第弐章 大蜘蛛の巣中 転章 毒蜘蛛の君主論
鷹叢の兄妹がそれぞれ煩悶にのたうち回っていた頃の羽蝉城本丸――芦藏氏の居城では……。
当主の居室にて西界風の玉座に優雅に座し。
葡萄酒を注がれた、翡翠に輝く蜘蛛の巣模様が彫りこまれた丸脚付杯を片手に嵩斎は嫣然とした笑みを浮かべていた。
代々の当主の居室であった此処も、嵩斎が当主となって以降は西界の様式に改装されている。
西界製の天蓋付き寝台や書斎机に書棚が置かれ、羽蝉切子によって製造されたステンドグラスが嵌め込まれた窓がいくつか設えてある。
その部屋の主は今かなりの上機嫌であるらしく、ご満悦といっていい笑みを浮かべている。
それというのもだ。
「泰政……鷹がまんまと巣の中に飛んできてくれるようだよ?」
嵩斎の言葉に、泰政もうなずく。
「はっ! では、当初の予想通り鷹叢の小倅たちは内密理に扶桑へと入京してきそうですな。潜伏先は、大樹の繋がりから考えても萩原家でしょうか?」
「まあ妥当な線だね。一条宮家を探るには最良の場所だ。というより扶桑で應州の田舎武家にも協力的になってくれる公家なんぞ、あの家くらいなものだ。それしかないだろうとも……」
小夜啼鳥が囀るように嗤う若殿に、泰政はどこか苦々しさを含んだ声で疑問をぶつけた。
「殿……。よもや鎮守府将軍任官の件、摂権殿下に糸を――」
従者の疑念を嵩斎は微笑で一蹴する。
「まさか。この僕がそんな畏れ多いことをしでかすような人間に思うかい泰政?」
「……おそれながら、まるでありえないことではないかと」
「はははははっ! 酷いね、おまえ! まあ、そこが割と気に入っているんだけれど」
家臣でありながら無礼討ち同然の言を平然とのたまう少年武士に、若殿も哄笑でもって返す。
「はぐらかさないでいただきたい……」
泰政はどこか拗ねたような調子で主に迫る。
嵩斎は一本気な家臣の姿を愛でるように眺め回すと、典雅な声で事もなげに疑問に答えてやった。
「まあ、おまえの推測は半分は当てっているよ? 確かに僕は糸を使った。ただし是叡の延臣たちにだけど。そいつらを使って、是叡の奴に僕を鎮守府将軍にすることで、鷹叢の反発を招いて應州に戦禍を起こし、弱体化させようと唆したってわけ……」
その返答に、泰政は呆れがまじった嘆息をついて諫言する。
「結局は同じことではありませぬか……。朝臣にそのような所業をしたことが表沙汰ともなれば芦藏も唯ではすみませぬぞ!?」
「クス……。相も変わらず心配性な奴だね、おまえは。心配しなくてもあいつらにそんな頭なんてありゃしないさ。なにせ藍の宦官どもに国を売ってでも、僕ら武家を根絶やしにしようなんて考える愚者どもだからね」
「藍帝国に!? 殿。まさかそれも――」
すると、嵩斎のまとう空気が一変し、明らかに怒気を含めた声音で叱声が飛ぶ。
「泰政。この僕がそこまでの見境無しと思うか? 口を慎め」
「は、はっ! ご無礼をば!!」
泰政も己の失言を悟り平伏して謝罪する。
すると苛烈な怒気は一瞬で失せ、元の典雅な笑みを浮かべて臣の謝罪を受け入れた。
「まあ、いいよ。我ながら日頃の行いが行いだからね……。おまえが疑うのも、もっともと言えばもっともだろうさ。だが、その僕をもってしても摂権殿の愚行は度し難くてね」
やれやれと嵩斎は肩をすくめた。
「廷臣を通じてどうにか思い止まるよう諫言してみたけれど、"武家を殲滅することこそが最優先事項"と押し切られてね。まったく、その後のことを考えてるんだか怪しいものさ」
呆れがまじった声で吐き捨てる主に対し、泰政も赫怒の面持ちでうなずく。
「左様です。外国を利用することがどれだけの危険を伴うのか公卿どもはわかっていない! 五大摂権家、そこまで堕ちたか……! 嵩斎様。そのような大事を、鷹叢の小倅を釣るためとは言えど放置していてもよろしいのですか?」
泰政が真摯な声で訴えるも奔放な主は鼻で嗤うだけだ。
「何を言ってるんだい? だからこそ鷹叢の若様に頑張ってもらうんじゃないか」
「嵩斎様……!」
泰政が何かを言う前に嵩斎は人差し指でその口を押えて、呆れたような声で嗤う。
「本当に生真面目だねおまえって……。いいかい? これはお遊びなんだ。今回、僕たちは遥か高みからの見物さ。せいぜい見せてもらおうじゃないか。新たに戴冠した神座王の真価のほどをね。そもそも、うちは今なんと言っても喪中なんだからさ」
「……嵩斎様、御身は何をなされたいのですか?」
「何だい? 藪から棒に」
「御身の手腕を疑ったことなどありませぬ。文武に卓越されさまざまな戦に勝ち、羽蝉切子による殖産興業で芦藏の財源は言うに及ばず、この南應州の経済を大いに富ませ申した」
「うん。そうだね。我ながらよくやってると思うよ」
平然と自画自賛する主君を、泰政は一層歯痒そうに見る。
「されど、私には時々御身のことがわかりませぬ……!」
「というと?」
「そういうところがでございます! この世の何もかもを御身は、遊戯と捉え、ひとを玩具と捉え、酷薄に残酷に壊そうとなされる……!」
「うん。で、それの何がいけないのかな?」
「嵩斎様……っ!?」
「だって世の中退屈にもほどがあるんだもの。だったらこっちもこっちで愉しんで、何が悪いってぇのさ」
平然と吐き捨てる主に対し、泰政は怒りと歯痒さがまじった声で諫める。
「それは、君主たる者の言葉ではありませぬっ……!」
しかし、嵩斎は真摯な諫言をゾッとするような冷笑で一蹴する。
「じゃあ君主たる者って何さ? 君主だの諸侯だの、しょせんはどいつもこいつも我が儘な童のようなものじゃないか。父上だってそうさ。應州を盗人から取り戻すだのと抜かして、バカのひとつ覚えみたいに戦三昧ときたもんだ。その結果、国力と金蔵、百姓から毟りとった米蔵を著しく削ってさ。どいつもこいつも血眼になって馬っ鹿じゃないの~~?」
どこか小馬鹿にしたような調子で言う主を、泰政は責めるようなそれでいて寂し気な眼で睨む。
「そんなに睨まないでおくれよ。ほんの冗談じゃないか。いちいち熱くなるなよ」
それを受けてもなお、嵩斎は鈴が鳴ったように嗤ってはぐらかすが、そんなもので少年武士は納得しなかった。むしろ、さらに真摯な言葉を重ねる。
「嵩斎様。私は御身を敬愛しており申す! 御身こそ應州を、否! 倭蜃国を統べる棟梁となられるお方と思い定めておりますれば! にも拘らず何故そのお力を悪謀にのみ使われるのですか!?」
しかし、臣下の熱意に反して、当の主はひたすらに醒めていた。
「何故、ねぇ? さあ、僕にもわからないよ。ただ僕という存在はひたすらにそういうふうにできているんだ。ごめんね? ご期待に添えない主で」
「嵩斎様!」
泰政はそれでもなお追い縋るように声をかける。
しかし、嵩斎は冷淡かつ断固とした声で拒絶した。
「おまえも、いい加減現実なんぞに夢を見るのはやめにするんだね。大概そういう類は肝心なところで赤い舌を出されるのがオチさ。この世はしょせん生き地獄という名の悪夢だよ。なら僕らもせいぜいその悪夢の中で、それなりに愉しもうじゃない。世の中、愉しんだ者勝ちってね。でなきゃ損ってものだよ」
それだけ言うと嵩斎は居室を出て行ってしまった。
その後ろ姿を、泰政は忸怩たる想いで見送ることしかできなかった。