第参章 鬼神相愛 三 重なる想い
「……兄様の莫迦」
先に駆けた朧は切ない面持ちで独りごちた。
――本当に莫迦なのは私……。思い通りにならなかったくらいでむくれて、丸っきり子供じゃない。でも、彼女が兄様にすり寄るのを見る度に……!
朧は手綱を握る手に力を入れながら一月前のことを想起する。
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本当は、最初は想っているだけで充分なはずだった。
それがいつの間にか、それだけじゃ我慢できなくなっていた。
"妹"じゃ我慢できなくなってしまった。
兄様が好き。
いつも私に優しくて、望めばすぐに駆けつけてくれて、何よりいつも守ってくれて。
誰よりも何よりも愛しくて。
私だけのものにしたくて。
なんて身勝手で浅ましくて欲深な私……。
兄様は、私だけのものになんかなり得ないのに。我が身のおぞましさに吐き気がする。
私の成人の儀から三年の月日が経った。
しばらくは気まずい日々がもちろん続いたのだけれど、それも時の移ろう中で自然と解消され、私たちはこれまで通り仲の良い兄妹としての関係に戻った。
ううん。兄様はともかく少なくとも私はそのように装った。
あれほど兄様に拒絶されながら、私の気持ちは何ひとつも変わらなかった。
ううん。むしろ、日に日にすべてが兄様のことで埋め尽くされていく。
きっと月日が押し流してくれるという私の期待は脆くも崩れた。
もう、これは病だ。それも永久不滅の不治の病だ。
実の兄に女として愛されたいだなんて……!
いい歳にもなってどうかしている! そんな子供の戯れをいつまでも本気にしているだなんて!
自分ですらもそう思うのに、消えてくれない。熱も、火も、まるで消えてくれない。
いつまでも、いつまでも私を苛み蝕んでいく……!
当然だけれど、こんなこと誰にも打ち明けることなどできなかった。
打ち明けただけですべてが終わってしまう。
いいえ。事は私ばかりか、父様や母様たち鷹叢家のすべてが、兄様の夢が、何もかもが終わってしまう!!
その一念で私はこの想いを生涯封じ込めようと、一層に芸事や茶道に飽き足らず、武術や兵法の修練に時を費やした。
そして何より、この邪まな想いから目をそらすために、脇目もふらず我武者羅なまでにひたすら没頭した。
けれど――
私と兄様は一月前に父様に連れ立って扶桑の都へと赴いた。大樹の義圀様やご子息の義正殿とともに。
摂権家のひとつ萩原家で会談を行うためだった。
でも、その最中に――
「え? 兄様が」
「ああ、どうも樰永の莫迦が義正のガキといっしょに遊郭の方に消えたらしいんだよ。まったくお盛んなこった」
呆れまじりのあっけらかんとした声で言う叔母様を尻目に、私はどこか他人事のような心地で聞いていた。
ただ否応なく何故か速まる心の臓の動悸がうるさかった。
なんなの? これ……。
身体は冷えているのに、頭の芯が、血が、熱い。これはなに?
こんなの知らない――
それから間もなくして兄様は義正殿とともに萩原邸へと帰って来た。
当然ながら公事の最中に不謹慎かつ怠慢だとして、父様や義圀様から拳骨とお叱りを受けられたことは言うまでもない。
義正殿といっしょに患部を押さえてうずくまる兄様。
私はそんな兄様へと一歩、また一歩と近づいた。
「朧……?」
兄様が戸惑った声をあげるけれど、私にはそれすら耳に入らなかった。
ただ身体が冷えてるのに、頭が信じられないくらい熱い。のぼせていたわけじゃない。むしろ、すこぶる冴えていたと言っていい。
ただ、眼に映るすべてがにじんで真っ赤に染まっていたのは、今でも覚えている。
本当に何だろう、これは? 止めどなく何かが溢れてこぼれる。兄様の姿を見れば見るほど……!
そして気がつけば、私は片手を上げて、ポカンとした兄様の頬を思いっ切り張り飛ばしていたのだった。
皆が呆気に取られていた。父様も、叔母様も、啓益も、そして、兄様は私に張られた頬をおさえて唖然とした目で私を見ていた。
居た堪れなくなった私は踵を返して駆け出した。
もっとはっきり言えば、逃げ出したのだ。兄様から。
なんで……なんで怒ってるの私?
兄様が遊郭に行ったくらいで!
妹である私が出しゃばることじゃないじゃない! なのになんで……!!
逃げ出してはじめて私は自分が怒っていたことに気づき、それが何故なのかわからぬまま泣いた。
いいえ。何故かなんて本当はわかっている。
私の気持ちはあれから何ひとつとして変わっていない。
認めたくなかっただけだ。
私は兄様が、私以外の女のものになることが許せなかったのだ。
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自己嫌悪と嫉妬に身を焦がし懊悩しながらも、朧はそれを振り払わんと頭を大きく横に振る。
「しっかりしなさい朧。この旅は摂権からこの国を守るためのものでしょう。その大道の前には、あなたの個人的な感情なんて取るに足らない些末事よ」
そう自分に言い聞かせて馬脚をさらに速める。そんな朧の横に樰永が並走してきた。
「兄様……!」
それに気づいた朧はバツの悪い顔になるが、兄は至って平静な顔で注意した。
「ひとりで先走るな。この旅はおまえだけの旅ではない」
「っ……! わかっています。それよりも相方はどうなさいましたの?」
見ると、兄の膝であれだけすり寄っていた悪神の姿が見受けられない。
「騒ぐだけ騒いだら、さっさと実体化を解いて引っ込んじまったよ。ったく――勝手な奴だ」
樰永は、呆れと疲労がまじった声で吐き捨てる。
「そうですか……」
朧はぎこちない声で適当に相槌を打つ。
「なあ、朧」
不意に声をかけられた朧は、極めて平静な声で「何か?」と素っ気なく返すと樰永は苦笑して続ける。
「確かに俺は優柔不断な男なのかも知れない。けれど、本当に大切なものは弁えているつもりだ」
それに朧は唇を噛みながら顔を背ける。
「わかっています。今回の旅もそうですが、兄様にとって大切なのは鷹叢家や應州、延いては倭蜃の天下そのもの。これらを平定し治める以上に大切なことなど――」
「そうじゃない」
しかし、兄はその言葉を静かながら鋭い声で否定した。
「昨日も言ったように、俺が何より大切に思うのはおまえだ。それだけは何が在ろうとも揺るぎはしない」
「わかっています。妹としてだと言うのでしょう」
話はそれで終わりだとばかり、再び馬脚を速めて兄を追い抜こうとする。
「違う!!」
しかし、先刻よりも強い声音で否定を返され思わず馬を止めて、おもむろに振り返る。
対して樰永は真っ直ぐに火がついたような視線を妹に注ぐ。
「俺にとっておまえは――」
「私は――何ですか? 兄様にとって何なのですか?」
朧もまた真っ直ぐに兄を見返して先を促した。
――うっわ……! やべぇ。俺かなりやばすぎる!! 心の臓が高鳴って自分の声すら聞こえてねぇ!
樰永は自分を見つめ返す朧を前にして思考が完全に空まわっていた。だが、視線をそらすことはしなかった。
――私、また何はしたないことを聞いてるの!? もしまた勘違いだったらどうするの! というよりどうすればいいの!? きっともう二度と兄様の顔をまともに見られない!!
朧も朧で唇を真一文字に結ぶことで、どうにか今にも逃げ出したい衝動を必死におさえこんでいる。
「朧……俺にとっておまえは――」
樰永も踠くように言葉を紡ごうとする――が、
「若殿、姫。いかがなされましたか?」
「「っ!?」」
最高潮に高鳴っていた二人の鼓動は停止し、煮えるように上っていた血と熱は一気に氷点下まで下がった。
そんな二人を、啓益は馬上から冷ややかな目で見ていた。
「このようなところで立ち話など、誰かに見られれば怪しまれまする。先を急がれよ」
「あ、ああ、すまん……」
「ご、ごめんなさい」
『チッ! 気がまるで利かねえ石頭なのです……』
アフリマンが念話で毒づくのを、樰永は脳内で諫めた。
(そう言うな。啓益の言うことももっともだ。こんなところで話すようなことじゃなかった)
『よもや内心で安堵なんてして日和ってるんじゃないでしょうね?』
(馬鹿言え。確かにさっきは逸りすぎたが、俺は諦めたわけじゃないぞ)
そう内心で相棒に応えると朧に耳打ちで――
「……今夜、宿に着いたら二人きりで過ごそう。おまえだけに話したいことがある」
「っ! は、はい……」
『ほお……! ユキナガにしては上出来と褒め称えてあげましょう。けれど、これで本当に退路はもはやありませんよ?』
(当たり前だ。俺は俺の思いの丈を今夜こそ朧に伝える!)
樰永は、言われるまでもないとばかり決意を新たにして意気込む。