第伍章 凶神咆哮 二 叱咤呼応
朧が樰永を張り飛ばした。
その唐突な光景に、アイアコスと尊昶も呆気に取られた体で口をあんぐりと開けている。
もっとも、カルドゥーレはというと「ほお」と面白そうなものでも見るように、感嘆の声をあげていたが……。
一方、朧は兄の腕の中熱により真っ赤になった顔で荒れた息遣いをしながら、樰永を睨んでいた。
「……兄様、あなたというひとはこんな時に何をしているのですか?」
「な、何って……?」
だっておまえが――そう言おうとした兄の口を、愛妹は覇気を滾らせた怒声で黙らせた。
「鷹叢樰永ッ!! あなたは何なのですか!?」
「っ!」
その一喝によって樰永はハッとなった顔になる。
朧はそんな兄へとさらに捲し立てる。
「今この時こそが、武家の棟梁たる者が立つべき時のはず! かような火急の事態に私ごときにかまけているなど言語道断です!!」
そう叫ぶや熱に苛まれている身体を起こし、愛刀の蒼龍天爪を杖にして立ち上がる。
「……それに言ったはずです。私は兄様の枷になりにきたんじゃないッ。ともに戦う刃としてきたのだと……っ! だから、兄様も立ち上がってください!!」
バキッ!
愛妹の叫びに、樰永は己の頬を自ら殴った。
皆がまたも呆気に取られる中で、樰永もまた立ち上がった。
被っていた冠を放り投げ、髷に結っていた髪をざんばらに流し、うっとうしい朝服の両裾を破り捨て、たくましい二の腕を顕わにすると、懸命に立ち続け戦う姿勢を見せる愛妹を真っ直ぐに見据えて、言う。
「すまん。おかげで目が覚めた。そうだ。このような難事こそ我らが立つべき時に他ならん。ともに早々に終わらせるぞ朧」
「はい!」
樰永の言葉に、反駁したのはシャリネだった。
「待ってください! そんな状態の妹君を戦わせようというのですか!?」
しかし、それに頭を振ったのは当の朧だった。
「……み、見くびらないでくださいっ。この程度で寝てなどいられません。先刻も言ったように私は兄様の足枷になりにきたんじゃない……」
「はっ! そのザマでか? 既に足枷そのものだろうが」
リュカが嘲りまじりに戦力外通告をするが、朧も退かない。
「これが、私の刻鎧神威が覚醒した兆候だというなら……これはまさに天祐です。だって、これで正真正銘アフリマンの力を得た兄様の隣に並んで戦えるということなのですから……!」
すると、アフリマンが諫めるように諭す。
『オボロ、あなたの力はいまだ不完全な上に不安定なのです! そんな状態でまともな力の行使などできようはずはないのです!!』
「戦いの中で力の制御を覚えればいいだけのことです……!!」
朧は大量の汗を流しながらも決然とした声で言い放つ。
「そんな希望的観測で全体を危険に晒せというのか? 意気だけで戦はできん」
リュカはいらだった声で吐き捨てる。だが、それを諫めたのは他ならぬ彼の主だった。
「もういい、リュカ。これ以上論議に費やす時間はない」
「伯爵!?」
「兄さん……!?」
主の思わぬ言葉に、異議がにじんだ声音を上げるリュカとシャリネを諭すように甲冑の騎士は嘆息を吐き出して、熱に苛まれながらも震えもせず決然とした挑むような眼光を湛える姫君を見て言う。
「これは何を言ったところでテコでも動かん眼だ。そこの図太い莫迦と同じくな。血は争えないとはよく言ったものだ」
樰永は思わずムッと少し心外だとばかり唸る。アイアコスはそれを平然と受け流すと、次に朧を兜の下から冷厳な視線で射竦める。
「吐いた言葉を戻せんことはわかっているな。枷にならぬという言葉、己が力で証明してもらおう」
「言われるまでもありません」
対する朧も不退転の覚悟を込めて首肯する。そんな妹を何かを堪えたような目で見つつ樰永はカルドゥーレに視線を送り命じる。
「カルドゥーレ、おまえは叔母上と啓益に事の仔細を伝えてくれ」
「畏まりました」
商人が鷹揚にうなずくと、兄妹は踵を返し戦場へと赴いた。
その後ろ姿を見送りつつ、リュカが若干不満げな顔で主に苦言を述べる。
「よろしいのですか? あの小娘、ああして立つことさえやっとでしょうに……明らかな足手まといにしかなりませんよ」
「さっきも言ったが、あの兄妹は揃いも揃って言葉や理で説き伏せるのは無理らしい。何より今は時が惜しい。ましてや揉め事に費やす時間などない。それに――」
「それに?」
「あの二人がどこまで本気でやり遂げるつもりなのか……興味があるのかも知れないな」
主らしからぬ言葉に、リュカもシャリネも呆気に取られた何とも言えない顔になり、カラコムやレイヴンも珍しいものを見るように目を点とする。ユリアだけは首を傾げ耳をピコピコさせながらも無邪気な笑顔を浮かべて師に言う。
「お師匠さま、なんだか楽しそうです」
それにアイアコスは、兜の下で面食らったようにハッとなった。
――楽しい? 僕は、あの二人を見て楽しいと思ったのか。
そんな疑問を抱きながらもすぐに思考を切り替えた。今はそんな場合ではないはずだった。
「そう見えるのか? さて無駄話はここまでだ。邪神には私とシャリネが相対する。リュカとカラコムは後方支援を。万一に備え、レイヴンとユリアは皆を率いて民草の避難誘導を頼む」
アイアコスは、それだけ言うと矢継ぎ早に命令を下す。それに臣下たちも表情を引き締めて『はっ!』と力強く応える。
それから、カルドゥーレの方へと鋭い視線を送り警告する。
「今は事態が事態故に、これ以上の追及はこの場ではすまい。貴様は貴様の務めを果たすがいい。だが、忘れるな。貴様がどさくさにまぎれてどこに逃げようとも、我らはどこまでも追いかける。アフリマンに関する罪状を有耶無耶にするわけではない」
明らかな恫喝に、商人は悠然と苦笑を浮かべて「おやおや、剣呑、剣呑」とおどけるだけだった。その態度にリュカとシャリネは鼻白むが、アイアコスは感情の読めない声でさらに詰問する。
「カルドゥーレ、今回の一件といい何を考えている?」
「はて? そういう貴方はどう思われますか」
質問を質問で返してはぐらかす商人に、甲冑の騎士は兜の下で鼻を鳴らして一蹴すると視線を切り「行くぞ」と皆を促した。
そして、校書殿でひとり残された尊昶は、感嘆の念を禁じ得なかった。
――なんと重く気高き武士道なのか……! あの兄妹は、茨道と知りながらも歩みを進める足に微塵の躊躇いもいない。あれこそが、まさに国を背負う真の武士の姿――!!
殊に、身を蝕まれながらも民草の為戦場へと向かう朧の姿に、ただただ圧倒されていた。
――美しい……。なんと曇りなき澄んだ刃のごとき美しさだ。ならば――
「俺もまた奮い立たぬわけにはいくまい。この命、この魂魄に懸けて、扶桑の都と倭蜃国……ひいてはこの世界を死守してみせる! それこそが、この殯束尊昶の務めぞ!!」
結界を張る数珠を強く握りしめ雄々しく吼える若殿に、老臣もまた奮い立った。
「であれば、その若をお守りするは、この老骨の務めでござるな。老い先短い身の上なれど、国を守護する御身を、全身全霊をもって命を賭してお守りいたしましょうぞ」
柾秀は主君の前を立ち塞がるようにして、太刀を抜き放って仁王立ちする。
「爺、頼む」
「お任せあれ」
――樰永殿、朧殿、俺は俺の務めを果たし申す。あなた方もあなた方の務めを。どうかこの国を、この世界をお任せいたす!!




