第伍章 凶神咆哮 六 不惜身命
黒い神気をつかみ取った瞬間、朧の得物である蒼龍天爪に大きな変化が生じる。蒼い鱗を思わせる刀身に赤黒い水玉文様が刻まれ、蒼い焔をうっすらとまといはじめた。
『なんと……!?』
スーリヤは、驚嘆を禁じ得ぬとばかりに呻き声をあげる。
いかに自分の補助があったとはいえ、この短い刹那の時で、暴れ狂う荒神を御したばかりか不完全な形とは言え、刻神まで発現させるなど想像だにしなかったのだ。
だが、樰永だけは驚きもせず、むしろさも当然のように妹へ声をかける。
「さて、これでお互い準備は整ったな」
「はい。お待たせしました」
朧も不敵な微笑さえ浮かべて応える。
「さて、こっちも本気を出さなきゃ失礼だよな」
「ええ……!」
と、急激に二人の妖力が爆発的に高まると同時に、目に見えて身体にも変化が生じる。
まず二人の額から、三本の長角が王冠のごとく突き出る。左右の二本は金剛のような光沢を放ち、真ん中の一角は、樰永は赤く、朧は青く輝いている。
さらに、目元や頬から首筋に両椀に至るまで、それぞれの一角と対応するように赤と青の痣が隈や刺青のように浮かびあがり、黄金色の双眸も瞳孔がより鋭くなり血のような緋へと染まった。
爪もより鋭くなり、歯もまた牙へと姿を変える。
その異相ともいうべき変化を、リュカたちは慄くように見て呆気にとられる。
『鬼化』――鬼神の末裔たる鷹叢の一族に継がれる特異体質。
その身に脈々と受け継がれてきた"鬼"の妖力を完全開放した姿だ。これが鷹叢家が芦藏と應州を二分する覇者へと上りつめた一端でもある。
特に、樰永と朧はその中でもより濃い鬼の血を受け継ぐ歴代有数の麒麟児と称されており、純血の鬼すら凌ぐ力さえあると、鷹叢の本家分家、家臣郎党から噂されるほどだ。
「鬼神……? 異形の匂いはしていたが、おまえたちは化生との混血か」
「それはお互い様だろう。その翼と尾っぽからしてそうだが、それ以前におまえからもひとの匂いよりもそっちの飛竜の気配を何倍も濃くした匂いが濃厚に立ち上っているぜ」
アイアコスの指摘に、樰永も不敵な笑みで返す。すると、西界の武者は兜からわずかにいらだちを含んだ唸り声を上げるも、すぐに切り替えたのか今度は朧へと視線を向ける。
「こいつはともかく君はその状態いつまで持つ?」
「やはり……わかりますか?」
朧は、苦笑と冷や汗を浮かべる。
「当たり前だ。さっきから心臓の音が不規則に早まっているのが嫌でも聞こえてくる。体温も疾うに常温を超えているはず……そうして立っているだけでも相当に消耗しているだろう。まして刻神まで発現させた上でともなれば一分とて持つまい」
それに対し、アイアコスは心底呆れたとばかりに大きな嘆息を吐きながらも、上空のシャリネにリュカとカラコムに命じる。
「おまえたちは邪神の眷属どもを狩れ。万が一にも結界から出せば厄介なことになる。私は二人の援護をする。些か不本意だが、我らで露払いをするぞ」
『御意!』
命じられるや、すぐさま三人は邪神の眷属たちへと飛びかかった。
それを見届けると、アイアコスは兄妹の隣に立つ。
「おまえも物好きだな。他国のためにここまで付き合う義理はないだろうに」
樰永があえて意地の悪い物言いをするのに対し、アイアコスはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「愚問だな。これを野放しにすれば、我が国とて明日はない。ここにいるのは、正真正銘当国のためだ」
「それならそれで、こういう厄介事は全部現地人である俺たちに丸投げにするって手もあったろう。上手くすれば、おまえたちは無血で漁夫の利を得られる目だってある。それをどうしてわざわざ危険を冒してまで、赤の他人でしかない俺たちと一緒に死地へ向かうんだ?」
それは樰永が戦闘前に漠然と抱いていた疑問だった。
確かに、この邪神は断じて野放しにしてはならない存在だ。
だが、当面の危機に直面しているのはあくまでも倭蜃国であって彼らの故国ではない。ましてそもそもの発生原因がこちらにあるのだからなおさらだ。
ならば、彼らの立場としては自分たちに邪神の討伐を任せ、彼ら自身は日和見で静観するというのが正しい対応のはずだ。
無論、個人の主観で言わせてもらえばいけ好かない姿勢ではあるのだが、兵を与る将としては決して否定できない姿勢であることも確かなのだ。
にも拘わらず、他国人である自分たちに、どうしてここまでの便宜を図ってくれるのだろうか。
しかし、そんな疑問を一刀両断するかのように、西界の武士は微塵の迷いもない通る声で即答した。
「それも愚問だな。私は騎士だぞ。無辜の民に仇名す敵を前に、背を向ける騎士がどこにいる? そもそも、そんな騎士に何の存在意義があるというのだ」
それを聞いた樰永は一瞬だけ唖然とした後に、口元を笑みに形作って素直に詫びた。
「そうだな。悪い。確かにこれは蛇足だった。俺たち武士とて同じだ。こういう時のためにこそ俺たちの武はある」
「ええ。そうでなければ、私たちがここに立っている意味などありませんもの……!」
朧も刃を構えながら、二人の言葉に同意する。
「……二人とも一撃ですべてを決めろ。アフリマンと天魔の力を合わせれば、穴を瞬時に塞ぐには充分だろうが、万が一にも外したとするなら、妹姫におそらく次の余力はあるまい」
「はい。自分の身体は自分が一番よくわかっています。万が一にもしくじりなど許されません……!」
その正鵠を射た指摘に、朧はいっそう決然とした顔でうなずく。
「先刻も言ったように露払いは私が引き受ける。ついでに後学のため見せてやろう。真の刻神をな」
「真の、刻神? さっきお前たちが見せた物や今俺たちがやってるコレは違うのか」
樰永の疑問に答えたのは、例によって手の中の相棒だった。
『これらはあくまでも応用編もとい一端に過ぎないのです。本来の用途とはまた別物なのですよ。あの男も先刻言っていましたが、"刻神"とは神座王自身が刻鎧神威を書いて字のごとく鎧としてまとい、己が身を神そのものと化す最終奥義なのですよ。ただ完全に習得するには時間がかかるのです。少なくとも現時点のユキナガとオボロでは無理なのです』
アフリマンの説明が続く中で、アイアコスはアフロディーテの剣を頭上に構え、二人の一歩前に出た。
そして一節の詠唱を唱える。神の器に注がれた神気を十全に扱うための祝福の文言を。
「――“我が王器を汝の杯に注ぐ、汝を我が身に刻め! 『アフロディーテ』!!”」
今まで以上の極大の神気がアイアコスを包み込み、巨大な光帯となって天を穿った。
眩い光に目を塞ぐ樰永と朧だが、次の瞬間に目を開け、光帯が収まった後を見て瞠目絶句を禁じ得なかった。
そこに、アイアコスの姿は既になく、代わって人の身の丈を大きく超えた、全身を甲冑で固めた巨人がいた。
まるで真珠のような光沢を放つ白銀の甲冑は高貴な美しさを湛え、兜には海を溶かしこんだような蒼玉の巻き角が凛々しく隆起し、それとは対照的に禍々しい黒い大翼は雄々しく羽ばたき、長大な尾がその巨躯をおおうようにして鞭のごとく撓っている。
そして、手にはアイアコスが持っていた剣が巨大化した形で握られていた。
「これ、は、もしかしなくてもアイアコスなのか!?」
その得物を視認して悟った樰永が仰天した声をあげると、アフリマンが肯定する。
「その通りなのです。あれこそが本来の刻神なのです。己が身を神の現身と化す究極絶技にして、刻鎧神威がこの現世で神として再臨することを赦された正当なる御姿なのですよ』