜃を統べる武家の王に、大君となる! そして世の道理を変えてでも俺は朧と添い遂げる!! 国の棟梁たる俺が望むのだ。であれば叶わぬ道理などありはしない!!」
『……………………………………………………………………………………………………………………………』
その宣言に対し、"悪業大災"は絶句したのか、言葉にならぬわずかな呻き声を漏らすのみだった。
もしかすれば呆れ果てているのかも知れなかった。
それも道理だろう。このような答えは子供の我が儘以前の幼児の駄々と謗られるべきものだ。
だが、樰永は微塵も後悔はなかった。
今、示せる偽りのない答えなどこれしか思いつかなかったし、真実これこそが己の気持ちなのだから。
「これが、貴様の意に添わん答えだと抜かすならそれでも構わん。だが、これが俺の偽らざる願いだ。これを虚偽と断ずることは、この俺が断じて許さん!!」
たとえ今この瞬間に、この命を芥のごとく刈られようとも、決して譲らぬという覚悟で咆哮する樰永に対し――
『……くはっ! くはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははっ!!!』
轟音のごとき大爆笑が木魂した。
樰永は、これにまたも心外だとばかりに怒鳴る。
「な、なにがおかしい!?」
『くはははははは……! "何がおかしい"かだと? 汝これを、本気かつ無自覚で抜かしているのであれば、相当な阿呆ぞ!』
「ほざけ……。阿呆なことを言っているのは俺が誰より自覚している……」
『しかし――我を前にかような阿呆を吠え立てた愚者はいまだかつておらぬ』
「……それ絶対に褒めてないだろ。むしろ莫迦にしてるな」
『然り。汝は莫迦で阿呆だ』
樰永がジト目でいじけると"悪業大災"はしれと肯定する。
『しかし、最高の莫迦で最高の阿呆だ。うむ。きっと汝になら―――』
「その口ぶりからすると俺は"合格"ということか?」
樰永が半信半疑な声音で問うと、魔神は肯定の意を返す。
『然り。汝を我が王……神座王と認む』
「あまでうす? 何だ。それは?」
聞いたこともない単語に頭を捻る樰永へ、悪神の王は笑みを含んだ声音で答える。
『"神々に愛されし者"という意味だ。人の身で神の威光と権能を振るうを赦された、超越の王者。我が愛しの王よ』
そこで魔神は再び声音を低くして主と認めた少年へと警告を発する。
『これより汝が手にするは、凡百の有象無象どもを寄せつけぬ世の道理をも捻じ曲げ書き換える、絶対王権。一度手にすれば後戻りはできぬ。これまでのような只人ではいられぬ。善くも悪くもな』
「だろうな……。こうして対峙しているだけでもおまえのやばさが善くわかる」
樰永もいつになく殊勝な面持ちでうなずく。
『その上で最後の問いだ、我が王よ。汝、我が杯を呑み干し、この王権を望むや否や?』
だが、樰永の心は既に決まっていた。
「何を今更。俺の望みは先に言った通りだ。それを叶えるためには、どうあってもおまえが必要だ。故に俺の返答は疾うに決まっている」
深呼吸して大きく息を吐き出すと右手を差し出して、相棒となる魔神に請う。
「望もう。その王権をもって俺は倭蜃を一統し世界を変える。そして、冥府でも来世でもなく今世において俺は朧と添い遂げる! 我に汝の杯を捧げよ! "悪業大災"よ!!」
『我も改めて此処に誓おう。我が身命、我が力を汝に捧ぐことを。鷹叢樰永、我が唯一無二の君主よ。汝に永続の忠誠を――』
瞬間――差し出した右手を誰かに握り締められる感触が走ったと思うと、樰永の意識は再び暗転してゆく……。
触手は絡めとっていた樰永を解放した。
「兄様!」
兄が解放されたのを見るや、朧はすぐさま駆けだして抱き締めた。
「よぉ……朧。ただいま……」
樰永は、さすがに疲弊した様子で妹の頭を撫でて挨拶する。
「"ただいま"じゃありません! お願いだから心配させないでください……! 心臓が、とても持ちません……!」
「いや、本当に悪かった。けど今回は不可抗力……朧!」
しかし、そこで樰永は即座に朧を背にする。何故なら例の刀から再び触手が出現したからだ。
だが――やがて触手は一本だけ伸びて樰永の頬を優しく撫ではじめた。
「……!」
先刻とは打って変わった様子に樰永は戸惑うが、やがて黒い触手の群れはその姿を収縮していく。
やがて、それは、少々肌の露出が目立つ身体の凹凸の曲線が際立つ黒と白を基調にした衣を纏った、白金のストレートロングに黒曜石のような瞳、額や頬から身体にかけて濡れ羽色の刺青が施された美貌の少女へと姿を変えた。
外見の年齢は樰永と大差はないだろうか?
黒曜石の双眸はまっすぐと樰永へと注がれている。
「この子は……?」
朧がキョトンとした声で呟くと、カルドゥーレが代わって答える。
「アフリマンの本体……でしょうな」
「この娘が……!?」
カルドゥーレの言葉に悠永は茫然と眼を瞠った。
「お、おまえは……?」
当の樰永も目の前の少女に戸惑った声を出すも、少女の方は毅然とした瞳を樰永に向けはっきりと言った。
「――ユキナガ。あなたをわたしの王にえらびます。わたしの杯はあなたのもの……」
その宣言と共に、樰永の双眸に十字架の文様が刻まれた。
それは神の寵愛を受けし王の見印……『福音』の授与。
そして、それは同時に最悪最凶とまで称された刻鎧神威が初めて王を選んだ瞬間でもあった。
今この時から、倭蜃の動乱は新たな展開を見せる……。