第弐章 大蜘蛛の巣中 十 出立前夜
扶桑の旅立ちが決まった夜。
樰永は悶々としながら旅の準備を進めていた。鷹叢の、ひいては倭蜃国の未来が懸かった戦いに私事で煩悶としている元凶が同行することとなり、気が気ではなかったのだ。
そんな主の隣で例によって無駄に元気がいい魔神がやかましく激励していた。
「何をうなだれることがありますか、ユキナガ。むしろ、これこそが好機! この旅でオボロとの仲を兄妹以上にまで深めるのです!」
アフリマンの叱咤に、樰永は旅支度を進めながら、げんなりとした顔を向けた。
「だから、大声でのたまうな。仲を深めるったって、今日あんなことがあった後なんだぞ? 気まずいったらありゃしない」
朧との悶着を思い出しながら、樰永は苦々しく吐き捨てる。
「そもそも、今回の旅はそんな趣旨じゃねぇんだよ。話を聞いてなかったのか? 第一、この旅には朧だけじゃなく叔母上や啓益、あのカルドゥーレまでついてくるんだぞ。そんな迂闊な真似ができるか……」
「旅の道中二人きりになれる機会はいくらでもあるでしょう。その機会を逃さずに畳み掛けるのです!」
両拳を握って「むん」と鼻息荒く捲し立てる相棒に、樰永は頭を抱えて疲労の色を濃くする。
「おまえ、つくづく振る舞いと言動が肉食獣だな。さすが自ら"悪食"と称すだけあるな……」
「お褒めに与り光栄の至りなのです」
えへんと胸を張るアフリマンに、樰永は「褒めてねぇ……」と突っ込むのだが、自由闊達な悪神にはまるで堪えていないようだった。
「兄様」
そこへ件の愛妹本人が障子戸の奥で声をかけてきた。
途端に樰永は心の臓が跳ね上がるほどにギョッと身を竦めた。
「入っても、よろしいですか?」
遠慮がちに訊ねる朧に樰永はしどろもどろになる。
「い、いや、今は――」
チラッとアフリマンの方を見るが、当の悪神は既に実体化を解いて腰のシャムシールへと引っ込んでいた。
(おい! こんな時に限って……!)
『ファイトなのです! ユキナガ、今こそ漢を見せるのです!!』
脳内に、お節介な念話が喧しく轟いた。
内心で毒づく樰永だったが、もはや儘よとばかりに「は、入っていいぞ」と、腹を括って肯定の返事を妹に返した。
「失礼します……」
朧はゆっくりとした動作で障子戸を開け、兄の部屋へと足を踏み入れた。
兄妹は先刻のこともあってか互いに気まずそうに目を伏せており、ぎこちない沈黙が流れた。
やがて、樰永が諦観とともに意を決して口を開こうとするが、その前に朧が早口で口火を切った。
「ごめんなさい!」
「は?」
何故、謝る?
目を点にする樰永をよそに、朧は矢継ぎ早に捲し立てる。
「私には兄様の交際関係を糾弾する資格なぞありませんでした! そも兄様は嫡子として鷹叢の後継を作らねばならぬ身の上だというのに……! それを一切斟酌もせずにつまらない我が儘を申しました!!」
叫んで頭まで下げる妹に、樰永は逆に気圧されていた。
「いや、朧。あのな……」
「本当に、ごめんなさいッ!!」
「いや! だから!!」
謝り続ける妹に兄は思わず、その肩をつかんで制止した。
その時、目を伏せていた二人は、互いの目を見つめ合う形となり、しばし固まる。
「ひとまず――落ち着け。俺の話を聞いてくれ」
「は、はい――」
二人は一旦居住まいを正す。そして少し距離を開けて、再び見つめ合う形となる。
樰永は咳払いをひとつさせると、今度は自ら口火を切った。
「あのなあ、今朝のことはアフリマンの暴走で俺に他意はないんだ」
「……わかっています。彼女はいろいろと常識というものが欠如しているようでしたし。けれど、それを差し引いたとしても兄様も兄様だとは思います。武士たる者が、隙だらけにもほどがあるのではありませんか?」
「ぐっ! ……すまん。正直面目次第もない」
愛妹の鋭い指摘に、樰永も頭を下げるより他なかった。
確かにここ最近は、あの身勝手極まりない悪神に振り回されてしまっている自覚が樰永にもあった。
「だが、これだけは信じてくれ。確かに俺とアフリマンは神座王と刻鎧神威としての盟約を結んだ。だが、それは言うなれば主従関係だ。決して、おまえが思っているような間柄では――」
「ですから先にも申し上げました通り、私に弁明なさる必要はないでしょう? 妹の私にとやかくいう権利などないのですから……」
朧は拗ねたように突き放す。それでも樰永はめげることなく言葉を尽くし続ける。
「だから、俺もそんなことは一言も言っていない! そりゃ時々は口うるさく思うことがあるのは否定しないが、むしろ口出ししてもらわねば俺が困るし、何より無関心でいられるのはもっと嫌だ!!」
瞬間、水を打ったような静けさが訪れる。朧は目を丸くして兄を凝視する。
当の樰永すらも己が口に出した言葉の意味を今更ながらに理解し固まる。
「い、いや、これはその――」
「何故ですか?」
突発的に出てしまった本音をどうにか取り繕うとするが、それをさせまいと朧がズイと進み出て詰問する。
「うっ……それは、だな――」
相も変わらず言葉を濁す兄に、妹はじれったいとばかりにその身体を密着寸前にまで近づけて再度――そして先刻よりも言葉を強調させて問う。
「何・故・で・す・か?」
「……ッ!?」
愛妹の迫力にあらゆる意味で気圧される樰永に、アフリマンがここぞとばかりに念話で煽ってくる。
『"今"なのです! "今"こそが告白の好機! この瞬間が攻め時でなくてなんなのです!』
――~~~ッ!! いいから黙ってろ! この耳年増神ッ!!
樰永は脳内で相棒に怒鳴ると、意を決して再度朧と向き合い口を開いた。
「朧。おまえは俺にとって何物にも……それこそ一国や天下にも代えられぬ、掛け替えのない最愛の存在だ」
「え!?」
樰永の言葉に、朧の美貌が朱で染まった。
『おぉぉ―――!!』
アフリマンも樰永の脳内で感嘆の声を出す。
「だからこそ、おまえに無視されるのは正直に言って辛い。それならいっそのことあからさまに憎まれた方がマシなんだ。おまえにはずっと俺の隣で口喧しくしてくれなきゃ困るんだよ」
「え? えっ――!?」
兄の告白も同然の言葉を受け、朧は完全にテンパってしまう。だが――
「だっておまえは――俺の唯一の妹だからな!」
途端に朧の瞳から光が掻き消え、能面のような無表情を浮かべた。
「ええ。そうですよね……。そんなことだろうと、どうせ思っていました……」
樰永は顔を引きつらせて、絶対零度の空気を放つ妹から少し離れる。
『チッ! これだからヘタレの童貞は――』
脳内でアフリマンからも盛大な侮蔑がこもった舌打ちをいただくも、樰永も心中で毒づき返す。
――うるさい。やっぱりこんな時に言えるようなことか!
「――もう、いいです。それでは兄様。私も明朝に備えて休みます」
朧は憮然とした面持ちで吐き捨て部屋を後にしようとするが、樰永が呼び止めた。
「待て、朧。本当についてくる気か?」
その言葉に、朧は真っ直ぐと兄を見つめて即答する。
「はい。もちろんです」
「父上と啓益も言ったが、これは物見遊山でもなければ普段の遠乗りとはわけが違うんだぞ」
樰永は敢えて厳しい声音で質すが、愛妹の答えは微塵も揺らがなかった。
「愚問です兄様。私とて武家の娘であり武人なのですから。覚悟はあります」
「わかってるならいい……。だが突然どういう風の吹き回しだ?」
「……どういう意味ですか?」
「いやその……おまえは自己主張なんて滅多にどころか、ここ最近はまるでしなかったからさ。今度にかぎってなんでだと思ってな……」
兄の問い掛けに、朧は目尻に涙すら浮かべてキッと睨んだ。
その眼差しに、樰永は気圧されたように怯んだ顔になる。
だが、愛妹の口から出た言葉は意外なものだった。
「なんでって……! そんなの――たとえ極わずかな時であろうとも……兄様の傍にいたいからですっ!!」
「―――」
「私は、きっと遠からず他家に嫁がされる……! それは武家に生まれた女の宿命です。私とて受け入れる覚悟は既にできています。でも、でも! せめてその時がくるまでは、兄様の隣に在りたい! 兄様の近くで! 兄様のすべてを感じていたい! そう願ってはいけないのですかッ!!」
そう叫ぶや否や朧は、今度こそ部屋から出て行った。
後に残された樰永はしばらく放心したように棒立ちになっていたが、やがてゆっくりと仰向けに倒れ両腕で目元をおおった。
そこへアフリマンが実体化して両腰に手を当てて呆れた声音で主を叱責する。
「――まったく、オボロの方がよっぽど腹が据わってますね。それに引きかえ……我が主はなんとも無様なことなのです」
「うるさい。そんなの俺が誰よりもよくわかっている。疾うの昔にな……」
そうだよ。俺が根性無しなんてことくらいとっくにわかっている。そして、朧は強い。自分が情けなくなるくらいに……!
「けど、それ以上に俺、今嬉しくて死にそうだ……!」
樰永は涙すら浮かべて噛み締めるようにこぼした。
"たとえ極わずかな時であろうとも……兄様の傍にいたいからですっ!!"
もう、この言葉だけでも充分だった。
たとえ、そこに乗せられた想いが自分とは異なるものであったとしても。
「それで満足していては、合戦は終幕なのですよ?」
そんな充実感を吹き飛ばすかのように、アフリマンの不機嫌な顔が零距離で接吻寸前まで迫る。樰永はそれを押し退けてぶっきら棒に言う。
「わかってる。俺の戦いはあらゆる意味でこれからだ」
「わかっているのなら結構なのです。さて、今夜は夜伽の手解きを……」
そう言ってまた衣をはだけさせるアフリマンに、樰永は怒声で突っ込む。
「だ・か・ら! そんな必要はないって言ってんだろうがァァァァァァッ!!」
「~~~~~っ!!」
兄と悪神が漫才を繰り広げていた頃、寝間着に着替えた朧は自室の夜具で、羞恥のあまり顔を真っ赤にして枕を手に幾度も寝転がりながら悶えていた。
「私ってば! 私ってば! なにをいってるの~~~っ!?」
あのような台詞、告白も同然ではないか! 絶対に兄に引かれたに決まっている!
「うぅぅ……! 穴があったら入りたい。というよりなかったことにしたい~~~!」
「何をなかったことにしたいって?」
「え?」
背後から自分の言葉に返す声が聞こえ、朧は目を点にして振り返ると、そこには同じく寝巻着に身を包んだ永久がいた。
「お、お、叔母様っ!? どうして、ここに……?」
朧がおっかなびっくりな形相で問い掛けると、永久は心底不思議そうな目をして言った。
「どうしても何も、おまえも旅に同行するってぇなら、久しぶりに可愛い姪と添い寝しながら雑談に興じるついでに、その心構えを伝授してやろうかと思ってな」
どこか悪戯っぽく笑う叔母に朧は呆れて指摘する。
「それは、むしろ後者が主題であるべきではありませんか?」
「何を言う? 俺にとっちゃ可愛い姪との雑談の方が重要なんだよ。固い話なんぞは、啓益に丸投げすりゃいい」
「相も変わらず酷いですね……」
朧は苦笑しながら髪が減りかけている古武士に同情した。
「しっかしだ。おまえが自分から同行を申し出た時には、俺もさすがに驚いたぞ? そりゃ、おまえの根は真正のお転婆娘だが……自分から我が儘をいうような気質じゃないからな。むしろ、自分の中に溜め込んじまう性質だ」
「申し訳ありません……」
うなだれたように謝罪する姪の頭をクシャクシャと撫でつけながら、永久は首を横に振った。
「別に責めてるわけじゃねぇよ。少し意外に思ってな。ただ鑑みるにだ……。また樰永の莫迦となんかあったか?」
「なっ!?」
途端に朧はギョッと度肝を抜かれるも、すぐに平静を保って問い返した。
「――何故、そうお思いに?」
「はっ! 何故も何も、おまえがあからさまな行動を取る理由なんざ、あいつぐらいなもんだろう」
カラカラと笑う永久に朧は「敵わないなぁ」と内心で呟く。
この叔母は普段は軽薄な酒豪を気取っているが、その実は微に入り細を穿つを地で行く人物で、周囲への配慮と気配りができるひとなのだ。
自分や兄は言うに及ばず、父母もどれだけこのひとに助けられたか数え切れない。
「やんちゃで兄貴にべったりな甘えん坊だったのが、ずいぶんと淑やかな娘に育ったもんだと思ったが、結局はいまだに兄離れはできず仕舞いか。西界風に言えば"ぶらこん"という奴だな……」
嘆息気味にやれやれと吐き捨てる叔母に、朧は少し頬を膨らませてソッポを向いた。
「余計なお世話です……」
「いじけるな、いじけるな。別に誰も悪いことだなんて言ってねぇだろ」
「けれど、武家の姫としては問題外だとおっしゃりたいのでしょう」
どこか拗ねたように模範解答を述べる姪に、当の叔母は頭をポリポリとかいて事もなげに言う。
「それに関しちゃ、俺もおまえに説教垂れられる立場じゃねぇからな……。おまえの時分にゃ、親父殿をそりゃ大いに嘆かせてたもんだ」
「目に見えるようですね……」
朧は苦笑を返すのみだった。永久はそんな姪の面持ちを見て、またおもむろに口を開いた。
「なぁ、朧。おまえ、俺や兄者と義姉者に隠してることねぇか?」
「え? 急にどうしたのですか」
朧はあくまで平静な声で問い返すが、その実、動悸は少し跳ね上がっていた。
「まあ、おまえらの時分じゃ大抵のことはテメェの内に溜めこみ易いからな。そういうのが一番危うい。相談できる時に相談して欲しいってのが、俺や兄者たちの本音だ」
「……ありがとうございます。けれど私は溜めこんでいることなど何もありませんよ」
朧はどうにか微笑を取り繕って答えた。だが、永久は神妙な顔を崩さない。
「……おまえのことだけじゃねぇ。樰永の莫迦もだ」
「……ッ!?」
「むしろ、あいつの方がおまえよりもあからさまだな。ガキの頃は妹のおまえに付き切りだったのが、ここ最近は露骨に避けている節さえあるな」
「そ、そうでしょうか? 今でも私が頼めば、遠乗りにも連れて行ってくれますよ」
「おまえが頼めば、な。だが、あいつからおまえを誘うことはなくなったな……」
「ど、どうでしょうか?」
朧は自分の声が震えていないことを祈りながらはぐらかす。しかし、それでも叔母の鋭い眼が緩むことはなかった。
「おまえは根っからのお転婆娘で幼い時分には、兄者や俺の手をさんざんに焼かせたよな。そのお転婆もこうして成長するに連れて、少なくとも表には出さなくなったが……」
永久は双眸の鋭さを増しながらもどこか寂しそうな声音で続ける。
「俺が知るかぎりで、最近でおまえが我を出したのは一度きりだ。樰永が義正と遊郭へと赴いた帰り……」
「っ!!」
「おまえが樰永の奴に平手をかました時には、俺も兄者も度肝を抜いたぞ。あれだけ慕っている兄に対して――いや、慕っているからこそか?」
朧は動悸が高鳴るのを必死におさえて、やっとの思いで絞り出すように答える。
「………何をおっしゃりたいのか、よくわかりません」
すると、永久もらしくなく嘆息をついて布団に寝転がって、いつもの鷹揚な調子で言う。
「だな。俺もおまえに何を言いたいのかが、その……よくわからん。ただまあ、あんまひとりで抱え込まねぇでくれって話さ。おまえも樰永もな……」
「……はい。ありがとうございます叔母様」
そして、ごめんなさい。こんなこと誰にも、それこそ兄様にだって話せません……!




