第参章 鬼神相愛 四 宴会
「では部屋を二つ取り申した。ひとつは若殿と某……それからカルドゥーレ殿が、もうひとつは姫と永久殿がお使いあれ」
(だ、だよな――)
磐斯国と淦狗国の国境にある宿に着くや啓益の口から放たれた宣告に、樰永は間の抜けたつぶやきを心中で発する。
想いを朧に告げると決意した矢先に出鼻を挫かれた形だが、こればかりはいかんともし難い。
一方、アフリマンは堪忍袋の緒が切れたかのように主の脳内で激昂した。
『このツルハゲ野郎、ワザとですか!? ワザとでいやがりますか!? 人間の分際で我が主の恋路を阻もうなどとは……! 万死絶刑に値するのです!!』
(考えすぎだろ。むしろ、至極当然かつ真っ当な部屋割りだ。というか啓益の頭は禿げてるんじゃなくて月代、武士としては標準の髪型だよ……)
樰永は諦観まじりの声で相棒を諫めるが、アフリマンはまるで治まらない。
『んなこたあ、どうでもいいのです! ど・う・で・も!! いったい、どうするのです!? これで機会はまたも遠ざかりました! このままではオボロとの仲もますます遠ざかるばかりなのです!!』
(頼むから人の頭でがなり立てるな……! 俺だって無念の極みだ……!)
そんな樰永やアフリマンの心情など一切省みることなどないように、啓益はテキパキと己の仕事をこなしていく。
「各自、本日は部屋で速やかに夕餉をとり、明日に備えお休みになられるべきでござろう。では若。参りま」
「ちょ~~と待った!!」
しかし、啓益の予定調和の語りに待ったをかける者があった。当然のごとく永久である。
「何か永久殿?」
啓益は極めて冷ややかな声を出す。その声音には明らかに余計な口を出すないう言外の圧力がある。
だが、そんなものを斟酌したところで憚るような酒乱では当然なかった。
「何かじゃねぇよ! こちとら四日は馬に跨っての強行軍だったんだぜ!? ちゃっちな休息じゃすぐに渇いちまわあ! それに何よりせっかく、温泉の名地たる淦狗国に来たんだ。ここは当然宴会と湯治にかぎんだろ!!」
「確かに、これから長い旅になる以上は、愉しめる時に愉しむのが人情というもの」
大仰な身振り手振りで力説する永久に対し、カルドゥーレも鷹揚に賛同するも、啓益は双眸を鋭くしたまま、それらすべてを一蹴する。
「何度も言わせないでいただきたい。この旅は物見遊山ではござらん。言うなれば、これは戦。戦は拙速が常。無駄な時間を割くようなことは……」
「んな四角四面じゃ忍べるモンも忍べねぇだろうが。こういうのは陰気にやってちゃならねぇ……。むしろ、盛大に、にぎやかに、でもってド派手にやってこそ目を眩ませられるモンなんだよ」
「単に酒を馬鹿呑みする口実が欲しいだけでござろう。そのようなものに割く金子などござらん」
「おう。その通りだ。よくわかったな」
にべもない啓益に対し、永久もあっさりと首肯してのたまう。
「少しは否定していただきたい!!」
恒例の漫才をはじめる二人を、樰永と朧は呆れた視線で眺めている。それに気づいた啓益は咳払いした後に改めて告げる。
「とにかく宴会も湯治も無しでござる。そもそもこれは先を急ぐ旅」
「おーい、主人! 酒だ! 酒樽三つ持ってこ~~い!!」
古武士がそう締め括ろうとするのを、酒乱は至極自然に陽気な声でぶち壊した。
「ちょっ!? ふごっ!!」
当然、これに異議を唱えようとする啓益だったが、言の葉が紡がれる間もなく口に瓢箪の吞み口がぶちこまれた。
それも永久専用に酒精を数倍増しで強めた特別製の焼酎入りだ。
普段から酒を呑み慣れていない啓益にしてみれば堪ったものではなく、当然のように頭から爪先まで肌が真っ赤に染まり、おまけに目もグルグルと回って口から泡を吹き、後ろへと大の字になって倒れた。
カルドゥーレは倒れ込んでしまった古武士を介抱して脈などを測ると、顎に手をやってワザとらしくうなずいた。
「ふむ……。これは朝まで目を覚ますことはないでしょうな」
それを聞いた永久は我が意を得たりと笑み、拳を強く打ち鳴らして宣言する。
「よし! 一丁上がり~~っと! さあ、今日も呑むぞおまえら!」
得意気に腕を振り上げる叔母に、兄妹は嘆息まじりの苦笑を浮かべるしかなかった。
それからは語るまでもないことだが、そこから一気に酒乱の独壇場宴会となった。
宴会のための一室を丸ごと貸切にし、酒をはじめとした刺身の船盛などの料理が運ばれてくる。
「さあ! さあ! どんどん追加いっくぞ~~~~!!」
ものの数刻ですっかりでき上がった永久が音頭を取りながら、樽ごと酒を水のように呑み干していく。その様に宿の女中もドン引いていた。
「うむ。倭蜃の酒もなかなかに美味ですな。藍の米酒とはまた異なる趣だ……。いやはや、これだけでも故国を捨ててまで来た甲斐がありました!」
カルドゥーレもカルドゥーレでちゃっかりと満喫している。
その様に樰永は、おまえは何をしに来たのだと突っ込みたくなった。
そして、啓益はというと自らが取った男部屋の蒲団でいまだに伸びていた……。
「……なんかもうぐだぐだだな…………」
樰永は自身も刺身を食しながらも、どんちゃん騒ぎと化した場を呆れて見ていた。隣に座す朧も苦笑を浮かべて「ですね……」とため息をついた。
そんな甥と姪を、永久はギロリと睨み据え吼えた。
「オラ! ガキども! おまえらも元服してんだから呑めんだろうが!!」
「いや、俺は……」
叔母の勧めに樰永は拒否の仕草をするが、でき上ってしまった酒乱がそれで治まってくれるはずはなかった。
「うっせェ! ぐだぐだのたまってねぇで呑めぇっ!!」
と、先刻の啓益にしたように焼酎入り瓢箪を、甥と姪の口目掛けて投擲するが、二人はそれを難なくかわした。
「ああ! 避けんじゃねぇ~~~よぉ!!」
「無茶言うな! そんな滅茶苦茶に酒精を上げた酒、人間の呑み物じゃねぇ!!」
あんな一から十まで酒精だけでできた酒は酒ですらない。酒の皮を被った劇薬だ! 一口で確実に死ぬ!
「あ~ん? じゃあそれを呑んでる俺は人間じゃねぇってか? そうなのか! あぁんっ!!」
己にとっては許されざる暴言に、永久は酒気を帯びた貌に青筋を立てて、組討術で甥の首を絞め上げた。
「そんなこと言ってねぇだろ!! てっぇ! だから酔う度に噛みつくなよ~~~!!」
「叔母様……! 落ち着いて……!」
「はははは、倭妖の宴というものは、この上もなくにぎやかで剣呑としていますなぁ~~」
すったもんだを繰り広げる兄と叔母を朧が仲裁する一方で、高みの見物とばかりこの珍劇を肴に酒を愉しむカルドゥーレに、樰永は少しだけ本気の殺意を覚えた。
「いいご身分だな、てめぇ~~~~?」
「おやおや、剣呑、剣呑……」
それに対しワザとらしく畏まる商人。
「ユキナガ、わたしはこのサシミなるものをもっと食べたいです」
いつの間にか実体化し、刺身の舟盛りを丸ごと平らげながら、平然とのたまうアフリマン。
「あ~~~っ!! 俺の鯛が~~~っ!!?」
それを見て永久の顔色が変わる。彼女はすぐさま組討を掛けていた甥を蹴り飛ばして、アフリマンに肉薄する。
因みに蹴飛ばされた甥は「ぶべ!?」と奇声を上げてつんのめったが、蹴飛ばした張本人も臣下であるはずの悪神も気にも留めなかった。
「てめえー! このクソガキ、独りで食いすぎだぞ!」
「黙りなさい。そして無礼ですよ人間。この程度は神に対する当然の供物なのです。有難く謙譲するがいいなのです」
「ざっけんな! 金子を出したのは、この俺だ!!」
「いや、正確には旅費の金子を出したのは父上だからな……」
と、蹴飛ばした甥からの突っ込みが入るが、永久は意にも介さなかった。
「んなこたあどうでもいいんだよ! 今重要な罪は、このクソガキが俺の鯛を盗み食いやがったことだ!!」
「盗み食いとは心外なのです。そういうあなたこそ、神に対する尊崇や畏敬がまるでなってませんよ、人間」
「寝言は寝てから言えよクソガキが……! 神、神、神と持ちだしゃ、何でもかんでも許されると思ったら大間違いだってことを教えてやらなきゃな……!!」
「ほお……? 神にしてこの世総ての悪業たるわたしに刃向かいますか人間。よろしい。神罰ともいうものをその身に刻んであげるのですよ。それからサシミは、みんなわたしのものなのです」
「おお! 上等だ! なら神退治としゃれ込もうかッ!!」
遂には、箸を使った取っ組み合いにまで発展する二人。
「子供か……」
互いにいい歳して幼稚すぎるありさまに、樰永は呆れた声でつぶやいた。
「兄様、大丈夫ですか?」
「あ、ああ。どうにかな……。しかし、もう収取がつかなくなったなこれ……」
相棒と叔母は、追加されていく刺身を、互いに箸の剣戟を繰り出して奪い合う、凄惨かつ幼稚極まりない合戦を繰り広げていた。
「はい。ああなると叔母様も引っ込みがつきませんものね……」
「私はお二方が血眼になるのもわかる気がしますがね。この刺身なるものは確かに非常に美味、美味……」
その横で、カルドゥーレはちゃっかりと自分の分の刺身を確保して食していた。
「……おまえもおまえで大概だな」
抜け目ない商人を樰永はジト目で睨む。朧も眉根を寄せている。
そんな最中――
『ユキナガ、今の内です』
アフリマンの念話が脳内に響いた。
「ッ!?」
樰永は思わず吹き出しそうになるのを堪えた。
その様子を怪訝に思った朧が眉間をしかめて訊ねる。
「兄様、どうさないましたか?」
「い、いや、何でもない」
そう答えた後に樰永も念話でアフリマンに問い質す。
(今の内とは何だ?)
『無論知れたことなのです。今、ツルハゲ野郎は無様に伸び、この酒乱はわたしと合戦の真っ最中……。即ち、今こそが朧に想いを打ち明ける好機だと言ってるのです』
(……カルドゥーレの奴が残ってるが?)
主が懸念を伝えるのに対し、アフリマンはそれには答えず淀みのない声で残るお邪魔虫にひとさし指を突きつけ命じた。
「そこの商人。何を我が物顔で座って愉しんでやがりますか? そんな暇があるなら、わたしたちの酌をするがいいなのです」
アフリマンの要請に、カルドゥーレは特に気にした様子もなく鷹揚にうなずく。
「おお、これは私としたことが抜かりましたね。まことに失礼致しました」
そう言って徳利を手に、二人のぐい吞みに酒を注いだ。
「おっしゃあ――――ッ!! これで仕切り直しだ。改めて勝負と行こうじゃねぇか、クソガキ! これ以上てめぇにやる刺身はねぇ!! ついでに酒もな!!」
注がれた酒を一気に呑み干した永久は口元を腕で拭い、戦意を顕わにする。これにアフリマンもいつも通りの真顔で対峙する。
「望むところなのです。神に手向かう愚行を思い知るがいいなのですよ……!!」
(さあ、今の内なのです主よ。今こそが本願成就の時なのです……!)
相棒に促され、樰永もおもむろにうなずく。
「朧、行くぞ」
「え? 行くって――あ!」
唐突にかけられた兄の言葉に戸惑う愛妹を、樰永は構うことなくその腕を引っ張って宴の場を後にした。
朧を引っ張って宿の渡り廊下を軋ませて歩きながら、樰永はこれからのことを思案したが、考えはまとまるどころか空回りを繰り返していた。
――連れ出すことは連れ出した……。けれど、だからどうした? 確かに、ようやく二人きりになることはなれた。でも、それからどうするんだ俺?
とはいえだ。やることは決まっている。朧に長年の想いを打ち明けるのだ。
しかし、場所はどうする。啓益が寝ている男部屋は論外だし、かといって女部屋も永久がいつ戻るかわからない以上得策とは言えない。
――いっそ外へと連れ出すか? いや、さすがにそれは軽率にもほどがある。どこに芦藏や是叡の手の者が潜んでいるか知れたものではないからな……。
「あの……兄様? 突然どうなさったのですか」
「っ! 朧……」
妹が困惑の色を帯びた声をかけたことで、空回っていた頭がようやく冷え、握っていた手を離した。
そして、同時に己を恥じた。
――俺はひとりで舞い上がった挙句に空回って……! 肝心の朧の気持ちを失念していた。いきなり腕を引っ張って連れ出すとか、いくら兄妹でも引くよな。そう兄妹……って兄妹だからこそ引くようなことをしようとしていて今更か? ああ、またこんがらがって来やがった!!
再び懊悩を繰り返し思わず頭をかきむしる樰永の腕を、愛妹は自分から両手で握り締めた。
「朧……?」
朧は、自分でも自分の行動が信じられなかった。
「兄様――その……」
――待って。私、今何を言おうとしてるの? 兄様はきっと、もっと別のことで私を連れ出したに違いないのに――。
それでも口はもう止まることはできなかった。
「――――ッ。いっ、一緒に温泉に入りませんかっ!!」
「―――――」
兄が呻くような絶句を漏らす音が、返事の代わりに響いた。
鉛のように重たい沈黙が流れるにつれ、朧の胸中は深い後悔に沈んだ。
――ど、どどどどどどどどど、どうしょうっ! 絶対に引かれた!
華のような美貌を紅潮させ仕舞には湯気まで出す朧に、樰永は――
「ああ、いいぞ。先刻にも言ったが、俺もおまえに話したいことがあるし。いい機会だ。たまには兄妹水入らずってのもいいだろう」
そう淀みなく肯定の返事をのたまいながら、樰永の内心は先刻以上に懊悩していた。
――何が"兄妹水入らず"だよっ! 涼しい貌で俺は何ふざけたことをのたまってやがる!? 朧は単なる冗談で言ったんだろうに、真に受けて真顔で返答するって、俺はどこのド変態だ!!
しかし、そんな兄の自己嫌悪など知ってか知らずか、妹は顔を紅潮させたままうつむき加減にうなずいて、こぼれ落ちるように肯定の返事を紡いだ。
「――はい。私もです」
その仕草と恥じらう声に、愚兄の煩悩は臨界点を突破した。
――かっ、可愛すぎるッ!!! 俺、もう死んでもいいかも……!
などと、阿呆なことを本気で思う樰永の腕を朧がおずおずと引っ張る。
「そ、それじゃあ行きましょう。兄様……」
「あ、ああ、すまん……」
樰永は、その仕草に罪悪感を刺激されてかいくらか気を落ち着けて、ぎこちない返事を返した。