第肆章 神座王集う 三 束の間の安らぎ
陽が落ちかけ、天が鮮やかな赤みを帯びはじめた刻限、扶桑郊外にある森の中で打ち捨てられた社で、断続的に風を切る音が響いている。
「はっ! ふっ!」
それは、樰永の木刀による素振りで生じたものだ。上半身をはだけさせた筋肉質な肌にはほどよい汗の玉が流れている。木刀を振るった回数はかれこそれ千回を超しているだろう。
――初めて自分以外の神座王と邂逅したことで気が昂ってんのかな? それともいまだに動けずにいる状況に焦ってんのか? 身体が疼いて仕方ない……!
溢れんばかりの衝動を押さえ込むように、一心不乱に木刀を振り続ける。
「む~~。なぜに、わたしでしないのですか」
一方、その相棒たる刻鎧神威の少女は傍らの石段に腰掛けつつ、いかにも退屈とばかりに頬を膨らませ不満を垂れ流す。
「馬鹿言え。おまえを一振りしただけでもシャレになんないだろうが。おまえを抜くのは、あくまで実戦のみだ。少なくともこの扶桑ではな」
と、相棒に呆れた声で返す。
「つまり、わたしの出番はまだまだ先だと? ずいぶんともったいぶりやがるのです」
「そう言うなよ。むしろ、抜くことにならなきゃそれに越したことはない。俺たちは何も正面切って喧嘩をしにきたんじゃないんだからな」
「それは、もちろん承知していますけれども~~。このわたしの出番があのような雑魚どもの後始末で打ち止めなど味気がないのです~~~! ハッキリ言って不完全燃焼なのです~~~!!」
と、遂には脚をバタつかせる。
「お行儀が悪いですよ。みっともない。あなたはそれでも神なのですか?」
すっかり駄々っ子な悪神に、手拭いを手に兄へと歩み寄る朧が辛辣にたしなめる。
「お褒めに与り光栄の至りなのです」
「褒めてません」
「褒めてねぇ」
たちまち異口同音の否定が返されるが、当の悪神はまるで気にも留めず、しれとお決まりの文句をのたまう。
「悪業の神には、ご褒美なのです」
今やわかりきった返答に、兄妹は揃って嘆息を吐き出すのが、これまたお決まりになりつつあった。
「兄様。汗を……」
朧は、そう言って樰永の汗を手拭いで拭った。
「ああ、悪い」
「ひゅー、ひゅー、見せつけてくれるのです、このおしどり夫婦ー」
アフリマンがまったくの無表情と平淡な声で冷やかすと、樰永はたちまち眉をしかめる。
「そりゃどうも。おまえの無感動な茶々にも慣れて、いちいち返すのも億劫だぜ」
「言うようになりましたね、この童貞」
「だろ? この耳年増神」
皮肉まじりの称賛に、樰永も不敵な笑みすら浮かべて同じく皮肉で返した。
「前々から思ってましたが、耳年増とは聞き捨てなりませんね。わたしは少なくともユキナガよりも数万歳以上は上なのです」
「数万年もコレの中で引きこもってたくせによく吼えられるな」
樰永は、腰に帯刀しているシャムシールの鞘を指で軽く打って揶揄する。
「引きこもりとは心外なのです! ただユキナガに出会うまでコレだと思う者が現れなかっただけなのです!」
「それで惰眠を貪りながら、まんまと口に飛び込んできた餌を咀嚼してたってか? まんまダメ神の見本じゃねぇか」
これ見よがしに肩をすくめて意地の悪い笑みを浮かべる主に、アフリマンは無表情ながら眉をつり上げて「ムッキーッ!」と憤慨し体当たりをかけるべく突進するも、樰永はそれを片手で頭をおさえて阻んだ。
そんな二人の様子に、朧は頬を膨らませると樰永の空いてる腕に抱き着いてきた。
「お、朧っ? 突然なんだよ……」
「……アフリマンだけずるいです」
「いや、ずるいって……。これはなぁ」
「ずるいものはずるいです!」
頑として聞かない愛妹に、樰永はたじろいでしまう。
――いや、主に腕にかかる感触が問題なんだが……!
しかし、兄の心妹知らずとばかりに朧の腕を抱き締める力をさらに強めた。当然必然的にその豊満な胸が一層押しつけられる結果となる。
「……朧。そろそろ叔母上たちも来る」
その言葉で、朧も名残り惜し気にしながらも腕を放した。
「ごめんなさい……」
その様子を、アフリマンはいつになくやるせないという面持ちで息を吐いた。
「ようやく想いを通じ合わせたというのに、道は遥かに遠く険しいのです……。まったく儘ならないのです」
「言うなよ。一番凹んでるのはこっちだ」
樰永もやるせない声で返す。
そう。ようやく長年の想いを通じ合わせたものの、だからといって何かが変わったわけでは当然ながらない。
いかに自分たちの気持ちが正真正銘の本物といったところで、同じ父母を両親に持つ正真正銘実の兄妹という純然たる事実は、巌のごとく小動もしないのだ。
――だが、そんなことははじめから承知している宿命。異端で禁忌だなんてわかっている。わかった上でこの宿命に喧嘩を売ると決めたんだ。いつかはそんな巌だってぶち破ってみせる! その暁には、もうこの想いを誤魔化す必要なんてどこにもない。この倭蜃を一統し、天下を握って、この世界を俺たちが結ばれることが赦される世界に変えてやる。
樰永は拳を強く握りしめて固く決意する。
そこへカルドゥーレが優雅な立ち振る舞いで歩み寄ってくる。
「精が出ますな、樰永殿」
「先日のように、いつ何時戦となるかわからん。その有事に身体が対応できるようにするためにも鍛錬は欠かせん。武士たる者の当然の気構えだ」
そう憮然と答える若武者に、商人は優雅な笑みと仕草で訊ねた。
「では、そんな殊勝な心掛けの若君に耳寄りな情報があるのですが?」
「何か掴んだのか?」
耳聡く聞き返す樰永にカルドゥーレは笑みを深くした。
「御所での噂なのですが、どうも是叡公が鬼灯国の神木に手をつけようとなさっておられると」
「なに!?」
「そんな、まさか……!?」
その情報に樰永だけでなく朧も気色ばんだ。
鬼灯国の神林と樹木は、應州は愚か倭蜃国にとっても神聖不可侵の御禁制だ。朝廷といえど妄りに手を触れることは赦されない。
下手をすれば国の龍脈そのものの怒りを買い、飢饉を誘発しかねないからだ。
「なんでも、この国はまもなく亡き王家を偲ぶ国祭『大嘗祭』が開催されるそうですな。その際に新たな寺院も建立されるとか」
「ああ。その建立を請け負っているのが清聡殿と楠原の老公だ。だが竣工はもう間もなくだぞ? 今更何をっ! まさか――!?」
樰永の懸念を肯定するように、カルドゥーレはうなずく。
「その寺院に奉納する菩薩像を造るための材木として求められるのだそうです。それも千体。加えて本堂の内装すべてに隈なく純金箔を貼れというおまけつきでね」
途端に樰永の拳が近くの樹木を穿った。
「野郎……! そこまでやるか!!」
その情報だけで聡明な若武者はすべてを理解した。
是叡は芦藏の鎮守府将軍任官の件をゴリ押すために二人に脅しをかけたのだ。己か武家どちらにつくか選べと……!
「どうやら事態は、我々が考えている以上に一刻の猶予もないと言いきれるほど切迫しているようです。いかがなさいますか?」
カルドゥーレはまるで試すような笑みを浮かべている。それを樰永は呆れと忌々しさがまじった視線を返す。
「本当にひとが悪いなおまえ。全部わかった上で言ってるだろう」
「やはり、わかりますか」
あざとくもおどけたように笑う商人に、樰永は苦虫を嚙み潰したように憮然とした表情を浮かべるも、次の瞬間には決然かつ毅然とした表情へと切り変わる。
「――大内裏に忍び込むぞ」