第壱章 鬼神戴冠 四 吠えたてる願い
――があぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっッ!!!!
触手に絡め捕られた直後、樰永は何処とも知れぬ、平衡感覚もまるでない空間を真っ逆さまに落下していた。
自分が何故そのようなことになったのかもわからず、樰永は絶叫していた。
この状況に慄いてではない、無論驚いてはいるが、これでも一廉の武士だ。その程度で臆したりはしない。
だが、落下と同時に頭、否――全身そのものを、無数の情報量が刺し貫くがごとく流れ込んでおり、若武者を苦悶させていたのだ。
――な、なんだこれは!? 頭が……!
――いや、体躯が、五臓六腑すべてが、お、俺自身が、割れる……!
――剥がれる……!
――引き裂かれる……!
――今にも、何もかもが千切れて弾け飛びそうだ……!!
それはもはや"激痛"などという言葉では片づけられない。己という存在が、容赦なく瓦解されていくかのような"恐怖"そのものだった。
そして、その恐怖は記憶にまで浸食していく。
鷹叢樰永が生まれてから歩んできた、十七の刻そのものすらも亀裂が入ったかのごとく壊れはじめる。
そう最愛の妹との想い出すらも――
――ふざけるな!!
それを樰永は赦さなかった。
――それだけは断じて赦さん! 誰にも……何人たりとも侵させてなるものか!!
強烈なまでの強い意志で、己を浸食し破壊していく侵略者を断固として拒絶する。
『面白い……』
――っ!? だ、誰だ!?
流入する莫大な情報量の中でひときわ鮮明かつ厳かな声が響く。
声は樰永の問い掛けを無視して一方的に響く。
『今まで幾人もの愚者が我が杯を呑み干さんと手を伸ばした。その結果、我が力に文字通りその身すべてを喰い潰された。だが――』
――ッ!!
突如としておぞましいまでの圧迫感に気圧される。
まるでナニカに睨め回されているような悪寒が奔った。
『この恩讐と罪業の坩堝の中で魂魄と自我が崩壊せず、それどころか我が力を拒むほどの強烈な意志力すら示すとは……。まことに面白い』
――な、何が言いたい……!? そ、そもそもおまえは誰なんだ……!?
『ふむ……。然り。先刻から一方的に我のみが話しているな。これは失礼した』
声は今更気づいたとばかりに突然謝罪した。
それを聞いた樰永は、先刻の圧迫感から一転し、案外この声の主は抜けているのかも知れないと、少しだけ拍子抜けした。
『我は、そうだな。一言で言い表すのであれば、"悪業大災"という形容が最も適当な存在だ』
その答えに、樰永は思わず引きつるよう笑みを浮かべる。
――ず、ずいぶんと大仰な物言いだな……。説得力だけは半端ないが……!!
そう。普通は戯言と笑い飛ばすだろう大仰な物言いが赦されるだけの力を、確かにこれからは感じる。
『理解が早くて助かる。さて、今度は我が問う番だ。汝の望みは何だ?』
――望み……?
『もしも我が力を得られるとしたら、何を望む? 何を為す?』
その問いに樰永は悠然と答える。
――そんなものは決まっている。俺は倭蜃一統を――
『否。欺瞞と虚飾は受けつけぬ』
しかしその答えに、"悪業大災"は否を突きつける。それに樰永は心外だと言わんばかりに声を張りあげる。
――聞き捨てならん! 偽りなど言ってはない。倭蜃の天下統一は、まぎれもなく俺自身の夢であり、万民の夢だ!! それを虚飾などと……!
しかし、それを遮るように魔神は容赦なく糾弾する。
『それは、義務という法典に当て嵌めたに過ぎん願望だ。汝の魂から吠え立てる願望にはほど遠い』
その言葉に樰永はギョッと目を見開いた。
――お、俺の魂から、吠え立てる願望だと?
『然り。願望とは元来手前勝手な物だ。それは決して他者が設けるような定義に――ましてや道徳観念などという人間風情が勝手に設けた脆弱極まる概念ごときに収まるものではない。汝のそれは、周囲の環境や状況、他者から期待と羨望に応えんと捻りだしたモノに過ぎん』
――……っ!!
刃で心臓を一突きにされたがごとき衝撃が、樰永を刺し貫いた。
何故なら、その言葉は容赦なく残酷に、無意識に覆っていた虚飾を暴き立て、正鵠を射抜いたものであったのだから。
しかし、倭蜃一統は確かに乱世という止むに止まれぬ時世と両親や家中からの期待を一身に受けていく中で培われたものだ。
だが、それは今では己自身の望みでもあると断言できる。
断じて欺瞞と虚飾などではない――!
しかし、"悪業大災"は、まるでその自問自答を見透かしたようになおも否と唱える。
『否だ。それは確かに偽りではないが真の願いでもない。我が杯を捧ぐに良しとするは、断固として譲れぬ絶対的な"自我"を内包する者。生半可な我欲などでは我は満たされぬ。それが能わぬならば――』
――がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!
再び樰永の存在が瓦解をはじめる。
『疾く消え失せよ人間……!!』
――俺が……こんなところで死ぬの、か……!
そう諦観が頭を支配し、瞼を閉じた瞬間――
『にいたま』
その声に樰永は瞼を開けた。そこには最愛の妹が三歳ほどの幼い姿で自分を見上げていた。
さらに、自分自身の目線も普段とは比べ物にもならないくらい低くなっていることに気づく。
ただ周囲を見てみると、そこは鬼哭滝らしい。
『おぼろ……?』
『もうー! にいたまったら、おぼろとのやくそくわすれちゃったのー!』
『あ、わるい。そういえばきょうは、こうまにのって、うみまでとおのりしようっていってたっけな』
頭をかいて今思い出したと言わんばかりの兄に、妹はポカポカと殴りつけて抗議する。
『いってたっけ、じゃありません! いったんです! おぼろと、とおのりしてくれるって! うみにつれてってくれるって! にいたまはやくそくしたのー!』
『わ、わかった……。わかったからなぐんのやめろ!』
妹とじゃれつきながらも樰永は戸惑っていた。
先刻から喋ってるのも動いているのも確かに自分だ。だが、それは自分の意思ではない。
しかし、それも当然と言えば当然のように思えた。何故なら、これは過去に実際にあった出来事であるからだ。
どうも、これは過去を走馬灯のように追体験しているらしい。
言うなれば、思うようにならない夢を見ている感覚が近いだろうか……。
この年頃の自分と朧は誰に憚ることなく常に何をするにも一緒だった。
啓益に言わせれば今と大差はないではないかと言われるかも知れないが、今はあくまで朧が距離を取ろうとする自分を追っかけているのだ。こっちの気も知りもしないで……。
――けれど、俺自身それが嬉しくて結局は拒まなかった。いや、拒めなかった。我ながら自分の意志薄弱さには呆れ返る……。
だが――
『きゃはははは!』
幼い朧が着物の裾をまくって足だけ海に浸かりながら、海水をこちらに飛ばして駆けてくる。
『やめろっ! めにしみる~!』
対する自分は、目を顔を庇いながら逃げ回っていたっけ……。
『にいたま!』
朧が押し倒すようにして自分に抱き着く。結果として、二人とも頭から海水を被ってずぶ濡れとなった。
『ぷはっ! しおから~~! なにすんだよ、おぼろ~!』
しかし、そんな自分の抗議をこの妹と来たら――
『にいたま! だいすきです! おぼろは、ぜっ~~たいに、にいたまのおよめさんになるの~!!』
そういって兄の唇に自分のそれをそっと押しつけた。
――おまえのその言葉がどれほど嬉しかったか、おまえはきっと少しも理解していないだろう。おまえは笑うだろうが、俺は本気でその言葉に応えるつもりだった。成長とともにそれが決して赦されるものではないと知るまでは……。
場面はそこから変わって、十三歳の綺麗に着飾った朧が映し出された。傍には着付けを手伝っている母の月華もいる。
『朧ちゃん、綺麗よ』
母は、愛娘の艶姿をウットリと眺めている。
『あ、ありがとうございます……』
朧は、顔を紅潮させながら照れている。
妹は扶桑で仕入れた唐衣の打掛に身を包み、牡丹を模した簪で髪を彩っている。自分の目から見たって、これ以上ないと言いきれるほど誰よりも綺麗な女の子がいた。
この日は朧の成人の儀だった。男子でいうところの元服だ。
女子の場合は男子のそれよりも遥かに早い。
何故かと問われば、それは女子特有の現象故だ。
子を産める身体になれば、もう立派な成人女性と認められる。
そして同時にそれは、政略結婚の義務が生じることを意味するのだ。
『朧ちゃんももう大人ね。これから縁談も引っ切り無しに来るんでしょうね……』
母の言葉に、顔がこわばり歪みそうになるのを歯を食いしばって耐えねばならなかった。
『か、母様……。私はまだそんな……』
母の言葉に朧が照れるように慌てると、そんな娘を月華は優しく抱きしめて言う。
『けれどね朧ちゃん。政略結婚が常の武家の身でこんなことを言うのは失格かも知れないけれど、敢えて言うわ。素敵な恋をしなさい』
『母様?』
『お母さんも、お父さん……悠兄様と恋をして結婚して、それで樰永くんやあなたが生まれて、お母さんはとっても幸せになった。だからね。あなたもいつか、そんな素敵で幸せな恋をして欲しいの。樰永くん、もちろんあなたもね』
『……ッ!』
何も知らないその言葉に叫びだしそうになる。
そんな時は自分は永遠に来ないと!
だが、朧は母の言葉に純粋無垢な声で「はい!」と答えていた。
自分はそれを他人事のように聞いている。
『に、兄様。どうですか? この打掛……』
不意に朧が、そんな自分の気持ちも知らず、晴姿の感想を求めて来た。この艶姿を誇るように。
だが、自分はそれがとてもたまらなかった。
――そうやって綺麗に着飾った姿も、そのみずみずしい唇も、その透き通るような瞳も、すべてが、俺以外の男の物になるくせに――!
『知るか! そんな無駄に豪奢なもんがおまえなんぞに似合うもんか! もう成人したからって浮かれてんじぇねぇ!! 大体、縁談が引っ切り無しだと? おまえみたいな乳臭さが抜けきらない奴を、嫁に欲しがる奴なんて余程の物好きでもなきゃいるものか!!』
そう俺が怒鳴った瞬間に、あいつの瞳にみるみる雫がたまって溢れ出した。その雫が鋭い針になって俺を苛む、責める、咎める。
"おまえなんぞに似合わない"だって?
"嫁に欲しがる奴なんていない"だって?
そんなの全部嘘だ。
おまえ以上にその打掛が似合う女なんてそれこそいるもんか! そんな姿で外に出て見ろ。きっと男なら誰もがおまえを視線で追わずにはいられない。
そして、一目見て男なら誰もが思うんだ。
おまえが欲しくてたまらないって!
朧は、琥珀よりも美しい瞳を泣き腫らして逃げるように走り去った。母上はそれを慌てて追いかける。
俺も居た堪れなくなって、その場を逃げるように……否、事実逃げ去った。
だってたまらなかったんだ。おまえが俺の手が届かない場所へ行くなんて! "他の男に抱かれる準備ができた日"を祝うだなんて!
おまえを俺以外の男にくれてやるためなんぞに! 俺は、おまえを守り愛してきたわけじゃない!!
だが、そんな俺の葛藤とは関係なくおまえは日に日に誰よりも美しくなっていく。その度に他の男たちのおまえを見る目が明らかに変わっていく。
それを俺がどんな想いで見てきたか、おまえは想像すらしていないだろうな。
俺はそこに参加する資格すらないんだ!
無論のこと、振り切る努力を怠ったわけではない。
この気持ちは唯の気の迷い……もとい幼少時の戯れ、加えて思春期の欲求不満と、あれこれ理由をつけて片付けようとしたし。
しばらく落ち着くまで距離を取ろうと朧を露骨に避けたこともあった。
さらに、不本意ながら親友である義正の紹介で廓遊びをしてでも他の女を抱くことで吹っ切ろうなどと思ったが――まるで駄目った……。
いざ抱こうとすれば、どう足掻いても朧の面差しに重なり引き比べてしまう。その度に俺自身が望むものはこれではないと嫌というほど思い知らされた……。
だが、そうしてようやくわかったことは。この想いは、決して気の迷いなどではなく正真正銘の本物だということだった。
――まったく、我ながら己の救い様のなさには絶望を通り越して呆れるな……。理屈の上では、異端であり禁忌だと理解できているのに。魂魄は、本当にどうしようもなく無軌道なまでに真っ正直だ。ああ、まったくどうしようもありゃしない。あまりに馬鹿馬鹿しすぎて涙も出てくる。
故にこそ――
ああ――本当に馬鹿馬鹿しいことだった。
俺が、この魂から吠え立てる願望など、はじめから唯ひとつでしかなかったのだ。
本当は、はじめからわかっていた。
他者に言われるまでもなく俺が取り繕って生きてきたことくらい。
そうだ。俺が本当に欲する者は――