第参章 鬼神相愛 五 背中合わせの逢瀬
「~~~~~~~ッ!!」
夜天の満点の星々の下、徐かなる木々のざわめきのみが響く立ち上る湯気の中で、透き通るような湯に浸かりつつ、樰永は歯を軋ませながら何かを堪えるように悶々としていた。
しかし、それも無理はなかった。
なにせその背中には、最愛の妹が一糸まとわぬ姿で自らの背中をピタリとつけて湯に入っているのだから……。
それ故に、樰永の背を想像を超えるほどの柔らかな感触が常に刺激していた。
因みに、朧は腰よりも長い髪を後ろで結いあげて胸元まで湯に浸かっている。
湯に浮いた歳不相応に膨らんだ豊かな双丘が身動きする度にぷかぷかと揺れており、ついで白い肌についた水滴がいかにも艶めかしい。
こんな妹の姿をまともに見れば、樰永は卒倒しかねないと本気で思っていた。
「に、兄様? 先程から震えていらっしゃいますが……。お湯が温いのですか?」
そんな兄の窮状を知る由もない妹は横目で気遣わし気な視線をよこすが、樰永にしてみればその仕草だけで火に油を注がれているも同然だった。
「な、なんでもないっ! それから湯は全然温くないぞ! むしろ全然熱いからな! この通り汗が勝手に出てくらあ!」
と、自分でも的外れな返事を上ずった声で返す。
――じゃねぇだろ!そういうことを言いたいんじゃなくてだな……!!
再び性懲りもなく自問自答を内心で繰り返しかけた時、不意に後ろの愛妹がクスと笑いだした。
樰永はそれを怪訝に思い問い質した。
「ど、どうした朧? 何がおかしいいんだ」
「い、いいえ。ごめんなさい。別におかしいわけではなくて……。ただこうして兄様と一緒に入浴するなんていつ以来だろうって……」
その言葉に樰永は記憶をたどって何となしに答える。
「……十歳の時以来じゃないか? 十を超えた頃から、おまえ妙に色気づいたもんな」
「……兄様、その発言は些か年頃の妹に対して不適切だと思います」
途端に軽蔑がこもった冷たい声で刺され、樰永は思わず身を竦めてすぐさま詫びる。
「す、すまん……」
――うわぁ……! 俺、馬鹿だ! こんなの丸っきり助平親父の発言じゃねぇか!!
痛恨の極みとばかりに濡れた髪をかきむしる樰永……。結果、まとわりついた水滴が弾け飛んだ。それは当然ながら後ろにいた朧にもかかった。
「きゃっ! もう……。本当にしょうがない人ですね。兄様は……」
呆れがまじった妹の笑声に、樰永は再度「すまん……」と答えるしかなかった。
それから話題も尽きたとばかりに水を打ったような沈黙が流れる。
というより二人ともかなり限界にきていた。
なにせすぐ背中合わせに、生まれた時から今に至るまで恋焦がれた相手の生まれたままの姿があるというだけで、胸の動悸と身体中の血がこれまでにない速度で脈を打ってるのだ。
――兄様の背中って広いな……。小さい頃はほとんど変わらなかったはずなのに。それに肌から感じる体温がすごく熱い。これってお湯のせい? それとも、兄様も私と同じ気持ちでいてくれてるの?
――くそ……。頭の芯から心の臓まで熱くなっていく。咽喉から口にでかかった言の葉が鼓動でかき消される。まるで言葉を忘れちまったみたいだ。
「兄様……覚えていますか?」
「何をだ?」
「……私が昔まぎれ込んだ商船が遭難した時のことを」
「ああ……」
忘れるものか。あれは生涯で最も心臓に悪い出来事だった。
そして、生涯で最も我を忘れ我武者羅になった出来事でもあった。
「あの時は死ぬ以上にもう父様や母様……そして何より、兄様にもう会えないと思うだけで本当に怖かった。でも泣きはしませんでした。一度泣いてしまったらもう止まらなかっただろうし、本当に兄様と会えなくなっちゃう気がしたから……」
そこで朧は、その時のことを思い出したのか、締め付けられるような声を出したが、次の瞬間には打って変わって弾んだ声音に変わった。
「けれど、それでも兄様は来てくれました」
「……っ」
「嵐の中、吹けば飛んでいってしまうような小舟で私のところまで真っ直ぐに――。私はそれがとても嬉しかった……」
「兄なら当然のことだ……」
――"兄"……。
その言葉に朧はまた気が沈み、樰永も内心で失言に毒づいた。
だが、それを吹き飛ばすようにして言った。
「俺だってよく覚えてるぞ。おまえときたら俺を目にした途端に、駆け寄ってワンワンと犬っころみたいに泣いたよな」
と、意地悪い笑みを浮かべる。それに朧は頬に朱を注ぎながら意趣返しをする。
「犬っころって……! 兄様だって私を目にした途端、脱兎のごとく駆けよってきて、ずっと抱きしめたままだったじゃないですか!?」
「そうだったか? おまえの妄想じゃないのか」
樰永はとっさに誤魔化すが、朧も頑として譲らない。
「いいえ。間違いありません。私はよ~く覚えています」
「はい、はい。じゃあそれでいいさ」
ぞんざいな物言いに、朧は弾かれるように振り返って怒った。
「なんですか!? その微妙な物言いは!」
それに対し樰永も振り返ってムキになって弁明する。
「しょうがねぇだろ! 実際こっちは記憶が曖昧なんだから!」
「「あ……」」
しかし次の瞬間には、お互いが生まれた姿のまま向き合っていることに気づき、二人とも頬どころか顔貌そのものを真っ赤に染めあげ、そのまま硬直してしまった。
「あ、ああ、あぁぁぁ………!?」
朧に至ってはあまりの羞恥に、湯気を出してぷるぷると全身を震えさせている。
しかし、樰永もかなり……否。相当にやばかった。
なにせ目の先には、玉のような雫がついた艶やかな髪に白い肌、恥じらいに紅く染まる美貌と震える口唇……!
そして何より……! 湯の浮力によりぷかぷかと浮かぶ凶悪な二つの凶器が桜色の突起とともに圧倒的な存在感を放っていたのだから……!!
樰永にしてみれば、女神もかくやという魔性の美しさがあますところなく曝け出されていた。
「あ、ばばば……!?」
これにより樰永の脳内は一気呵成に沸点へと達し、呂律が回らぬ奇声を壊れたカラクリのごとく口から漏らしていた。
「にに、兄様っ……! あの、その……!」
「お、おぼ、朧……っ!」
――やばい! やばい! やばいっ!! 我が妹ながらなんて破壊力だっ! 理性が今にも弾け飛んで決壊しちまいそうだっ!!
などと思いながら、視線は睨まれた蛙のように愛妹から一切外せなかった。
しかし、余裕がないのは朧も同様だった。
――兄様に、見られている……っ! 胸が熱い。動悸もどんどん上がって止まらなくなる……! その瞳に見つめられているだけで、何もかもを曝け出してしまいそうっ!!
膠着した時の中で樰永は意を決したように朧の白い肩を掴んだ。
「に、兄様……?」
「朧……」
――そうだ。今更ここで退いてどうなる!?
「兄様、突然どうなさったのですか?」
愛妹の戸惑った声が耳に届く。
「……以前にも言ったかも知れないが、おまえは俺にとって最愛の存在だ」
「はい」
そう兄は旅に出る前夜にもそう言った。
だが、それはあくまで"家族"として"妹"としてのものだと言われた。
けれど、今度は?
朧は、華のような美貌を赤面させながらも真っ直ぐに兄の目を見据えて答えをジッと待つ。
樰永もその視線から目をそらさず、同じく真っ直ぐに見返した。
「だけど、それは家族だからでも、ましてや妹だからじゃない」
「っ――!」
朧は、心の臓が一気に跳ね上がっていくのを感じて息を呑んだ。
「おまえだからだ。おまえの笑顔が好きだ。おまえの作る料理が好きだ。おまえのむくれた顔が好きだ。おまえの意外と我が儘で独占欲が強いとこが好きだ。おまえの背伸びするくせにちょっと抜けているところが好きだ」
「……ちょっと三つほど余計な物がついてません?」
朧が青筋を立てた微笑を浮かべて指摘するが、樰永は首を横に振って叫ぶ。
「余計ではない! 本当にそうとしか言い様がないんだ! 俺はおまえのすべてが愛おしいんだ!!」
「っ」
だが一転して、その言葉で朧は歓喜と羞恥によって一層赤面する。目尻にも雫がこぼれはじめる。
「そうだ。俺はおまえを―――――――」
そこから先の言の葉を紡ぐ瞬間――湯に隠し持っていたアフリマンの器たるシャムシールを振り向きざまに抜き放ち、黒い僧形の刺客を一太刀に斬り捨てた。
一方、朧も既に先程の潤んだ瞳から一転して、凍りつくような冷たい瞳へと変じており、彼女もまた湯に隠していた太刀の鞘から小柄を流れるような動作で後ろ手に抜き放ち、同じく背後に迫っていた刺客の額に投擲して仕留めた。
その拍子に髪留めが外れて、後ろで結い上げていた艶やかな髪が解放され、青みがかった濡れ羽色の帳が月をおおった。
「朧!」
「はい!」
兄の声に朧もすぐさま応え、互いに背中合わせとなり得物を構え、暗夜に溶けこむがごとく周囲を包囲した僧形の刺客たちを迎え討つ体勢を整える。
まず、七尺程のがたいのいい僧二人が錫杖を棍棒のように振り回して、それぞれ兄妹の正面と対峙する。
さらに左右から小回りが利きそうな小柄な僧が二人づつ左右につき隙をうかがい、後備えとして十人ほどが木々にまぎれて臨戦態勢を取っている。
「……数は十六ほどか? ふん、舐められたものだな。行けるか朧」
「問題ありません。兄様も油断なきように」
「はっ! 誰に言ってる……!」
妹の諫言に、不敵な笑みを浮かべながら相棒にも語りかける。
(アフリマン、聞こえているか?)
すると、返事は意外と早くに返ってくる。
『無論なのです。この身は、主の危機を悟れぬような暗愚ではないのです』
(それにしちゃ刺身の取り合いにご執心だったようだが?)
主の皮肉に対し、アフリマンは鼻を鳴らすようにして居丈高にいう。
『あれは主の道を切り開くための猿芝居に過ぎません。そこのところを勘違いするななのです!』
(はい、はい……。で、叔母上と啓益に、カルドゥーレは?)
『無論、この不穏な気配に勘づいて目覚めているのです。ただ――』
(なんだ?)
『あちらにも刺客が回っていますので、こちらへの応援は遅れるかと』
その芳しくない知らせにも拘わらず、樰永の笑みはまるで揺るがなかった。それどころか獰猛な鬼気を滾らせながら破顔を大きく広げる。
(上等……!! 何も問題はない。叔母上たちに、ここは任されたと伝えてくれ)
『万も承知なのですよ。では征きましょうユキナガ。わたしとあなたの初陣なのです―――ッ!!』
「おう!」
相棒の掛け声に、強烈な戦気を放ちながら樰永は声を出して応える。
すると、その戦気に呼応するがごとく、アフリマンの器であるシャムシールの刀身がアフリマンの身体に刻まれているのと同じ濡羽色の文様を発現させた上に、禍々しい神力をまといはじめる……!
それに当てられた僧形の刺客たちは、肌をチリチリさせるような悪寒が襲い足踏みをさせる。
そんな彼らなど気にも留めず、樰永は背中合わせの妹に叫ぶ。
「朧! 朗報だ! 叔母上たちもこ奴らの別動隊にかかずらって応援は間に合わんそうだ!」
それを聞いた朧も艶やかな微笑で返しながら、鞘に納めていた、應州随一の妖鉄『倭妖鋼』で鍛えられた、蒼い鱗のような刀身の愛刀『蒼龍天爪』を抜き放つ。
「それは好都合ですね……。こんな姿で兄様といるところなど叔母様たちには、見せられませんもの」
それを聞いた樰永は大いに納得した。
なにせ、今の自分たちときたら当然ながら何も身に着けちゃいない真っ裸な上、いい歳した兄妹がともに湯に浸かって何をしていたのかと詰問されるのは必定だろう。
「まったくだ。これは早々に終わらせて服を着なければな……!」
「当然です――それにはまずこの下衆ども一匹残らず斬らねば」
鬼神の兄妹は己らが得物以外は一糸まとわぬ姿という完全に無防備な現状に何ら臆さず、むしろ余裕すら感じられる冷酷な戦意を剥き出しにした。




