第壱章 鬼神戴冠 一 兄妹
東界の果てに、"王"を戴かず"武士"と呼ばれる武人たちが治める『倭蜃国』と称す小大陸国家あり。
武家のほとんどが強大な妖との混血である故か、すぐ隣の東西大陸の中原を治める藍帝国などからは"倭妖"若しくは"刀鬼"とも呼ばれ恐れ蔑まれている。
かつて彼の国を開き治めてきた王や王家の血脈も途絶え、代わって台頭した武家の棟梁たる大君家の牙も萎え。昔日の勢いは今やなし……。
結果、大小さまざまな星の数ほどもある武家を野に放つことに相成り、群雄割拠の大乱世という災禍におおわれた地と化していた……。
そんな戦国乱世にあって東北の地『應州』では――
「樰永! 樰永はどこにおる!」
壮年の武士が地団太を踏まんばかりに愚息の名を叫んでいた。
髷に結った赤みがかった黒髪の総髪は赫怒のあまり総毛立ち、黄金色の双眸は忌々し気に瞳孔が開いた上、普段は美丈夫と称してもよい秀麗な面立ちに皺が寄っていた。
この武士の名を鷹叢悠永と言う。彼もまたこの乱世で割拠する戦国大名の一雄である。
そんな夫を妻の月華が呑気な微笑と声音でなだめていた。
「まあまあ、落ち着いてください悠兄様。樰永くんが城からいなくなるのは、いつもの日課ではありませんか」
月華は、青みがかった黒髪に宝玉のような朱の瞳を持つ童顔ながら柔らかな顔立ちの美女で、既に十代後半になる二子の母とは思えぬほどに若々しい。
「そんなもの"日課"にされてたまるか!! そも嫡男でありながら家中の評議を無断欠席するなぞ言語道断!!」
赫怒の突っ込みが入るが、変わらず月華はニコニコと微笑みを崩さず夫を諭した。
「――けれど、悠兄様もわかっておいででしょう。あの子がただ無為に日々を遊んで過ごしているわけではないと。あの子はあの子なりに、次期当主としての自覚と役目を受け止めようともがいているだけ。かつての貴方のように――」
「ぐっ……! そ、そのようなこと言われずともわかっておる……が、しかしだなぁ!!」
なおも言い募る夫の手を握り、花が咲いたような笑顔で黙らせる。
「信じてあげましょう。なんといっても私と悠兄様の子なんだから。ね!」
「ぐぬ………」
それを最後に悠永は押し黙るしかなかった。
一方、隣室で父の怒鳴り声を聞きながら琴を奏でていた、月華によく似た腰にまで届く青みがかった黒髪の娘は、諦観まじりに嘆息した。
その面立ちは誰もが眼を瞠るほどに流麗であり慎まやかながら、どこかそれらとは真逆の妖しく艶めいた美貌が奇跡的な均衡で同居していた。
彼女の名を鷹叢朧といい、悠永と月華の息女であり鷹叢の姫である。
「また評議に顔を出さなかったのね……。兄様ったら――」
朧は華のような美貌に苦笑を浮かべた。
兄はいつもそうだ。
自由闊達で奔放――"ジッとしている"という言葉自体が辞書に存在しない。そんなひとだ。
でもだからこそ、誰もが惹かれずにはいられない。
そんな魅力を持った男なのだ。
そして、かくいう自分も――いや、自分こそがその魅力の虜になっている最たる者だと自覚していた。
「兄様……」
唇に指で触れながらつぶやく。その声音には狂おしいまでの愛おしさがこめられていた。
―― 朧 ――
兄にそう呼ばれる度に鼓動が跳ね上がる、息が弾む、胸が熱くなる。
それは、妹が兄に抱く感情の許容を明らかに逸脱していた。
それを思うと朧のため息はさらに大きく重くなった。
自分が抱くこの想いが異端であることは誰よりもよくわかっている。決して赦されるものではないということも……。
けれど、それでも自分は――
「けれど、あれじゃあ父様の血圧がまた上がりそうですね。どうせ大方はきっと――」
と、その想いを一旦は胸に仕舞いこみ、兄の居所の見当をつけていた朧は、部屋を出て父に申し出た。
「父様。兄様の居場所ならおおよそ見当がついています。私がお呼びしましょうか?」
「朧か……。ああ、頼む」
「はい。それよりもそのご様子からして余程の火急な用件なのでしょうか? また芦藏が何か? それとも扶桑の公家方がまたも無理難題を?」
だが、娘の推測を悠永は首を横に振って否定する。
「否、今回は何れでもないのだ」
「では何なのですか?」
すると、母が少し困惑した声で答えた。
「うん。それがねぇ――」
鬼哭滝……。
應州の中では最大の河である鬼哭河を源流とする大滝であり神域でもある。
一説には鷹叢家の始祖である鬼神が彼の地に降臨した場所とも言われており、大滝の中には隠し社が建てられているとも言われている。
無論真偽のほどは定かではないが……。
睦月の最中、風は冷たく土壌が一面眩い雪原と化している中で、氷の膜すら張ることはなく、弛まなく流れる滝の前で、臙脂色の直垂に身を包んだ赤が混じったザンバラの黒髪の若武者が佇んでいた。
どこを見るでもなく黄金の双眸を焦点が定まらぬ虚空へと注いでいた。
若武者の名を鷹叢樰永という。御年十七歳になる鷹叢家の嫡子である。
その傍には、愛馬である赤い鬣と白い体躯の天馬が河の水を飲んでいる。
名を赤羅。西界との交易で手に入れた聖獣で樰永が六歳の時に父から与えられた相棒だ。
「――妙だな。今日は、鳥一羽飛んでいない」
何ともなく空を眺めていた樰永は、白い息とともにぼそりとつぶやく。
いつもこの時分には隼などが飛んでいるのだが、今日にかぎって一羽も見当たらない。空は嫌になるほどの晴天であるにも係わらずだ。
「どうも嫌な感じがするな……」
白い息を吐いて胡坐をかく少年は、その実それとは別のことで頭を抱えていた。
「ここはいつ来ても落ち着く。それに余計なことに煩わされることもない………」
自分は鷹叢家の次期総領として立たねばならい身だということは無論のこと承知しているし、受け入れる覚悟はある……。
「しかしだ。俺は公家衆どものご機嫌取りなんぞ性に合わん。何が悲しくて、あんな家の格だけの愚物どもに阿り、接待までし、挙句に貢物なんぞをせねばならんのだ」
当主である父は度々、神都『扶桑京』を今は亡き王家に代わって治める"公家"に貢物をして正式な官位を得て、秋羅国をはじめとした七ヵ国、ひいては應州全土の統治を認めさせようとしている。
「無論、芦藏に先んじて應州支配の大義名分を固めたいというのはわかる。なにせ我が家は、お世辞にも秋羅国ですら正当な太守とは言い難いものな……」
億劫だとばかりに溜息をついてると――
「兄様!」
「ん?」
己が最も良く知る、そして最も愛おしい声が響いた。
見ると、案の定樰永にとって最愛の妹が豪奢な打掛をまといながらも、風のような身軽さで河に点在する石段を足場に跳躍し、こちらへと向かっていた。
「朧……」
朧は兄の――樰永の元にたどり着くと、肩を怒らせ大きな眼をつり上げて叱声に近い声を兄に浴びせる。
「兄様。やっぱりそこにいらしてたんですね。父様がカンカンになって呼んでいましたよ」
「ん? ああ……」
「……どうかなさいましたか?」
兄のどこか物憂げな瞳に、朧は怪訝な視線で見つめると、樰永は妹の頭をポンポンと叩いて安心させるように言った。
「おまえが案ずるようなことじゃないさ」
すると、朧は頬を膨らませて赤面しながら抗議する。
「もう――! 子供扱いしないでください! 私は今年で十六です!!」
「ははは、悪かったよ」
そう苦笑して妹をなだめるふうを装いながら、樰永は鈍く重い痛みを堪えねばならなかった。
――ちくしょう……。本当になんで、こんなかわいいのが俺の"妹"なんだろうな。
妹は――朧は、日に日に美しくなっていく。
しかも、その目が眩むような笑顔をまったくの天然無自覚で自分に向けてくるのだから、こちらとしては堪ったものではない。
これは一種の拷問だとすら樰永は本気で思っていた。
まあ、それは自分の頭がどうかしてしまっているだけなのではとも思うが――
――いや、本当に俺は頭がいかれてるんだろうな……。
「兄様?」
物思いに沈んでいると、いつのまにか朧が顔面に極めて近づいて問い質しており、樰永は少し慌てて用件を訊ねた。
「そ、それで父上はどんな用件でお呼びなんだ? まあ、大方は芦藏の件か公家どもへの接待だの貢物だのの話なんだろうが……」
しかし、その予想は早くも外れた。
「いえ。実は西界の国から商団の方々が訪ねて参ったと……」
「商団? 西界から……」
樰永は訝しげな声で問い返した。西界とは海を隔てた隣国・藍帝国よりさらに西へと進んだ先にある国々のことだ。
近年の倭蜃国にも多くの西界人の商人たちや宣教師などが渡来している。この秋羅国では特にそれが顕著だ。
「はい。なんでも珍しい品々を持参してきた故、兄様も同席するようにと……」
妹の言葉に樰永は顎に手を当てて黙考する。
――西界の商団か。別にウチじゃ珍しいことじゃないだろうに。俺をわざわざ呼ぶほどのことか? それとも、それほどの客人。もしくは、それほどの品物ってことなのか。親父殿が騒ぐほどの? この胸騒ぎはそれ故なのだろうか?
「……わかった。すぐに参る」
何にせよ――この眼で見て、この耳で聞き、この肌で感じて、見ぬことには何もわかりはしない。
樰永は、そう思い定めると朧を抱き上げて赤羅に騎乗する。
「に、兄様!?」
朧が上ずった声を出すが、樰永は構うことなく手綱を握る。
「赤羅の足と翼の方が遥かに速い」
そう言うや赤羅を地上から翔けあがらせ、瞬く間に雲中へと至った。
兄に抱きかかえられた瞬間、朧は動悸が跳ね上がるかのように高まるのを感じていた。
――兄様の腕。兄様の胸板。兄様の吐息。そのすべてが今私の近くにある。けれど、そのすべてがあまりに遠くにある。私は、それがあまりに悲しい……。
朧は兄の胸の中に顔を押しつけて、表情を見られぬように努めなければならなかった。だって今の自分は、とてもひとに見せられるような貌をしていないから……。
――私はどうして兄様の"妹"になんて生まれてしまったのだろう……。私がこんな疚しく穢らわしい想いを抱いているだなんて、とても兄様には言えない! きっと軽蔑されてしまう……。
「朧……そんなにしがみつかなくても俺は落としたりせんぞ?」
「……そんなこと、これっぽちも思っていません」
兄の言葉に半ば拗ねたような声音で返す。
「なら何だ?」
「私は、ただ――」
朧は"今だけは、兄様の温もりを深く感じていたい"と口走りそうになるのを、必死に押し止め代わりに――
「……兄様の朴念仁」
と、邪険に吐き捨てるだけが精一杯だった。
「何だよ、それ………」
妹の唐突な理不尽に、どこか納得いかなげに貌をしかめる樰永だったが、内心では彼も妹同様に、もしくはそれ以上に余裕がなかった。
――本当に勘弁してくれ。こっちはこっちで身が持たん……! おまえの、その……柔らかな部分が、俺の体にいろいろと当たって――!
なにせ朧が樰永の身体にしがみついた結果、その着物越しでもはっきりとわかる、豊かな胸部や太腿がこれでもかと存在を主張していた上、その艶めいた髪や白い肌から漂う甘やかな香が鼻孔をくすぐり、年頃の若者の身体に大きな刺激と衝撃を与えていた。
正直にいって樰永は自分の理性が今にも弾けるのではと戦々恐々としていたが、それを頭の中で秋羅国の未来だの、西界との交易だの、天下の構想だの、いかにも生真面目なことを思い浮かべることで辛うじてせき止めていたが、頭の回転はお世辞にもあまり円滑には回らなかった……。
また、改めて実の妹に対し、このような邪まな情欲を抱くなど……やはり自分は筋金入りの"変態"なのではと、今更ながら凄まじい自己嫌悪に陥っていた。
そうして兄妹は、お互いにそれぞれ煩悶としながら城への帰路に着こうとしていた。